第34話 若菜は冬陽に語る

「わ、若菜、さん?」


 傘を折りたたんで土管に入って来たのは、パーカーを着た若菜だった。

 若菜が冬陽の隣にやって来る。ザリザリと、土管の底に溜まった砂が音を立てた。


「ん。心配したんだよ? ほら、まずはこれで顔を拭いて?」


 差し出されたベージュのタオルを、冬陽は反射的に受け取ってしまう。そのタオルは、何度か使われたのか少し湿っていた。


 冬陽は、少しだけタオルを見つめると、泣き腫らした赤い瞳で若菜を見つめた。


「……お兄ちゃんに言われて、連れ戻しに来たんですか? 言っておきますけど、わたし絶対に帰らないですよ?」


 冬陽の鋭い目を見て、若菜はようやく自分を見つめる冬陽の視線が猜疑の目であることに気付いた。


「あはは」若菜は小さく笑うと首を横に振った。


「違うよ。ボクはいつでも冬陽ちゃんの味方だよ。お兄さんは関係ない」

「それじゃあ、どうしてわたしが家出したことを知ってるんですか? お兄ちゃんに会ったんじゃないんですか?」

「会ったよ。多分、冬陽ちゃんが玄関を出てすぐの廊下の敷居を越えて、駐輪場の屋根から一階に降りて公園へ向かった後かな。エントランスの前で右往左往するお兄さんと会ったよ。あんまりにも慌ててたから、間違って違う場所を伝えちゃった」


 若菜には全て筒抜けだった。それもそのはず。冬陽と若菜は、あのマンションを探検し尽くしているのだ。階段とエントランスを通らずに一階に降りる方法も、そうして見つけ出したものだった。


 それにしても、若菜には敵わない。冬陽は諦めて嘆息した。


「はあ。お兄ちゃんを騙しちゃったんだ。でも、そんなことまでして若菜さんは何がしたいんですか?」


 怪訝そうな冬陽の視線に、若菜はウインクした。


「先輩としてのアドバイス、かな」


 アドバイス。そう言われて思いつくことは一つだけだ。


「……若菜さんも、本当にクラン症候群なの?」

「うん。そうだよ」


 特に悩んだ様子も無く、若菜は頷いた。あまりにもあっけからんと言うものだから、質問した冬陽自身が呆気にとられてしまう。


 若菜は、そんな冬陽の顔を覗き込んだ。柔らかい匂いが、冬陽の鼻腔をくすぐった。


「ん? どうしたの? 何かおかしなこと言った?」

「あっ、いや、その。変な言い方だけど、怖くないのかなって思って」


 自分がクラン症候群であると知っているということは、自分が誰かの紛い物で、いつかは消えてしまうかもしれないと知っていることに他ならない。


 だったら、何故若菜は笑っていられるのだろうか?


 だったら、何故若菜はそんな過酷な運命を受け入れられているのだろうか?


 若菜は、土管の内側に背を預けた。


「怖いよ。でも、ボクは元のボクに知ってほしいんだ。ボクという存在がいたってことを。そして、ボクの存在を通して、また家族と仲良くなってほしいって。だから、ボクは怖いけど消えてもいいって――いや、消えたいと思ってる。元のボクが消えて、悲しむ人だっているだろうからね」


 悲しむ人。その言葉に、冬陽の表情は曇った。


 元の秋月冬陽が消えて悲しむ人は、自分のすぐ傍にいるのだから。


 でも、認めたくなかった。自分を差し置いて夏樹と親しくする人間がいることが、冬陽には我慢ならなかった。


 若菜の言葉を振り払うように、冬陽は頭を振って声を荒げた。


「自分より、他の誰かのことを優先するんですか? そんなのおかしい! 若菜さんは若菜さんだし、わたしはわたしっ! 他の誰でも――」

「うん。冬陽ちゃんの言うことも一理ある。でも、それは少し違うよ」


 冬陽の叫びに、若菜が声を上げた。


「冬陽ちゃんには元の冬陽ちゃんがいるし、ボクにも元の若菜がいる。ボクと元の若菜はコインの表と裏なんだ。どちらが欠けても、コインとして成立しない。表がコインとして存在するためには、等しく裏が必要なんだ」


 若菜の言いたいことは分かる。いや、本当はよく分かっていないのかもしれない。けれど、ここで引き下がりたくはなかった。


「……でも、コインが表にひっくり返っちゃったら、裏のことを誰も見てくれなくなるじゃないですか! 若菜さんは、それでいいの!?」


 鼻水を垂らして、目を真っ赤にしながら冬陽は叫んだ。


 否定されている気がした。夏樹にも、そして同じ病気を持つはずの若菜にさえ。まるで、自分だけがおかしいと言われているような気がした。自分のような紛い物が生きるのは間違っていると。


 分かってほしかった。若菜にだけは、この気持ちを分かってほしかった。


 若菜は乱れた冬陽を少しの間だけ見つめると、ポケットからハンカチを取り出して彼女の頬を伝う涙を拭った。


 ふわふわして、柔らかかった。


「……ボクも、初めは受け入れられなかったよ。むしろ、怖かった。あんなに大好きだった家族に殺されてしまうって思ったよ。……姉さんのことも、信じられなくなった」


 冬陽の涙を拭いた若菜は、懐かしむように言った。


「ボクは姉さんやお母さんお父さんが大好きだった。みんなも、そんなボクをいい子だ可愛い子だって言ってくれた。けど、それが全部崩れ去った。姉さんたちはボクに向かっていい子だと言ってくれると思ってたけど、本当は僕の裏で眠ってる本物の若菜に向けて言っていたんだって。それでボクは、今の冬陽ちゃんみたいに家出をしたよ」


「えっ。わ、若菜さんが、ですか?」


 冬陽は瞠目した。あの優しく大人びた若菜が、そんなことをするなんて想像もつかなかったからだ。


 若菜は、驚く冬陽に苦笑した。


「まあね。ボクだってか弱い女の子だしね。それで、河川敷まで行ったよ。でも、知っている人も建物も無くてね。夕方で人通りもあったのに、まるで暗闇の中に独りぼっちでいるみたいで、すごく心細かった。それで恨んだよ。元の小日向若菜をね。お前のせいで、ボクが辛い目に遭う。お前さえいなければって。でも、恨んでいる内に疑問に思ったんだ。そもそも、ボクが恨んでいる元の若菜って誰なんだ――って」


 若菜が、じっと冬陽の瞳を見つめた。冬陽は濡れた前髪を張りつかせて、眉を少し顰めていた。次の若菜の問いかけが、分かりきっていたからだ。


 若菜はそんな冬陽の様子を懐かしみながら、言った。


「ねえ、冬陽ちゃんはさ? 元の冬陽さんのこと、どれくらい知っているの?」

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