第31話 走れ。今すぐに

「くそっ……! あいつ、外のこと何も知らないくせに飛び出しやがって!」


 冬陽を外に連れて行ったことは数えるほどしかない。彼女にとって、外の世界とは未知の領域のはずだ。早く連れ戻さないと、事故や事件に巻き込まれてしまう可能性もある。


 焦燥のまま、急いで通路を走り階段を降りた。エントランスを抜けてマンションを飛び出した夏樹だが、そこに冬陽の姿は無かった。


 周囲を見渡すが、雨のせいで視界が白くぼやけ、遠くまで見渡せない。


「……おかしい」


 夏樹は、篠突く雨を頭から被りながら呟いた。

 見失うのがあまりにも早すぎる。もしかすると、冬陽はどこか違う場所へ向かったのかもしれない。


 激しい雨の中、夏樹だけがポツンと取り残される。冷たい雨に打たれながら立ち尽くしていると、夏樹の頭の中には様々な疑問が渦巻いた。


 どうしてこうなった? 何故担当医は冬陽に真実を伝えたんだ? 知られたくなかったのに。知ったら冬陽が悲しむのに。どうして……


 いや、違う。冬陽が悲しむから真実を隠した? そんなのは言い訳だ。自分の弱い心を善いものに見せようとする建前に過ぎない。


 夏樹は先程の冬陽の問いに答えられなかったことで、ようやくそれを理解した。

 自分は目を背けていたのだ。今の冬陽に、お前を選ばないと告げることに。


 だから知らせなかった。知っても悲しいから。今の冬陽を選ぶことなんてないのだから。


 全部自分の都合だ。彼女のことなど考えていない。

 あの時の衝動的な告白から、何も成長していない。


「……俺は、最低だ」


 グッと拳を握った。不甲斐なさで胸が張り裂けそうだった。

 そんな時。前方から見知った少女が傘を差してやって来た。


 少女はずぶ濡れの夏樹に気が付くと、驚いて夏樹の元へ駆けてきた。


「ちょ、ちょっとお兄さん! なにしてるんですか!? 風邪引きますよ!?」


 背伸びをして、夏樹をピンク色の傘の中に入れたのは、トートバックを持った若菜だった。若菜は慌ててトートバックの中からタオルを取り出し、それを夏樹の頬に当てた。彼の顔を拭いてあげるつもりだったのだろうが、夏樹の曇った表情を見て、ついその手を止めてしまった。


「……もしかして、何かあったんですか?」


 心当たりがあるような声音で、若菜は訊いた。


「……冬陽のやつがさ、家出しちゃったんだよ。どうしてだと思う?」


 自嘲気味に、夏樹は笑った。もう、夏樹の中には次の言葉が浮かんでいた。若菜は困惑し、何も返さない。そこで自分は言うのだ。『俺が、冬陽を傷付けてしまったからだ』と。


 しかし、夏樹の予想は外れた。


「分かってますよ。あの担当医に、クランのことを喋られたんですよね?」


 予想外の返事に、夏樹は暫し瞠目してしまった。


「えっ……。なんで、そのことを――」

「分かりますよ。ボクも同じ経験がありますから」

「えっ? 同じ経験って……」


 どういうことだと困惑していると、若菜は咄嗟にスマートフォンをズボンのポケットから取り出すと、誰かに電話を掛けた。


「お兄さん。先に謝っておくことがあります。ボク達は、今まで何度か探検と称して外に内緒で遊びに行ってました。ごめんなさい」


 それはきっと、自分たちが学校で授業を受けている時の話だろう。若菜は続ける。


「それで、ある時テニスコートの近くで冬陽ちゃんに訊いたんです。もしお兄さんと喧嘩したら? って。そしたら冬陽ちゃんは『その時はこの河川敷で、心配してきたお兄ちゃんを引っ叩いてやるわ。ドラマみたいにね』って言ってました」


 河川敷……。その言葉に引っかかる場所は市内に一つだけだ。

 市内の北西部を流れる一級河川時雨川。その河川敷に違いない。それもテニスコートとなると、ここから走ったら十分もかからない場所だ。


「ありがとう、若菜ちゃん」

「いいえ。ボクもお姉ちゃんと合流したら、そちらに向かいます。先に行っていてください。――あ、お姉ちゃん?」


 どうやら小日向が電話に出たらしい。夏樹は電話をする若菜を置いて走り出した。目指す場所は河川敷のテニスコートだ。


 会ってどうするかは分からない。でも、自分の勝手で真実を伏せていたことを、まずは謝りたかった。


 夏樹は全力疾走で河川敷のテニスコートへ向かう。特に信号に引っかかることもなく、河川敷に到着した。


 しかし、雨で白く霞む河川敷に、冬陽の姿は無かった。

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