第30話 正体

「なっ――」


 夏樹の、日記だった。

 ドクン。と、心臓が嫌な高鳴り方をした。口の中が乾いて、息をするのも忘れてしまう。


 頭の中で、何故? どうして? どうやって? と思考が洪水のように氾濫する。突然のことで何が起こったか分からない。そんな夏樹が辛うじて出したのが……


「……何、言ってんだよ」という掠れた声だった。


 ここで黙っていたら冬陽の言葉を肯定してしまう。そう思った夏樹は、混乱のままに続けた。


「元の冬陽って、なんだよ? 元も何も、冬陽はお前のことじゃ――」

「いいよ。嘘つかなくても」ぴしゃりと冬陽が言った。


 冬陽はテーブルから降りた。彼女の背丈が、頭二つ分下がる。


「わたしね、全部あのお医者さんから聞いたんだ。お兄ちゃんの書いてる日記に、本当の事が書いてあるって。お兄ちゃんの気持ちも、そこに書いてあるって。保管場所も聞いた。どうやって開けようか考えてたけど、お兄ちゃんも不用心だね。鍵、閉め忘れたよ?」


 そこでようやく夏樹は自分の失態に気付いた。


 冬陽に急かされて、日記を保管していた引き出しの鍵を閉め忘れていたのだ。

 いや、そんなことよりも……


「なんで、担当医あいつが冬陽にそのことを――」

「知らない。でも、あの人のおかげで、わたしは自分が何者なのか分かったわ。クラン症候群のことも……。それから、お兄ちゃんと元の冬陽が好きだってことも……全部」


 ギロッと。今度は怒りと糾弾の意志を孕んだ視線が夏樹を縛り上げた。


「ねえ、お兄ちゃん。もう一度だけ訊くよ? ……わたしと元の冬陽。どっちが好き?」


 どちらかを選べと、冬陽は言う。

 だが、夏樹は選べなかった。

 選ばなくてはいけないのに。選択の余地などないのに。選ぶ方は決まっているのに。


 目の前の秋月冬陽を見ると、その答えを告げる勇気が霧散する。

 自分の本心を告げるということは、彼女の存在の否定に繋がる。

 お前が邪魔だ。消えろ。そう言われたように今の冬陽は感じるだろう。

 だから、言えない。


「……っ」


 決して、目の前の冬陽が嫌いなわけではない。むしろ手間のかかる妹のような存在で好きだ。だが、それは元の冬陽に対する感情とはまた少し違うものであって……


 頭の中でぐるぐると言い訳を連ねる。冬陽が最後に尋ねて何秒、何分、何時間経ったのか分からない。

 ふと、冬陽がきゅっと唇を噛んだ。


「もう、いい……。お兄ちゃんが何も言わないってことは、そういうことなんだね」


 冬陽の漆黒の瞳から、透明な涙が流れ落ちた。


「……わたし、元の冬陽が嫌い」


 鼻を啜る度に冬陽の肩が揺れる。彼女の小さく白い掌が裂けんばかりに握られ、赤い拳に変わる。


「お兄ちゃんに好かれてるのに、距離を置く冬陽が。お兄ちゃんに想われてるのに、それに気付かなかった冬陽が! 好きって言ってもらったのに、それにショックを受けてわたしなんか生み出しちゃう冬陽がっ! わたしは嫌いっ!」


 ドンっ! 冬陽がリビングにあるテーブルを思い切り叩いた。非力な冬陽の、精一杯の攻撃。それは、彼女の拳を痛めただけに過ぎなかった。それでも、その鈍い音が夏樹の心に鋭く突き刺さる。


 赤く泣き腫らした瞳で、冬陽は再度夏樹を睨み上げる。そして、不気味に口角を上げた。


 冬陽の肩が小刻みに揺れる。だが、それは先程の揺れとは少し違った。


「く、くふふっ。あはははははっ!」


 冬陽は、笑っていた。


 もう、夏樹には彼女がどうしてしまったのか分からなくなった。


 冬陽はひとしきり笑うと、お腹を押さえて屈んだ。


「……わたし、消えたくない」


 屈んだまま、冬陽は右手をフローリングの床についた。


「お兄ちゃんにとって、わたしは邪魔なんだよね? 大好きな冬陽に、目の前の女のせいで会えないもんね。わたしのことなんか、消えてしまえって思ってるよね?」


 瞬間。夏樹の頭に血が上った。


「――っ! んなわけあるかっ! 俺はお前のことが大切だ! 消えてほしいと思ったことなんて一度も――」

「でもっ! お兄ちゃんは元の冬陽が好きなんでしょ!?」


 冬陽の絶叫にも似た声に、夏樹は押し黙ってしまった。

 夏樹は根っからの正直者だった。誤魔化そうとしたものの、結局は嘘を吐けない。

 冬陽は、その反応で何かを察したのか、再度笑った。


「あ、はは……。もう、いい。お兄ちゃんなんか知らない」


 足元に落ちていた日記に手を置いて、それを自分の方へと引きずる。


「確か、この日記に書いてあったよね。精製された薬を期限以内に服用しないと、わたしは元の冬陽には戻れなくなるって……」

「冬陽。お前、一体何をする気――」

「――わたし、消えたくない。死にたくない。渡す、もんか」


 ぐぐぐっと。冬陽が体を縮込ませる。その様子はまるで、それは圧迫されたバネが縮みこむかのようだ。


「元の冬陽に、この身体は渡さないっ! わたしが、本物の秋月冬陽になるんだからっ!」


 その絶叫と同時に、屈みこんでいた冬陽が駆け出した。


「ふ、冬陽っ! お前――」

「いやっ!」


 冬陽が、持っていた日記を夏樹に投げつけた。冬陽を逃がすまいと腕を広げていた夏樹は、飛んできた日記から顔を守るために反射的に腕を曲げた。


 その隙をついて、冬陽はリビングから廊下へ抜け、そのまま靴も履かずに玄関を飛び出してしまった。


「くそっ! 待て、冬陽!」


 その後を追う夏樹は、廊下を走った。既に冬陽の姿は玄関の向こうだ。こちらも玄関を飛び出したが、その時点で家の前の通路に冬陽の姿は無かった。

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