第35話 支える者の葛藤
冬陽は、河川敷にはいなかった。
念のために、夏樹は河川敷にあるテニスコートから川と並走しているランニングコースを3キロほど走って捜しまわったが、それでも冬陽の姿は見つからなかった。
もしかしたら、雨のせいで増水した川に流されたのかもと思ったが、濁流と化した川の流れは急過ぎて、近付くことさえできなかった。
「くそっ!」
張りつく前髪が鬱陶しくて、夏樹は悪態をついた。
既に冬陽を捜しに河川敷へ来て三十分ほど経っているが、冬陽の姿はどこにも見当たらない。この雨だ。冬陽はきっと、寒さで凍えているに違いない。
早く見つけないと。もう一度川の上流の方から捜しに行こうかと思った、その時。
見覚えのある紺色の傘が目に入った。
「はっ、春野くーん!」
息を切らせてこちらへ向かってきたのは、制服姿の小日向だった。
よく見ると、茶色のローファーから白のソックスまで雨でびしょ濡れだ。きっと学校からずっと走って来たのだろう。彼女の普段は整っている髪も、今は毛先が少し濡れている。
肩を上下に動かし、膝に手を着いて息を整えている小日向。そんな彼女に、夏樹はいてもたってもいられなくなって言った。
「小日向。丁度よかった、来てもらってすぐで悪いんだけど、一緒に冬陽を捜し――」
「ふ、冬陽ちゃんならっ……若菜が見つけてるよ」
「えっ。ど、どこで!?」
「はぁっ、はぁっ……。えっと、マンションを出て、すぐの公園――」
「分かった! ありがとう!」
冬陽の居場所を知った夏樹の行動は迅速だった。ほぼ反射的に走り出す。
「まっ、待って!」
そんな彼の後ろ姿を、小日向が息も整わぬまま叫んだ。夏樹が急停止する車のようにつんのめった。
苛立たしそうに、夏樹が振り返る。
「なんだよ! まだ何か――」
「冬陽ちゃんに会って、どうするつもりなの!?」
その一言が、夏樹の頭を急速に冷やした。
家出した冬陽の居場所は分かった。若菜もそこにいる。なら、自分がすぐさま駆け寄る理由はない。冬陽は無事だ。
雨の音が、見つめ合う二人の間に溶けていく。
「……どうするって、俺が冬陽を守ってやらないといけないんだ! あいつは、まだ外のことを何も知らない!」
動揺する夏樹に、辛うじて顔を上げた小日向が言った。
「私は、二人の間に何があったか知らない。けど、このまま冬陽ちゃんに会って、春野くんは何て言うの? なんて声をかけてあげるの? それが分かってもいないのに冬陽ちゃんのところへ行くのは止めた方がいいよ!」
正論に次ぐ正論。だが、夏樹はここでじっとしていられなかった。
逸る気持ちが、小日向への敵意に変わる。
「そんなの、俺の勝手だろ。小日向には関係ない――」
「あるよっ! 私は、自分と同じ過ちを春野くんにしてほしくないのっ!」
絞り出すような小日向の叫びに、夏樹は瞠目した。
「私は、若菜がクラン症候群を知った時、思ったことのままを言ったの。『どんなことがあっても、私は若菜のお姉ちゃんだよ』って。深い意味なんてなかった。ただ、私は若菜の味方だって伝えたかった」
傘の内側で、小日向が俯いた。
「でも、若菜は『ボクに姉さんのフリをして近付くな。ボクにもう一人の若菜を重ねるな。本物の妹に出来なかったことを、善意ぶってしようとするな』って。それが引き金になって、若菜は家出しちゃったんだ。その時、私は改めて思ったの」
小日向は、辛そうな表情で顔を上げた。夏樹と視線が合う。
「ああ、私って本当に無力なんだなって」
心の底から掬い上げたようなか細い声に、夏樹の胸は痛んだ。
同じ気持ちになったことが、夏樹にはある。
自分や小日向には、冬陽や若菜を救うことは出来ない。何も、してやれないのだ。
「……だったら、どうすればいいんだよ」
夏樹は、振り絞るように叫ぶ。
「俺は、どうすればいいんだよ! 今の冬陽と元の冬陽、どっちを選べばいいんだよ!俺は、二人の好きな女の子のどっちを選べばいいんだよ!」
無力を嘆いて、夏樹の視線が地面に落ちる。でこぼこのアスファルトの窪みに、落ちる雨粒が波紋を立たせた。
どちらが好きか。それはつまり、どちらを消すか。ということだ。
もし、薬が届いた場合。その薬を使って今の冬陽を消すか。それとも、今の冬陽を選んで元の冬陽を消すか。それを今選べと夏樹は言われているのだ。
今、自分は二人の冬陽の生殺与奪の権利を持っている。そう思うと、簡単に言葉は出てこなかった。
「……ねえ、春野くん」
向こうから聞こえたのは、小日向の声だった。
「あの担当医の人が言っていた言葉、覚えてる?」
一瞬だけ、夏樹は口を噤んだ。だが、すぐに口を開いた。
「……『精神だけでなく肉体までも変わってしまった存在は、果たして本物の秋月冬陽といえるのか?』 だろ?」
「うん。その言葉……春野くんにとって、どう映った?」
小日向の真意が、夏樹にはよく分からなかった。だから、彼は自分が感じたままを口にする。
うるさくて、元気な子犬のように小さい冬陽。元の冬陽の小さい時とは大違いだ。
思春期で、へそを曲げた猫のような13歳の冬陽。こっちはもっと違う。
どう見ても赤の他人だった。それこそ、本物の秋月冬陽などとは呼べない。
しかし……。
「……俺には、今の冬陽が元の冬陽と別の存在だとは、やっぱり思えない」
何度も思おうとした。けど、無駄だった。
「性格も見た目も違う。でも、根っこの部分では同じような気がするんだ」
二人の冬陽はあまりに違う。違うはずなのに、何故か感じる既視感。
「なんていうか、言葉にしにくいんだけど……今の冬陽は、元の冬陽にもあるはずの行動とか感情が強い気がするんだ。我がままをいったり、八つ当たりしたり正反対なことばかりしてる。だから、別の存在というより、元の冬陽が表であれば、今の冬陽は裏みたいなものなんじゃないかって、思う」
頭の中で整理するように、夏樹は思うまま話した。それを、小日向は前髪から滴り落ちる雨粒すら気にせず、真剣な眼差しで聞いていた。
「……それじゃあ、春野くんは冬陽ちゃんになんて言うつもりなの?」
小日向の問いかけ。それに、夏樹は素直に答えた。
「そうだな。俺は秋月冬陽が好きだ。元とか今とか関係ない。俺はずっと、秋月冬陽が好きなんだって伝える。冬陽の道は、冬陽が決めるんだ。俺は、それを支えてやる」
自分たちは無力だ。冬陽や若菜といったクラン症候群の少女たちを、本当の意味で助けてやることは出来ない。
でも、傍にいて支えてやることは出来る。心の支えになることは出来るんだ。
毅然とした夏樹の表情。小日向はそんな夏樹の顔を見て……少し寂しそうに笑った。
「……うん。今はそれが一番いいと思う、かな」
そう言うと、小日向は少し視線を下げて顔を背けた。夏樹は一度だけ、鼻を啜る音が聞こえたような気がした。
「こ、小日向? 大丈夫か?」
思わず声をかけてしまう。よくよく考えれば、彼女はずっと雨に濡れたまま自分たちに付き合ってくれていたのだ。鼻を啜ったということは、もう風邪をひいてしまっているのかもしれない。
小日向は夏樹を心配させまいと顔を上げると、ぶんぶんと顔を左右に振った。
「う、うん! 大丈夫だよ! それより早く、冬陽ちゃんのところに行こ!」
「あ、ああ。そうだな。小日向はどうする? そのままじゃ風邪ひいちまうぞ?」
「いや、わたしも行くよ。きっと、向こうも決着がついてるだろうし……大事な妹の決めたことだもん。見届けてあげたいの」
先程とは違う、少し寂しそうな小日向の表情。一体、二人の姉妹の間にどんなやり取りがあったのだろうか。それは分からないが、彼女がそう言うのなら夏樹に彼女を止める権利はない。
「ああ。そうだな。早く、あの二人のところに行ってあげよう」
「うん!」
二人は、篠突く雨の中を走って土手を駆け上がる。
二人の視線に、迷いはなかった。
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