第8話 帰宅。そして波乱
日が落ちる前に、夏樹は冬陽を連れて医療センターを出た。
電車に乗り、自宅へと向かう。最寄駅を降りたところで小日向と別れると、夏樹は冬陽の手をつないで歩いた。夕陽の光を受けて、二人の長い影が揺れた。
最寄駅である水沢駅から徒歩五分ほどのマンション。その201号室が春野家だ。
ロビーを抜けて階段を上がる。途中で買い物帰りの主婦とすれ違い、登りきって右手に曲がる。すると、そこが春野家のある201号室だ。
「ここが、今日からふゆひの家なの? わくわくするーっ」
手を繋いだちび冬陽が、夏樹を見上げる。
何の変哲もない瑠璃色の玄関ドア。しかし、この扉は夏樹や冬陽にとって毎日見ていた日常風景そのものだ。家に着けば何か思い出してくれるかと思ったが、夏樹の予想は外れてしまった。
鍵を取り出してドアノブに差し込む。クイッと回して鍵を開け、ふと冬陽を見た。
彼女は、まるでショーウインドウの中のおもちゃを見つめる子供のような目で夏樹を見上げていた。くりくりな瞳が大きく見開かれ、口はニコリと笑っている。
「ねえねえ兄ちゃん! ドアがガチャっていった! 開いたの!?」
「あ、ああ。開いたぞ」
「すごいね! ふしぎだね!」
……不思議か? 夏樹には意味が分からなかった。
とりあえず玄関へと入る。靴を脱ぎ、持っていた紙袋をフローリングの廊下に置いた。
この紙袋は小日向が渡してくれた物で、中には今の冬陽が着られそうな子ども用の衣服が詰まっていた。
こういった援助をしてくれるのも、夏樹にとってはありがたい。ただでさえ薬の関係で大金が必要な春野家だ。できるだけ出費は抑えておきたかった。衣服と言えど、数が増えればそれなりの額にもなる。
後で箪笥に入れておこう。そう思っていた夏樹の背後を、小さな人影が駆け抜けた。
「うわーっ。すっごい! 長いろーかだぁ!」
何を大げさな、と夏樹は思う。どう考えても病院の廊下の方が長い。マンションの廊下なんぞ、たかが三メートルほどだろうに。
冬陽は廊下の突き当りにある扉を開けて、リビングへと向かう。夏樹は足元を見て、その後ろ姿を呼び止めた。
「おい、冬陽! 靴が脱ぎっぱなしだぞ! ちゃんと揃えてから入れよ!」
「えー……」
振り返った冬陽は、さっきまでの表情から一変して嫌そうな顔をした。そして、リビングの奥を指さしてボソッと言葉を零した。
「……兄ちゃんだって、部屋の掃除してないじゃんか」
ぬぐっ……と、夏樹の表情までも曇った。
廊下を抜けてリビングへと出ると、そこには菓子の袋や脱ぎ散らかしたシャツ、または出しっぱなしのゲーム機などが散乱していた。
押し黙った夏樹。そんな彼の服の裾を、冬陽がくいくいっと引っ張った。
視線を下げると、そこにはいたずらっ子の顔をした冬陽。ニシシとほくそ笑む姿は、元の冬陽からは想像もできないものだ。
「ねえ、兄ちゃん。ふゆひが靴をそろえるのが先か、兄ちゃんが部屋を片付けるのが先か、競争しよっか」
「無茶言うな! 俺に勝ち目がないだろうが!」
「だめー! いくよ? よーい、ドンっ!」
たたたっと走って、来た道を引き返していく冬陽。その姿が薄暗い廊下に消える前に、夏樹は落ちていたシャツを拾い上げる。
これでは冬陽に対して示しがつかない。両親だけでなく、冬陽もいなかったこの二週間。完全に我が家を自分の居城としてしまっていた自分に怒りを覚える。こんな自堕落な生活を今のちび冬陽の前でしていたら、それこそあのちびっ子は言うことを聞かないだろう。
それどころか、さっきのように悪態をつく可能性が高い。期間限定といえ、兄の威厳を初日で失いたくはない。
これからはちゃんとしなくては。そう心に決めて、服を洗濯物に入れるためにリビングを後にする。
廊下に出て、脱衣所へ向かう。その途中で、冬陽の部屋の前を通り過ぎた。
何の変哲もない木製の扉。冬陽が春野家に来てからずっと掛かっていた『冬陽の部屋』と書かれたネームプレートも、今は外してある。ドアノブには鍵穴があって、中に誰も居なくても開けられない仕組みになっている。夏樹が冬陽に何かしないようにと過保護な母親が付けたものだ。当時は全く心外だったが、今はその鍵があることに夏樹は感謝した。
元の冬陽の存在を、今の冬陽に知られなくて済むからだ。
今の冬陽は、元の冬陽とは別の存在だ。少なくとも夏樹はそう思うことにした。それは、今の冬陽が元の冬陽を知った時、きっと傷付くと思ったからだ。
今の冬陽には、昔の自分のこともクラン症候群のことも知らせないつもりだ。別人とはいえ、冬陽が悲しむのはもう見たくない。知らせるだけ、今の冬陽に悲しい思いをさせてしまう。
冬陽には、しばらく母親の部屋を使わせよう。夏樹は洗濯かごに脱ぎ捨てていたシャツやジャージを放り込んで、今後の生活について考える。
問題は家事だ。家事に関して、今まで夏樹は母親と冬陽に任せきりにしていた。洗濯、掃除ならまだ何とかなる。一日一回すればいいだけのことだ。掃除に関しても心配はしていない。時間は掛かるだろうが出来ないことは無い。
ただ、家事を語る上で絶対に外せないもう一つの仕事。それだけは夏樹にとって未知の領域だった。
これから訪れる苦難に、人知れずつばを飲み込む夏樹。ふと脱衣所から覗く風呂場を見ると、風呂場の曇りガラスの窓から茜色の光が漏れていた。夜が近付いている。
そんな夏樹の背後で、小さな冬陽がお腹を押さえて言った。
「ねえ、兄ちゃん……お腹空いた」
天使が零した小さな言葉は、夏樹にとって苦行の始まりに聞こえた。
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