第16話 大きくなった君は

「……ふがっ」


 鼻に何か細い糸のようなものが当たって、夏樹は目を覚ました。


「んぐっ……朝か」


 右手で目を擦ろうとして、右腕に冬陽が巻き付いているのを思い出して左手で擦った。


 しかし何故だろう。今までは右腕だけだった拘束感が、何故か股下辺りまで伸びている。


 どんなアクロバティックな寝相なのだろうと思った夏樹は、首を右へと向けた。


「……は?」


 そこで夏樹は瞠目した。一瞬で、眠気などブラジル辺りまで吹き飛んでしまった気がした。


 知らない女が、隣で寝ていた。

 ぼさぼさだが冬陽より長い髪。顔が小さくて、鼻も小さい。白い肌で華奢、巻き付いてる腕からは余計な肉はついてないことが分かる。


 夏樹の全身が硬直する。関節なんて初めからなかったかのように動かない。


 一体一晩で何が起こったんだ? まさかUFOに連れ去られたのか? 実はここは宇宙船の中で、俺と彼女が実は地球最後の男女で、宇宙人が滅ぼした人類の飼育に乗り出したとか……。にしても、この子昔の冬陽に似てるなあ……。


 それがトリガーになった。脳の処理が、急速に進んでいく。


「ま、まさか……ふ、冬陽なのか?」


 問いかけるが、冬陽は答えない。当然だ。まだ寝ているのだから。

 冬陽が大きくなっていた。どれだけ大きくなったかは分からないが、六歳でないことだけは確かだ。脚が伸びて、夏樹の股下まで伸びている感覚がある。


『本当に一晩で大きくなるから、こっちもびっくりだよぉ』との、小日向の言葉が蘇る。


「……本当にびっくりするなぁ。これは……」


 未だに驚きが隠せない。これがクラン症候群の特徴か……。


 夏樹がようやく落ち着いた時、再び鼻に糸のようなものが当たった。

 ぴょんと跳ねた冬陽の寝癖が、夏樹の鼻にかかる。チクチクして、やがて……


「ぶえっくしょん!」


 クシャミが出た。

 すると、冬陽がビクッと震えて、もそっと目を覚ました。


「……」


 半目の冬陽が夏樹を睨む。同時に、右半身の拘束が解かれた。

 ギシっとベッドが軋む。冬陽が上半身だけを起き上がらせた。


 ぴょんと四方に跳ねたセミロングの黒髪。細い眉に、半目の二重の瞳は不機嫌そうだ。そして、6歳の時に着ていたパジャマを、冬陽は前を開けてジャケットのように素肌の上から羽織っていた。そのせいで、控えめながらも確かに膨らんだ胸がちらちらと覗いていた。体つきは細めで余分な肉などついていない。冬陽は、この歳独特の健康そうな体つきに成長していた。


「……よ、よう。おはよう、冬陽」


 ひとまず挨拶を済ませる夏樹。だが、冬陽は返事をしない。

 むしろ、眉間にしわを寄せていた。見下ろす視線には、明らかに侮蔑の色がある。


「え? ええっ?」


 何故睨まれてるのか分からない夏樹が狼狽する。やがて冬陽は右手をゆっくり挙げた。


「お兄ちゃんのヘンタイっ! 何わたしの布団に潜りこんでんのー!」


 振り下ろされる右手が、夏樹の頬を捉えた。手のスナップが効いている。ものすごく痛かった。


 しかしそれだけでは終わらない。ビンタの応酬は続く。夏樹の頬を右に左に連続で襲い続ける。


「バカっ! アホっ! ヘンタイヘンタイヘンタイっ!」

「痛っ! おい! ちょっとっ! なんの話だ――って、痛い痛い痛いっ! わかった!俺が悪かった! だからやめっ――痛い痛いっ! お願いします止めてください!」


 とにかく謝り続ける。すると、感情の暴風域を抜けたのか、ようやく冬陽は手を挙げるのを止めてくれた。


 しばらく互いに睨み合う。互いに言いたいことがあるのに訊けない状態のまま膠着する。


 やがて頬の痛みも止まぬまま、意を決した夏樹は不審げな目を向けて冬陽に訊いた。


「……冬陽、お前今いくつだ?」


 嫌な予感がしてならない。冬陽は自分の頭を押さえつけていたが、その手を離した。


 ぴょんと、重力に逆らう寝癖が天を衝く。


「……何言ってるの? 13歳だよ、わたしは。お兄ちゃん、寝ぼけてるの?」


 不機嫌そうに冬陽は言いきった。

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