第53話 対決
「――っ、水橋!?」
夏樹は水橋の姿を視認すると、冬陽の横を通り過ぎて水橋の前に立ち塞がった。
両手を広げて、冬陽を自分の背中に隠す。
「お、お兄ちゃん!?」
「冬陽、遅れてごめん。色々言いたいことはあるけど、今はあいつからお前を守る」
キッと正面を睨みつける。
目の前には、自分より体格の良い上級生が自分を睨みつけている。
怖かった。しかも、目の前の男は冬陽のストーカーだ。冬陽を手に入れるためなら、どんな手を使ってくるかわからない。
加えて夏樹は、生涯で一度も喧嘩をしたことがない。それが更に、彼の足を震わせた。
「おいおい。さっきから呼び捨てにしたりあいつ呼ばわりしたり、ずいぶん偉いんだな。なあ? 春野夏樹くんよぉ?」
「なんで、俺の名前を――」
「知らねえわけねえだろう。それよりも、この前は大変だったなあ。小さくなった冬陽の世話は、さぞかし大変だっただろうよ」
夏樹は、水橋の言葉に絶句した。
「お、お前! ど、どうしてクランのことを……」
「オレはなァ、お前と違って、冬陽のことは何でも知ってるんだからよォ。しっかし、てめえが冬陽のことを何も知らねえクソで助かったわ。おかげで、ああやってクラスのど真ん中で、冬陽がオレの物だって自慢できたんだからよォ」
三白眼で睨み上げてくる水橋には、先日の好青年っぷりは微塵も感じなかった。きっと、こちらの水橋が本性なのだろう。
あまりの動揺に、目が泳いでしまう。
「なあ、ちょっと退いてくんねえかな? オレは後ろの冬陽に用があんだからよォ」
水橋の、語尾に力が籠った声。思わず震え上がりそうになる。
「……こ、断ります。生憎、子供の時に冬陽を守るって決めたんで」
「……チッ。たかだか一緒に住んでるくらいで調子に乗りやがって……」
水橋の白けた視線が、夏樹に突き刺さる。
その視線が、夏樹はたまらなく嫌だった。
中学時代、クラス中が夏樹をその目で見た。こいつが冬陽の傍にいると楽しくない。近くにいるだけで不快だ。そんな目だ。
その目を見ると、心が欠けて足が竦みそうになる。
だから、だから――
「……なんで、俺が引き下がらなきゃならないんだ」
――そこで弱気になる自分が許せなかった。
「お前らは、揃って俺に同じこと言うよな? 一緒に住んでるくらいで調子に乗りやがってだって? ふざけんな! 冬陽はお前らのものじゃねえ! 俺のものだ! 誰にも渡してやるもんか! 俺は、秋月冬陽が好きなんだ! お前なんかに渡してやるもんか!」
叫ぶ。恐怖を蹴散らすために、叫び続ける。
ここで引き下がったら、中学時代と同じだ。周囲の視線に負けて冬陽と距離を取った、あの頃の弱い自分と一緒だ。
それは嫌だ。乗り越えるんだ。そう決意して、夏樹は後ろを振り返った。
怯えた表情の冬陽が、夏樹を心配そうに見上げている。
そうだ。今の冬陽は、自分の運命に立ち向かっている。日記の騒動から、彼女は過酷な選択を迫られながらも、こうして前を向いて選ぼうとしている。自分のことをお兄ちゃんと呼んでくれる存在が、残酷な現実に立ち向かおうとしているのだ。
なのに、兄である自分が前に進んでやれなくてどうする!
「ギャーギャーうっせえなァ。せっかくだからてめえにも忠告してやるよ。その女は男を不幸にする。運よくお前が冬陽と付き合えても、結局冬陽がお前を不幸にするぞ?」
それは元の冬陽に向けた呪いの言葉。冬陽をクランという奇病に陥れた悪魔の囁きだ。
「そんなことないわよこのクズ!」
だが、それはあくまで元の冬陽に対する呪いだ。
今の冬陽は臆することなく、夏樹の隣に立って水橋の言葉を切り裂いた。
「お兄ちゃんは――春野夏樹は、必ずわたしを幸せにしてくる! 必ずわたしを守ってくれる! だからあんたなんか、これっぽっちも怖くないんだから!」
先ほどまでの怯えは鳴りを潜め、今の冬陽はいつもの気の強い、わがまま冬陽に戻っていた。冬陽もまた、もう一人の自分の呪いを克服しようとしているのだ。
「な、にっ」
水橋は慄いて、冬陽たちから一歩遠ざかった。どうやら、自分が植え付けた呪いが効かないことに驚いたらしい。
ふと、動揺する水橋の瞳が夏樹を捉えた。直後、水橋の白目に血管が浮き出た。怒りに体を震わせて、水橋は夏樹を睨み上げた。
「てめえ……オレの冬陽に何をしやがったァ!」
虎のような咆哮。水橋の怒りが肌で伝わってくる。だが、冬陽が隣にいてくれるだけで自然と怖くはなかった。
冬陽も同じ気持ちなのか、彼女はニコリと水橋に向けて笑った。
「何をしたかって? いいわ、教えてあげる。お兄ちゃん、いや夏樹は――」
冬陽は自慢げに言うと、サッと隣の夏樹の頬に手を添えると、彼の唇めがけて――
――ちゅっ。っと自分の唇を重ねた。
水橋だけではなく夏樹まで目を剥いて固まった。
そんな中、冬陽は満足げに夏樹から唇を離すと、唖然とする水橋を睥睨した。
「――夏樹は、わたしを夏樹の女にしてくれたわ」
「て、てめえオレの冬陽に何してくれてんだぶっ殺してやる!」
一瞬で逆上した水橋は、突如夏樹目がけて突っ込んできた。
猛牛のような一直線の突進。しかし、その突進を阻む声が、水橋の背後から響き渡った。
「こらっ! そこで何をしている!」
聞こえてきたのは野太い男の声。しかし、水橋はそれを無視して夏樹に掴みかかった。
胸倉を掴まれた夏樹の目の前で、水橋が拳を握る。そして、涙で顔を濡らす水橋が、怒りと嫉妬のままに拳を振り下ろそうとした瞬間。
「やめなさい! 何をしてるんだ水橋!」
先ほどの声の主である体育教師が、後ろから水橋を羽交い絞めにした。
「やめろ! 邪魔だこの野郎! どけェ! ぶっ殺してやる春野夏樹ィィィィ!」
ぎりぎりと体育教師が羽交い絞めにされながらも、水橋は肘打ちをして教師の剛腕から逃れようと必死でもがいている。
「は、春野くん!」
名前を呼ばれて、夏樹は振り返った。
「小日向! すまん、助かった!」
大きな胸を揺らして、小日向が二人の元へやって来る。
「さ、三階から冬陽ちゃんを見つけたんだけど、水橋先輩がいたから先生を呼びに行ってたの。でも、よかったあ。冬陽ちゃんのことは、きっと春野くんが助けてくれるって信じてたから」
息を切らしながらも、小日向は事情を説明する。小日向の冷静な判断に、夏樹は救われたのだ。
「痛っ! いい加減にしろ水橋! 教師に暴力を振るんじゃない!」
「うるせえ! こいつが! こいつがオレの女を盗りやがったんだああぁぁああっ!」
水橋が吠える。その様子を夏樹と冬陽の二人は、一歩引いて見ていた。
まるで、痩せた犬のようだ。涎を流し、血走った眼で二人を睨み上げる水橋を見て、夏樹はそう思った。
そんな時。自分の隣にいた冬陽が、一歩前に出た。
「お、おい! 冬陽何してんだ! 危ないぞ!」
「大丈夫。だって、お兄ちゃんがいる。それだけでわたしは、無敵になれるんだから」
小さく微笑んだ冬陽は、背中まである長い黒髪を靡かせながら、猛り狂う水橋の前で立ち止まった。
ふーっ、ふーっと。教師に羽交い絞めにされた水橋の荒い息だけが聞こえる。
冬陽は、美しく細い人差し指をスッと水橋に向けた。
「……あなたは、誰にも好かれない。愛されない」
「な、なにを――」
「自分のことしか考えないあなたは、決して誰からも愛されないわ」
「や、やめろ……」
「どうせ、あなたがわたしに言い寄っていたのも、皆の人気者であるわたしの中で、自分が特別な存在になりたかっただけなんでしょ? 本当は、わたしの中で自分が特別な存在になりさえすれば、彼氏だろうとストーカーだろうとどっちでもよかったんでしょ?」
「やめろ、やめてくれ……」
水橋はまるで、薬物中毒者のように痙攣を起こし始めた。
「でも残念ね。あなたの願いは叶わないわ。だって――」
痙攣する水橋の耳元で、冬陽はそっと囁いた。
「――わたし、初めからあなたなんかに興味は無かったんだから」
冷たい。全てを見透かしたような氷のような表情で、冬陽は嗤った。
水橋は、白目を剥いてその場に倒れた。
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