第20話冬陽と夏樹の、何気ない会話

冬陽が大きくなってから、一週間と四日が経った。


 冬陽が大きくなって数日の間、夏樹は朝起きる度に冬陽の症状が進行しないか不安で仕方なかった。しかし、その心配は一週間を過ぎるころには薄れていた。


 今では、掃除洗濯を冬陽が。食事を夏樹が担当して日々の生活を送っている。


 ある火曜日の夜。初挑戦の肉じゃがを振る舞った夏樹は、冬陽の「食べられなくはなかった」という感想に確かな手ごたえを感じ、上機嫌のまま皿洗いをしていた。


 少しずつだが、料理スキルは上がっている。最初はフレンチトーストすら作れなかったが、今や彼の料理レパートリーは八を超えた。この調子でどんどん色んなものを作れるようになりたい。夏樹は既に立派な主夫への道を歩み始めていた。


 今の冬陽にねだられて買ったウサギの絵がプリントされた茶碗を拭き終え、戸棚に戻す。そんな時、リビングで冬陽が言った。


「ねえ、お兄ちゃん。わたしって、どうして学校に行けないの?」


 学園もののドラマをぼーっと見ていた冬陽が、チラッと夏樹の様子を伺った。


 夏樹は、沸いたお湯を麦茶ポットに入れながら「どうしてって……」と言いつつ、ポットの蓋を閉じた。


「若菜ちゃんから聞いてるだろ? お前らの病気は、簡単なものじゃないんだ。小さい時から病院に通ってるのも覚えてるだろ?」

「覚えてるけど……。でも納得いかない」


 冬陽は複雑そうな顔をしてぶーたれる。

 夏樹は若菜に協力してもらって、冬陽に架空の病気を患っていると嘘をついていた。学校に行けないのも、病院に通っているのもその病気のせいだ。冬陽はそう思っている。


 冬陽は頬を膨らませて不機嫌モードになると、ジッと夏樹を睨む。


「……わたしだって、お兄ちゃんみたいに学校行きたい。食堂の安い学食が食べたい。修学旅行に行きたい。体育祭や文化祭だってしたい。部活もしたい」

「勉強をしろ、勉強を。家庭教師だって雇ってるだろ?」


 そう。冬陽が学校に行きたいとゴネるのは、これが初めてではない。夏樹なりに、冬陽の我がままを聞いているつもりだ。だが、やはりクラン症候群である以上、普通の学校に通わせるわけにもいかない。寝ている時だけに大きくなるのならまだしも、授業中やトイレの間に大きくなったらさすがに大騒ぎになる。故に家庭教師を雇って勉強させることで、らしさを感じてもらうことにしたのだ。


 しかし、冬陽はすごい。担当医が基本的な記憶は保持したままだと言っていたが、まさか元の冬陽が覚えていた英単語や化学式まで完璧に操るとは夏樹も思わなかった。


 現に、今雇っている家庭教師は高校二年生の勉強を教えている。


「むーっ。お兄ちゃんのバカ。勉強なんて家でも出来るもん」


 冬陽の目線の先で、二人の少女を中心にクラスメイト達が文化祭の成功を祝っていた。低視聴率のドラマは、どうやら今週が一番の盛り上がりらしい。


 会話が途切れた。その隙を狙ったかのように、オール電化の風呂がお湯張りの終了を告げた。


「風呂沸いたから、先に入れ。俺はちょっと休憩してから入るから」

「ん。わかった」


 ドラマがエンドロールに入った。冬陽はキリが良かったのか、立ち上がるとそのままリビングを後にする。

 だが、しばらくすると着替えを胸に抱えた冬陽が、扉から顔だけを出して戻ってきた。


 何故か少し顔を赤くして、こっちをジロッと睨んでいる。

 夏樹と目が合った。夏樹は自分なりに意図を探ると、軽口を叩いた。


「なんだ? また前みたいに一緒に入るか?」

「は、はァ!? 何言ってんのヘンタイ! ばっかじゃないの!? キモイよ!」


 烈火のごとく罵詈雑言を夏樹にぶつけた冬陽は、怒りのままに扉を閉めた。

 バタン! と大きな音がリビングに響き渡る。

 残されたのはCMを吐き続けるテレビの音と、夏樹だけだった。


「フッ……。キモイ、か」

 つい先週まで『お兄ちゃん大好き!』と、子犬のようにじゃれついて来た冬陽を思い出し、夏樹はほろっと涙を流した。


「……きっついなあ」


 きっと、年頃の娘を持つ全国のお父さんたちは、この痛みにずっと耐えているのだろう。そう思うと、彼らに敬意を払いたくなる夏樹だった。


 夏樹は冬陽がリビングに戻ってくるまで、ずっと椅子の上で膝を抱えた。

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