第13話 動揺

「あっ。着替えてきたんだね。フライパン、洗っておいたから」


 戻ってくると、客人であるはずの小日向は流し台で洗い物をしていた。

 そんな彼女を、夏樹は慌てて制止した。


「こ、小日向はお客さんなんだから、洗い物なんてしなくても――」

「いいからいいから。私、家事なら得意だから。このフライパンは大分焦げてるから、居ても経っても居られなくなって……あっ、迷惑だった、かな?」


 急に不安になったのか、小日向がオロオロと狼狽する。夏樹は慌てて首を横に振った。


「そ、そんなわけない! 大助かりに決まってるじゃないか!」

「……ほんと?」

「ああ。もちろん! 俺一人の力じゃもう限界だったところなんだ! 正直助かったよ!」


 必死にフォローを加えると、ようやく小日向の表情が和らいだ。


「そ、そうかなぁ? よかったあ、春野くんの役に立ててー」


 にへらーと、心底嬉しそうな小日向を見て、夏樹も思わず微笑んでしまう。


 本当のところは、できるだけ小日向には頼りたくなかった。何故なら、冬陽がクラン症候群になったのは、全て自分のせいなのだから。だから無関係の小日向を巻き込みたくない。夏樹はそう思っていた。けれど、こうして助けてくれるとすごく嬉しいのもまた事実だ。今の自分では、朝食すらも満足に作れないのだから。


「……にーちゃーん?」


 小日向の助けにほっこりしていると、真下からむすっとした機嫌の悪い声が聞こえた。


 視線を落とすと、つまらなさそうな顔をした冬陽が、いつの間にか夏樹と小日向の間に立っていた。


「むーっ、兄ちゃん! 何デレデレしてるの?」

「は、はぁっ!? で、デレデレなんてしてねーよ!」

「うそだーっ! だって兄ちゃん、小日向姉ちゃんのおっぱいみてデレデレしてたもん! ふゆひ見たもん! ふゆひもぼいんぼいんになりたいーっ!」

「ひょぇっ!? は、春野くん!?」


 驚いた小日向が、サッと夏樹に背を向けた。


「ち、ちげーよ! 変な誤解されるだろうが! んなことより、なんでお前にそんなこと言われなきゃなんねーんだ!」

「だって兄ちゃんはふゆひの兄ちゃんだもん!」


 目を真っ赤にして冬陽は叫んだ。


「だって、だってだって! ふゆひは兄ちゃんのこと好きだもん! もっとふゆひのこと見ててほしいもん! 兄ちゃんがふゆひのこと見てくれなかったら……ふゆひ、ふゆひね――ひぐっ、うええええええええっ! にいちゃんのばかあああああああっ! ふゆひもぼいんぼいんになるもんーっ! 兄ちゃんの好きなぼいんぼいんになるもんーっ!」

「ちょっ、冬陽!? お前意味分かって言ってんのか!?」


 冬陽の涙腺ダムの決壊は早く、言い終わるよりも早く泣き出してしまった。彼女は顔を真っ赤にして、溢れる涙も気にすること泣き続けた。


「えっ、ちょ……冬陽! 悪かった! ごめん! えっとその、あーもう小日向のおっぱいを見てごめん! 本当に申し訳なかったと思ってる! だから泣き止んでくれぇー!」

「ひゅいっ!? や、やっぱり私のおっぱい……見てたんだ」


 夏樹の問題発言に、冬陽と同じく顔を真っ赤にした小日向は、へなへなと床に座り込んでしまった。


「あっ! 違うんだ小日向! これは冬陽を泣き止ませる方便で本当に見たわけじゃ――」

「まったく、お兄さん。騒ぎを大きくしてどうするんですか……」


 夏樹の混乱もピークに達しようとしていた、その時。騒ぎを見かねた若菜が夏樹の横に立った。


 若菜はまず、狼狽えて座り込んだ小日向に一言。


「姉さん。姉さんみたいな胸の大きい人は、男性に見られる宿命にあるんです。諦めてください」

「しゅ、宿命!? あ、あうあうあう……」


 追い打ちをかけただけだった。

 姉のケアは終わったとばかりにしゃがみ込むと、若菜は泣きじゃくる冬陽を抱きしめた。


「冬陽ちゃん。冬陽ちゃんは、姉さんにお兄さんを取られそうになって怖かったんだよね? 大丈夫だよ。お兄さんは、どんなことがあっても冬陽ちゃんのことが一番大好きだから。ね? そうでしょ? お兄さん?」


 若菜の目配せに、夏樹はヘドバンをするギタリストのように高速で頷く。

 それを見た冬陽は泣きじゃくるのを止め、夏樹に訊いた。


「ひぐっ、兄ちゃん……冬陽のこと世界で一番好き?」


 チクリ、と。夏樹の胸が痛んだ。不意に担当医の言葉が蘇る。

『精神だけでなく肉体まで変わってしまった存在は、果たして本物の秋月冬陽といえるのだろうかね?』

 今は考えるな。夏樹は、脳裏に響いた声を強引に掻き消すように叫んだ。


「もちろん! 冬陽が一番大好きに決まってるじゃないか!」

「……ぐすっ、それじゃあ小日向姉ちゃんは? 何番?」

「えっ? そ、それは……に、二番かな?」

「ふええっ!? 私、二番目なの!? 私、二番目でいいの!?」


 へたり込んでいた小日向の顔が再び沸騰する。それを妹の若菜は無視して、冬陽の頭をゆっくりと撫でた。


「ほら。お兄さんはちゃんと冬陽ちゃんのことが大好きだって。だから安心して、お兄さんの帰りをボクと一緒に待っていようね」

「……うん。ずびっ……待ってる」


 潤んだ目をゴシゴシ擦った冬陽は、鼻をズズッとすすって夏樹を見上げた。


「兄ちゃん……。早くがっこーから帰ってきてね? ふゆひ、ちゃんと待ってるから」

「……ああ。学校が終わったらすぐ帰ってくる。走って帰ってくる。約束だ」


 頭を優しく撫でて、夏樹は微笑んだ。

 学校が終わったら、一目散に帰ってこよう。家には、可愛いちびっ子が自分を待っているのだから。


「兄ちゃん、やくそくね!」


 冬陽が夏樹に向かって小指を見せた。夏樹はクスッと笑うと、冬陽の小さく細い小指に自分の小指を絡めた。


 指切りげんまんなんて、いつ以来だろう。夏樹は、遠い過去を思い起こす。

 記憶の中では、目の前の冬陽にそっくりな女の子が、同じように微笑んでいた。


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