第17話 行き場のない怒り

 目を覚ました夏樹はトイレに行き、用を足してから頭をシャキッとさせようと洗面所に向かった。


 両手で水を掬い、顔を洗面台に近付けて思い切りぶっかける。

 冷たい。視界の上から水が滴ってくる。鏡を見ると、前髪がかなり濡れていた。


「……デカく、なってた」


 大きくなることは予想していた。その覚悟もある程度できていた。

 しかし、いざ直面するといささか以上に動揺した。


 大きくなるということは、冬陽に絡みついた爆弾の導火線が、それだけ短くなったことを意味する。


 そして、その導火線は今の冬陽が16歳になることによって爆発する。そうなると、元の冬陽は二度と戻ってこれなくなる。


 自分の好きな女の子が、消えてしまう。


「小日向の話だと、もう少しゆっくり成長するって聞いていたのに……」


 昨日まで6歳だった冬陽は、今や13歳だ。たった一日で倍以上の歳を重ねてしまった。


 まだ、薬が届くまで一か月もかかるというのに……。

 例えようのない不安が、夏樹の心にとぐろを巻く。

 今の自分に出来ることは、他にないのだろうか?


「……くそっ」


 焦るだけで、何も思いつかない。焦燥感と不安だけが先行する。

 すると、ぺたぺたと背後で足音がした。その足音が、夏樹の背後で止まる。


 夏樹は顔を拭くと、振り返った。自分より頭一つと半分ほど低い冬陽が、夏樹を怨敵でも見つけたかのような鋭い視線で睨み上げていた。


「……どいて」


 最後通牒とでも言いたげな声音。ちなみに、今の彼女は夏樹のジャージを借りている。もう昔の服は着られないからだ。


 さらっとした黒髪はセミロングに伸びており、同様に身長も頭二つ分ほど伸びている。13歳……中学一年生と言われても納得できる外見だ。


 昨日まで『兄ちゃん大好きー』と言ってくれていたとは、到底思えない。


「なんでだよ。お前も顔洗うのか?」


 何故か、夏樹の不安は冬陽を見ることで苛立ちに変わっていた。


「はぁ? 違うよ、トイレ。音聞かれたくないから、こっから出てけって言ってんの」


 苛立っているのは冬陽も同じようで、彼女の言葉にも棘があった。

 相手の棘が、自分の棘に触れる。それが両者の苛立ちを助長させる。


「お前のションベンの音なんかどうでもいいっつーの。そもそも、お前のションベンの音を耳を澄ませて聞く趣味もない」

「……キモッ。お兄ちゃんさあ、そんなんじゃ女の子にモテないよ?」


 何気ない発言だったのだろう。だが、それが夏樹の神経を逆なでした。

 元の冬陽が倒れてから、彼の心はまだ癒えきっていない。


「あァ? んだとお前?」

「何? ほんとのこと言っただけじゃん。キモイからこれ以上関わらないでくれる?」


 冷めきった冬陽の言葉。

 一方、夏樹の思考は完全に沸騰しきっていた。


「てめっ……一人じゃ何もできないくせに」

「何言ってんの? 何もできないのはお兄ちゃんでしょ? フレンチトーストすら作れなくて、カレーも楓さんに手伝ってもらってさぁ? ほんと、笑っちゃうよ」


 キレた。


「……なら、お前が全部してみろよ。掃除も、洗濯も、飯も、全部お前がやってみろよ!」

「あー、はいはい。全部やるから、そのかわりお兄ちゃんは一日どうぞお外で遊んできてくださいな。じゃ・ま・だ・か・ら!」


 蔑むような冬陽の視線。それを捨て台詞のように向けると、冬陽はトイレに入った。壊れるんじゃないかと思うほどの音を立てて扉を閉める。


 一方、夏樹の苛立ちも頂点に達していた。何故あそこまで言われなくてはいけないんだ。ふざけんなムカつくやつだ。


「あーそうかよ! だったら、お望み通り出て行ってやるよ! そのかわり、掃除と洗濯と夕飯の準備、任せるからな!? ちゃんとやっとけよ!?」


 夏樹は捨て台詞のように言い残すと、そのまま自室へと戻った。

 そして着替えて財布を持つと、スマフォをカバンに突っ込んだ。


 どうして自分がこんなに苛立っているのか。どうしてこんなことになったのか。何も分からないまま、夏樹は漠然とした怒りから家を出た。



 しかし、いざ外に出たものの、やることが無かった。

 時刻は午前10時半。土曜日だからか、駅前には若者の姿が目立った。


 友人にメールをしたものの、仲の良い友人は皆部活や他の友達と約束があった。古本屋で時間を潰したが、正直言って冬陽が気になって読書どころではなかった。


 確かに冬陽が気になるのだが、夏樹は帰ろうとは思わなかった。夏樹は頭を冷やして分かっていた。自分の苛立ちの正体は、冬陽が大きくなったことに対する不安からくるものだった。


 大きくなった冬陽を見てしまうと、タイムリミットが近づいていることを否応にも分かってしまう。だから、あんな売り言葉に買い言葉な言動をしてしまった。


 だから、しばらくは帰ることはできない。もう少し、頭を冷やさないと。


「でも、これからどうしようか……」


 何気なくメールを開く。友人たちからの断りメールの下に、小日向とのメール履歴があった。それは連絡先を教えてもらった後、確認のために送ったメールの返信だった。


「……んー」


 その画面を睨んで夏樹は唸る。

 小日向にこれ以上迷惑をかけたくないが、正直言って今の冬陽くらいの女の子というものを夏樹はよく分かっていない。


 昔の冬陽に反抗期というものはなく、家事も進んでやってくれて家族間の仲は良好だった。だがそれは、冬陽自身が春野家の人間であろうと頑張っていたからではないかと、夏樹は思っている。


 今の冬陽と昔の冬陽を比べるつもりはない。だが、そうすれば今の冬陽を知る手がかりが見つかると思ったのだが、それは無理だったようだ。


「……俺って、何にも知らないんだな」


 夏樹はそう呟くと、恩人である小日向に救援のメールを送った。


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