第59話 報せ

 15歳になった秋月冬陽は、兄を驚かすべくキッチンに立っていた。


 兄である夏樹からすれば、冬陽がキッチンに立っているだけで、その後の片づけに恐怖して腰を抜かすのだが、別に冬陽はそんなつもりでそこに立っているわけではない。


 腰まで伸びた黒髪を後ろで纏め、兄が使っている青いエプロンを勝手に拝借し、冬陽は今日三度目の失敗に意気消沈し、さめざめとフライパンを洗っていた。


 IHの横には、黒焦げになった三枚のフレンチトーストが、安置された焼死体のように並べられている。


「うむむ、おかしい。おかしいわ。これは今世紀最大のミステリーよ、何かの間違いよ」


 ゴシゴシゴシと、怒りと理不尽を全てフライパンにぶつける。


「なんで焦げるの!? なんでふわふわにならないの!? なんで甘くないの!?」


 夏樹が出かけてから1時間半。冬陽はフレンチトーストを作るべく料理に励んでいた。


 しかし、不器用なのか、それとも元の冬陽に料理スキルを全て奪われたのか、冬陽は一向に料理が上達する気配が無かった。


 前進も後退もしていない。何度やってもも同じ結果になるのだ。


「……なによ。なにか運命力でも働いてるの? もーっ! いつになったらお兄ちゃんをぎゃふんと言わせられるのよー!」


 努力が実らないせいで、冬陽のイライラも最高潮に達している。彼女は乱暴にフライパンを水で洗うと、キッチンタオルで適当に拭いて片付ける。


 次に、冬陽は三枚の焼死体パンを一つにまとめると、緑色のドラッグストアでもらったレジ袋に包み、さらにレジ袋の口をセロハンテープで開かないように加工する。

 最後に、それをゴミ箱ではなく45リットルのゴミ袋に放り込む。これで後始末は完璧だ。余程のことがなければ夏樹にはバレないはずだ。


 リビングに戻った冬陽は、テレビの前に置かれたデジタル時計に目を通す。


 時刻は10時45分。どうやら、若菜に見苦しいところ見られずに済んだようだ。


「ふーっ。さてと、若菜さんが来るまで何してようかなー」


 掃除機もかけたし、出迎えの準備は万全だ。若菜が来るまでテレビでも見ていようかとリモコンに手を伸ばした時だった。


 ――プルルルル。家の固定電話が鳴った。


 夏樹だ。冬陽は直感で思って、眉を顰めた。

 いつも夏樹は、何か用があると固定電話に電話を掛けてくる。今までにも何度かそんなことがあった。


 大体は「ちゃんと風呂掃除したか?」とか「家庭教師の宿題やったか?」とか「お前またキッチン汚してないだろうな?」など、大したことない用件だったりする。


 今度もきっと「お前、若菜ちゃんが来る前に部屋を汚してないだろうな?」などと小言を言うに違いない。


 冬陽は気乗りしないまま、四コール目に受話器を取った。


「はい、もしもし。秋づっ――ええっと、春野ですが?」


 そうだ。ここは秋月家ではなく春野家だ。そろそろ毎回間違える癖を何とかしたい。


『あっ。ああ、俺だ』


 聞こえてきたのは、聞き慣れた夏樹の声。だからこそ、冬陽のテンションは急降下だ。


「……なに? また小言? 言っておくけど、ちゃんとリビングは掃除したからね?」


 小言を言われないように、冬陽は先手を打つ。しかし、夏樹は黙ったままだった。


「……? なに? どうかした? だんまりして……」

『いや、その……お前に、伝えないといけないことがあるんだ』

「伝えたいこと?」


 なんだろうか。冬陽は首をかしげる。


 夏樹は少し間を開けると、ゆっくりと冬陽に言った。


『落ち着いて聞いてくれ、冬陽。実は、薬が完成したみたいなんだ。今、日本に輸送しているらしい。明日の夕方には、医療センターに届くって……』


「えっ……」


 危うく、冬陽は受話器を落としそうになった。


 何も考えられない。目の前が真っ白になる。


 夏樹も電話の向こうでそれを察したのか、十分に間を開けてから続けた。


『それで、言いにくいことなんだが、担当医は現時点でのお前の意志を聞きたいらしい』


「……わたしの、意志。わたしの――」


 強張った表情のまま、冬陽はその言葉を繰り返す。


 もう少しだけ、先になると思っていた決断の時。それが今、目の前に叩きつけられた。


 どう返事をしたらいいか分からない。声の出し方すら、忘れてしまったようだ。

 何も考えられない。今の秋月冬陽の人生。その白い人生の道が、目の前で奈落に落ちて途切れている。


 その道の奈落の前に大切な人が立っている。でもその人は、本当に自分の味方なのだろうか。


 冬陽は後悔した。あの時、冬陽は夏樹の本当の気持ちを聞くことを拒んだ。そのせいで、今自分は揺れている。


「わ、わたっ、わたしは……わたし、は――」


『……無理するな。こんなこと、急には答えられないだろ。十分に考えて、それから聞かせてくれ。15時には帰る。だから……若菜ちゃんに相談でもしてみろ。あの子なら、お前の気持ちも分かってくれるはずだ』


 それだけを言うと、夏樹は通話を切った。


 その後の冬陽を襲ったのは、形容しがたい恐怖の渦だった。


 薬が届いた。それが意味するところは、自分を処刑するためのギロチンの準備が整ったということに他ならない。


 ペタンと、冬陽はその場に座り込んでしまう。


 冬陽はふと、夏樹が傍にいないことに寂寥感を覚えた。しかし、同時に冬陽はこの場に夏樹がいないことに安堵もした。


 もし夏樹と一緒にいる時にこの話をされたら、冬陽は再び家を飛び出していただろう。


 夏樹の本当の気持ちが分からない。もし隣に彼がいたら、自分は彼をどう見ていただろうか。傍にいてほしい人に見えるだろうか。それとも、死刑執行人に見えるだろうか。


 分からない。もう、嫌だ。考えるのが、嫌だ。


 このまま、何もせずに腐っていきたい。腐って、ずぶずぶになって消えたい。そんな考えが冬陽の頭を侵食していく中、――ピンポーン。と、インターホンが室内に鳴った。


 冬陽は、ゆっくりと玄関の方を見上げた。瞬間。冬陽の脳裏に、土管の中で見た若菜の柔らかい笑みが浮かんだ。


 そうだ、若菜さんなら。冬陽は弛緩しきった手足をなんとか動かして立ち上がった。


 若菜はいつも助けてくれた。自分が苦しい時、悲しい時、怒っている時だって。


 この痛みも、苦しみも、本当に分かってくれるのは同じ病気を患っている若菜だけだ。若菜だけが、本当に自分を理解してくれる人なのだ。


 ふらつきながらも、冬陽は廊下を抜けて玄関に辿り着く。この光を遮る扉の向こうに、自分を導いてくれる若菜がいる。


 冬陽は裸足のまま、玄関を開け放つ。


「若菜さん!」

「――ども……」


 瞬間。冬陽の思考が停止した。

 目の前にいたのは、限りなく若菜に近い誰かであった。

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