第9話 初体験

 翌日。夏樹は朝五時に起きた。この時間に起きるために、わざわざ昨日のゲームの時間を削ったのだ。おかげで、育てているキャラは進化できずにいる。


 しかし、リアルの危機にはゲームの中断も致し方ない。スマフォのアラームが鳴る前に起きることができたところからも、自分のモチベーションの高さが伺える。


 寝たままスマフォで時間を確認。時刻は五時五分。ちゃんと起きることができた自分を、まずは褒める。偉いぞ、夏樹。

 そして、勢いをつけて起き上がろうとして、グイッと何かにそれを遮られた。


「ん? ……ああ、そうだった」


 自分の右腕を見る。そこには、コアラよろしくチビ冬陽が腕に巻き付いて眠っていた。


「むにゃっ……くー」


 幸せそうに口を開けて寝ていて、口端からは涎が垂れている。気のせいか、夏樹にはその表情が笑っているようにも見えた。


 昨日の晩。夏樹は冬陽に部屋を提供した。今日からそこが自分の部屋だと伝え、自分は自室で寝ようとした。だが、やはりというか、冬陽は枕を持って夏樹の部屋にやって来た。理由は勿論「一人が怖いよぉ……」だった。


 この根は怖がりで寂しがり屋な性格は、元の冬陽に似ていた。元の冬陽もこの家に来た直後は一人で眠れず、よく夏樹と一緒に寝ていたものだ。

 そんな冬陽の姿を懐かしく思いつつ、夏樹は彼女の柔らかい髪をそっと撫でた。


「……ごめんな、冬陽」


 罪悪感を感じつつ、夏樹は冬陽をそっと剥がした。そして、彼女が起きないようできるだけ物音を立てずに部屋を出る。


 廊下に出て左折。リビングに出て左折。そしてキッチンへと辿り着く。

 流し台には、昨日食べた出前のラーメンのどんぶり。それを見て、夏樹は決心した。


 このままじゃいけない。出前や外食では出費がかさむ上、栄養も偏ってしまう。自分一人なら自己責任でいいが、今はちび冬陽もいる。元の冬陽に戻った際に、今までの食生活が悪影響を及ぼしていてはいけない。

 ここは、自分が料理をするしかない。


「よし、やるぞ……初めての自炊だ」


 長袖のシャツを捲り、口元を引き締めて夏樹は意を決した。

 昨晩。夏樹は翌日の朝食を自分で作るべく、レシピをネットで調べた。


 熟考した結果。腹が膨れ、尚且つ朝食の初級と言っても過言ではないフレンチトーストを作ることに決めた。


 調べてみると、どうやらフレンチトーストはパンを牛乳と卵に浸すだけで作れる簡単なものらしい。それなら自分でもできる。夏樹はブラウザを見るだけで勝利を確信した。


 自分の作ったフレンチトーストを口に運んで、喜んでくれる冬陽の姿が目に浮かぶ。


『おいしーっ! これ、兄ちゃんが作ったの!?』

『兄ちゃんはすごいんだねっ! だいすきっ!』


 頭の中で、冬陽が賞賛の嵐を巻き起こす。


「ふっふっふ。待ってろよ冬陽。絶対驚かせてやるからな!」


 そう宣言して、まずは冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。そして用意したボウルの縁に卵を軽くぶつける。


 こんこんこんこん……

「ん。力加減がよく分からないな――ほい」

 ――こんこん……ぐしゃっ


 卵の頂頭部が破損。砕けた殻ごと、中身がボウルへと滑り込んでいく。


「ああっ! やっちまった! 早く殻を取り除かないと!」


 菜箸でいそいそと殻を取り除く夏樹。一段落すると、次に牛乳を投入してかき混ぜる。


 牛乳が混ざってボウルの中が薄黄色になる。そこに、小さじ一杯の砂糖を入れるとネットには書いてあった。

 しかし、そこで夏樹は渋面を作る。


「んー。小さじっても計量スプーンがどこにあるか分からないしなあ。あ、そうだ。そもそもシナモンを入れないと。シナモンなら香りも付く上に甘味もあるだろうし」


 夏樹は食器棚に置いてあった小さめのスプーンを見つけると、それでシナモンを掬ってボウルに入れる。


 さて、下準備は済んだ。あとは主役である食パンを入れるだけだ。

 夏樹は食パンを取り出す。よく見れば、食パンはそれが最後の一枚だった。しまった。これでは失敗できない。


「いやいや、何を弱気なことを言ってるんだ春野夏樹! この一枚で成功させるんだ。大丈夫。料理工程は簡単だ。浸して焼く。それだけだ。浸して焼く、浸して焼く……」


 呪文のように呟きながら、夏樹は食パンを丸ごと一枚ボウルに突っ込む。そして、その間にフライパンを取り出し、加熱する。


「やっぱり最初にフライパンを温めた方が、早く焼き上がって美味しくなるだろ」


 ささっとパンを浸すと、早速夏樹は食パンを投入した。


 その際、どろおっと卵の白身の塊が揺れて、一緒にフライパンへと落ちていった。

 ――ジュウウウウウウウウっ! と、バターや油など一切ひいてないフライパンがけたたましい音を立てて食パンを出迎える。


「あちゃ。白身が入っちゃったかー。まあ、いいや」


 放っておいても害悪はないだろう。そう判断した夏樹は、邪魔だった白身の塊をぐちゃぐちゃのスクランブルエッグ状にして、フライパンの端に寄せる。


 すると、仄かに甘い香りが漂い始めた。

 夏樹のすきっ腹が、腹が減ったと騒ぎ立てる。


「んー、いい香りだ。これなら、冬陽も満足するだろ」


 早くも「兄ちゃんの作ったフレンチトースト美味しい!」と言ってくる冬陽を思い浮かべる夏樹。散らかした部屋のせいで威厳が削がれているのだ。ここでなんとも巻き返しておきたい。


 一段落すると、夏樹はパンの表面が焼けるのを待った。

 異変が起きたのは、その時だった。

 水分を失った白身が、徐々にパサパサの焦げへと変化していったのだ。


 しかも、焦げだした白身の一部が食パンと繋がっていた。それを気にも留めず、夏樹は食パンをひっくり返した。


 まだひたひたのパンの表面。それが、煤のような焦げが広がるフライパンの表面へと落ちた。夏樹はそれを毛ほども気にしない。

 それが、最後のトドメとなった。

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