第19話 大作戦
結局、夏樹は小日向と共に中高生に人気のレディースの店に行き、そこで一着のワンピースを買った。
こんなもので気を紛らわせて、本当の仲直りなんてできるのだろうか。今でも懐疑的な夏樹だったが、小日向に言われるまま帰路に着く。
若菜からのメールによると、冬陽は家にずっといたらしい。
マンションのエントランスを抜けて、階段を上がる。
玄関の扉を開けて、中へと入る。
「ただいまー……って、臭っ……!?」
夏樹と小日向を出迎えたのは、冬陽と若菜ではなく強烈な悪臭だった。
何かを焦がした……いや、燃やしたような強烈な臭い。換気扇をつけるのも忘れているのだろうか、部屋の中は尋常じゃない程の悪臭が漂っていた。
けれど、その臭いは夏樹にとって懐かしいものでもあった。
急いで廊下を抜けてリビングへと向かう。ドアを開けると、二人の少女が台所で走り回っていた。
「若菜さん! フライパンが焦げちゃった! また洗わないと!」
「やっぱり、油じゃなくてバターのがよかったかもね」
「食パンって、まだありましたっけ!?」
「んー、今のが最後みたいだね。どうする? ボクが買いに行こうか?」
「い、いいや! 若菜さんには手伝ってもらってばっかりだから、わたしが行きます!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人の少女。しかし、夏樹たちが帰って来たのが分かったのか、こちらを見てすぐさま固まった。
「……た、ただいま」
「……お、おかえり」
夏樹と冬陽が、互いにぎこちなく挨拶をする。
何をしてるんだと問い詰める必要はなかった。このリビングを見ればわかる。
台所には放置された砂糖を入れたビンや卵のパック。一方、リビングのテーブルには、取り込んで畳まれている最中のシャツや学校の制服。床には出しっぱなしの掃除機の姿もあった。
「……」
冬陽は夏樹から視線を逸らして、ばつが悪そうに俯いている。
どう話しかけたもんか。夏樹もまた黙ってしまう。
気まずい沈黙。やがて、冬陽がぼそっと口を開いた。
「と、トイレのこと……だけど」
「トイレ?」
こくり、と。冬陽が頷いた。
「トイレの扉、薄いのか知らないけど……中の音が洗面所には漏れるんだよね。音が、ほら……その聞こえるというか」
顔を真っ赤にして冬陽が言う。夏樹も顔が真っ赤になった。
「だから、今朝わたしは脱衣所の外で待ってたの。知らないところで聞かれてるの知ったら、お兄ちゃん恥ずかしいって思うかなーって。なのに、お兄ちゃんってば『ションベンの音なんか気にしない』って……。今でもそう思う?」
「思いませんこれっぽっちも!」
自分はなんと軽率なことを言ってしまったのか。ようやく納得がいった。
夏樹は、冬陽の台詞が自分を遠ざけるために言った嘘だと思っていた。思春期の女の子は、そう言って身内の男を遠ざけるものだと。だから売り言葉に買い言葉で怒ったのだ。
でもそれは間違いだった。トイレの音は、本当に漏れていたのだ。
耳まで真っ赤にした冬陽を前に、夏樹は即座に頭を下げて――
「ごめん! 冬――」
「黙ってお兄ちゃん! まだわたしが話してる!」
ぴしゃりと、冬陽に止められた。
「……はい。すみません」
男夏樹、完全にペースに乗せられていた。
「まだ謝らないで。わたしが……わたしが先に謝る」
冬陽は、周囲を見渡す。散らかったリビングだ。
「……わたし、何もできなかった。お料理も、服の畳み方も、綺麗な掃除のやり方も、全然わからなくて……。お兄ちゃんが、どれだけ毎日頑張ってくれてたのか、全然知らなくて……だからその、ごめんなさい」
ぺこり、と。冬陽は頭を下げた。
最初、冬陽は完全にグレてしまったと思っていた。だが、それは間違いだ。
冬陽は、最初からちゃんといい子だ。
「いいって。俺こそ、悪かった。言い過ぎちまったし、何よりデリカシーに欠けてた。本当にごめん。これからは、ちゃんと冬陽を女の子扱いするよ。約束する」
「お、女の子扱いって……そんなの、別にしなくていいし」
耳の先まで真っ赤になった冬陽は、ぷいっとそっぽを向く。
そんな冬陽に、夏樹は今日買ったワンピースが入った袋を差し出した。
「なに、これ?」
冬陽は小首を傾げる。
「仲直りの印だ。受け取ってくれるか?」
ニコッと笑って夏樹は袋を差し出す。それを見て、冬陽もニカッと微笑み返した。
「うんっ。仕方ないから受け取ってあげる」
冬陽が袋を受け取り、中身を取り出して広げた。
夏樹が選んだ白のワンピース。ノースリーブで、腰には藍色のリボンがワンポイントになっている。スカート丈は膝ほどで、露出も控えめで着やすそうだ。
「わーっ! わたしの服だー!」
夏樹のジャージを着た冬陽が、両手を挙げて喜ぶ。
その姿は六歳だったときと変わらず、向日葵のように明るかった。
「お兄ちゃん、ありがとっ!」
ワンピースを広げると、自分のサイズに合っているか確認してくるっと一回転。早速近くにいた若菜に自慢している。
夏樹の隣で、小日向がニコっと微笑んだ。長い二つくくりが揺れる。
「ほら、言った通りでしょ? 冬陽ちゃんなら、絶対喜んでくれるって」
「ああ。そうだったな。本当に良かった」
これからも、冬陽と一緒に暮らしていける。そう思うと、素直に小日向の案に従っていて良かったと思える。彼女には感謝してもし足りない。
リビングでじゃれ合う二人の少女を眺めながら、夏樹は小日向に向き直ると、もう一つの小さな袋を小日向に差し出した。
「小日向。何度も助けてくれてありがとな。これ、ささやかだけど……俺の気持ちだ」
「へっ? あ、ありがと……な、なんだろう」
小奇麗に包装された箱をそっと小日向は開けた。
中から出てきたのは、綺麗なネックレスだった。
華美ではないが落ち着きのある美しさがあり、中央にはイロハモミジの形をした朱色のガラス細工がついている。
「わーっ……! かわいいー! あ、ありがと春野くん。でも、これ高かったでしょ?」
興奮冷めやまぬといった様子で問いかける小日向。夏樹は困ったように苦笑した。
「まあ、確かに冬陽のワンピースより高かったかな」
瞬間。空気が、凍った。
ワンピースを眺めていた冬陽と若菜も、そして先ほどまで顔を赤くして喜んでいた小日向も。夏樹を除く全員が、その事態に動きを止めた。
ただ一人、男の夏樹だけが気づかない。
「でも、それくらいの恩が小日向にはあるし、受け取ってくれないか? ……って、どうした?」
小日向が気まずそうに視線を逸らして俯くので、不思議に思った夏樹は「あっ」と声を漏らした。
小日向の肩に手を置いて、微笑みかける。
「大丈夫。小日向なら絶対似合うよ。元々お前は可愛い方だしな」
今まで暖かかった場の雰囲気が、まるで薄氷を思い切り踏みつけたかのようにバリバリと砕けていく。小日向は静かに息を飲んだ。
彼女の視界には、頬を膨らませてワンピースを握り締める冬陽の姿が写っていた。冬陽に背を向けている夏樹は、それに一切気づいていない。
そして次の瞬間。右手を思い切り振りかぶった冬陽が、断罪の如くそれを振り下ろした。
「お兄ちゃんのバカーっ! 何にも分かってないでしょーっ!」
側頭部を強襲された夏樹は、そのままばたんきゅぅっと床に倒れ付して……夜まで起きなかった。
一連の流れを見ていた若菜は、嘆息して一言。
「お兄さん、本当にデリカシーが無いね」
と、呆れ気味に呟いた。
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