第36話 土管の中で

「元の冬陽のこと、ですか?」


 冬陽は、若菜の言葉をおうむ返しする。


「うん。どれくらい知ってるの? 一度、全部口に出してみて」


 そう言われても、元の冬陽に関することは日記に記されていることしか知らない。

 いや、知ってはいる。けれど、それを言葉にするのは難しかった。


 雨の音だけが土管の外から聞こえてくる。きっと若菜は自分が話し出すまで黙っているつもりなのかもしれない。仕方ないので、冬陽は知っている限りを話した。


「どれくらいって、お兄ちゃんと幼馴染で、一緒に住んでいて、わたしと違って大人しい人で……お兄ちゃんに好かれてるのに、告白されて倒れちゃうような人」

「他には?」

「他にはって。でも、お兄ちゃんが書いてた日記にはこれくらいしか書いてなかったし」


 言い訳がましく冬陽が言う。すると若菜は、自分のこめかみの辺りを人差し指でとんとんと叩いた。


「覚えてなくても、感じることとかあるんじゃない?」


 きっと、若菜にも似たような経験があるのだろう。だから、冬陽が言っていない記憶の中に残っている元の人格の残滓の事が分かるのだ。


 本当に、この人には敵わないな。冬陽はそう思って、素直に口を開いた。


「えっと……、この公園は来たことあるみたい。靴飛ばしをしたとか、シーソーで遊んだとか。誰かと来ていたような気もする、かも」

「うんうん。他に、そういうことはなかった?」


 若菜に言われるまま、冬陽はぼぉっとした感覚を思い出していく。


「お兄ちゃんが服を脱ぎっぱなしにしてたりすると、いらいらする……けど、なんでか自分が片付けないとって思うことはあったかも。片付けてみると、なんだか嬉しくて……。変な気持ちだったけど、あれは元の冬陽の気持ちだったのかも」

「ふんふん」


 冬陽の言葉に相槌を打つ若菜。一方、冬陽は「むむむ」と唸って今までにあった違和感を思い出していた。しかし、いよいよ出詰まったのか、小難しい顔をしながら黙りこくってしまった。


 それを待っていたかのように、若菜は冬陽の横顔に向かって言った。


「ねえ、冬陽ちゃんはお兄さんのこと、どう思ってるの?」


 一瞬、冬陽の顔が真っ赤になった。かと思うと、すぐに曇った表情に戻った。


「……今は、嫌い」


 こんなことがあった以上、同じ気持ちのままいることは難しい。それは若菜も分かっていたのか、すぐに質問を変えた。


「それじゃあ、前は?」

「えっ?」

「この前の話。日記を読む前はお兄さんのこと、冬陽ちゃんはどう思ってたの?」


 ニコリと微笑みながら若菜は言う。その様子は少し、いやかなり楽しそうだ。

 冬陽はこの表情を知っていた。恋バナをする女子の目だ。ドラマで見た。


 言いたくない。と思いつつ、言わないとダメなんだろうなあとという諦めもあったので、観念して冬陽は口を開いた。


「すっ、好きでした」

「どういうところが?」


 やたら突っ込んでくる若菜に、冬陽はドヒャーッと飛び上がった。


「どっ、どういうとこって……! そんなの今関係なくないですか!?」

「関係あるよ? だからほら、教えて教えて?」


 目を輝かせながら次の言葉を待つ若菜に、冬陽は「もーっ!」と叫んだ。


「ど、どこが好きって、優しいところとか……わたしを見てくれてるところとか」


 言ってると、どんどん顔が赤くなってきていることに気が付いた。体は雨に濡れて凍えているというのに、耳と顔だけが茹でられたかのように熱い。


 そんな冬陽を横で楽しそうに眺めていた若菜は、ついつい零してしまう。


「冬陽ちゃんは可愛いなあ」

「かっ、可愛くないですっ! 何言ってるの若菜さん!」


 猫のように髪を逆立てんばかりに怒る冬陽に、若菜は笑いながら謝った。


「ごめんごめん。でも、その気持ちは羨ましいなあ。ボク、異性を好きになったことはないからね」


 困った表情の若菜を見て、冬陽の表情が曇った。


 若菜は知らないのだ。男性を好きになるという気持ちが。クラン症候群という病気の中で生まれた彼女は、恋を知らなかったのだ。


 だからこそ、普段落ち着いている彼女がここまで冬陽の話に食いついて来たのかもしれない。そう思うと、冬陽は若菜を邪険にはできなくなってしまった。


 冬陽の様子を見て、いらぬ気遣いをさせてしまったと気付いた若菜は、苦笑した。


「ああ。あんまり気にしないでね? 別に彼氏が欲しいとかじゃないんだ。お兄さんを取ったりする気もないから安心してね?」

「そ、それは気にしてませんっ」


 と言ったものの、冬陽の視線は若菜の一点に注がれた。


 たわわに実った、ふたつの大きな果実に。


 冬陽の表情が、今度は雷鳴轟く曇天の如く険しく曇った。


「……やっぱり、気にします。おっきいのは、許さないんだから」

「えっ。何を怒ってるの? おっきいって何のこと?」


 一方、若菜は何のことを言ってるのか分からないといった様子で小首を傾げる。

 冬陽は自分の胸を見て溜息を吐いた。


 ……小さくはないし、無くはない。でも、隣のたわわには到底太刀打ちできない。

 無言で落ち込む冬陽。若菜はそんな彼女をどうしたらいいか分からなかったが、無理矢理話を本題に戻した。

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