第6話 先輩

 放課後。学校を出た夏樹は、そのまま電車に乗って県立医療センターへ向かった。目的は簡単だ。退院する冬陽を迎えに行くためだ。


 東西線と呼ばれる電車で二駅。それから歩いて五分。混んでいるエントランスを抜けてエレベーターへ。七階のボタンを押して一息つく。


 冬陽は七階のある一室に入院している。昨日担当医から渡されたメモを元に、その病室に向かう。


『七階です』エレベーターが言って扉が開いた。その瞬間――

「兄ーちゃーん!」


 ――何かはそう叫ぶなり、夏樹の鳩尾に飛び込んできた。


「おぉんっ……!?」


 体がくの字に曲がり、内臓に直接拳を叩きこまれたような激痛が夏樹を襲った。

『ドアが閉まります』と、無慈悲にもエレベーターが言う。


 辛うじて指先を動かし、エレベーターの「開」ボタンを連打する。

 やがて痛みが和らいでくると、突撃したその小さい何かを引っ張ってエレベーターから脱出。壁にもたれて、その何かを見下ろした。


「兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん!」


 ぐりぐりと腰に顔を擦り付ける小さな物体。その物体がガバっと顔を上げた。

 綺麗な黒髪に、世界の全てに目を輝かせているかのように綺麗な瞳。小さい冬陽だった。


「……っ」


 いざやって来たものの、どう接していいか分からない。目を輝かせる小さな冬陽は、自分の記憶の中にいる6歳の冬陽とは全然違ったからだ。


 違う。俺の知ってる冬陽はこんな元気いっぱいな子供じゃなかった。そう思いながらも、壁に付いた手に力を入れる。


 夏樹は、目の前の小さい冬陽に言い聞かせるように口を開いた。


「ふ、冬陽……。急に飛び出したら危ないだろ」

「危なくないもん!」


 そう言った冬陽の小さな鼻は、何故か赤かった。


「お前、それどうしたんだよ。鼻、赤いぞ?」


 冬陽は夏樹に言われて、自分の鼻を触る。


「んとねー、さっきこのエレベーターでおじちゃんにぶつかったの」

「まさか、エレベーターが着く度に同じようなことしてたのか!?」

「ん! だって、この時間に兄ちゃんが来るって聞いたもん!」

「バカっ! 他人に迷惑がかかるし、危ないだろ! 何やってんだお前は!」

「うわーっ! 兄ちゃんが怒ったー! あははははは!」


 本気で怒ったものの、何故か大爆笑する冬陽。訳が分からない。

 混乱が夏樹の平静を掻き乱していく中、後ろから声がした。


「いやあ、やっと来てくれた。これでようやく、冬陽ちゃんのエレベーター大突撃作戦もお終いだね」


 奥の廊下から担当医がやって来る。夏樹が視線を投げると、担当医はその視線に込められた意味を察したのか頷いた。


「まあ、訊きたいこともまだあるだろうしねー。冬陽ちゃんはナースに任せて、私たちは少し昨日の続きでもしようか」

「……はい」


 夏樹は、しがみ付く冬陽をなんとか引っぺがす。「あぅ」と声を漏らしたちび冬陽を看護婦さんに預けると、病室の扉を閉めて担当医に訊いた。


「あの、昨日訊きそびれていたんですが、あの冬陽は……元の冬陽が幼児化したものなんですよね? けれど、俺の記憶にある冬陽とは随分違うんですが」


 元の冬陽が6歳の頃は、あんな元気な子供ではなかった。


 健康ではあったが、外で遊ぶのを嫌い、部屋の中でおままごとや本を読んでいることが多い物静かな子供だった。鬼ごっこよりおままごと。かくれんぼより読書。そんな子だ。


 間違っても、エレベーター前に待ち伏せして中の人を確認することも無く突撃をするような破天荒な子供ではなかった。元の冬陽が小さくなっただけなのならば、そんな行動は絶対にありえない。


「まあ、そうだろうねぇ。だって、今の冬陽ちゃんは別の存在だからねえ」


 担当医は当然のように言いきる。


「まだ医学的に、今の冬陽ちゃんが何者であるかは解明されていないんだよねぇ。別人格と言えば聞こえはいい。けど、精神だけでなく肉体までも変わってしまった存在は、果たして本物の秋月冬陽といえるのかな?」

「それは……」


 部屋の向こうで、看護婦と話している冬陽の声が聞こえる。

 見た目も性格も違うもう一人の冬陽。それは最早、名前だけが同じの他人なのではないか? そんな考えが夏樹の脳裏をよぎる。


「も、元の記憶を思い出したりはしないんですか?」

「んー、元の記憶をなんとなく覚えているケースはよくあるけど、どれも自身の思い出であると認識したりはしないねえ。クランの患者にとって、元の人格の記憶や思い出って言うのは、きっと益体の無い夢のようなものだと思うよ?」


 それでは、もし薬が間に合わなければ、今までの冬陽との思い出も無かったことになってしまうのだろうか。


 目を伏せる夏樹を見て、担当医はフォローするように付け加えた。


「冗談だよ、冗談。でも、いつかは決めないといけなくなるかもよ? もし特効薬が間に合わなかった場合、彼女は新しい秋月冬陽として生きないといけないんだから」


 担当医の言葉はフォローではなく、ただ夏樹に事実を突きつけただけだった。


 でも、もし特効薬が間に合わなかったら……。自分は新しい冬陽を秋月冬陽として受け入れていけるのだろうか。


 元の冬陽の居場所を奪った、小さい冬陽と……。

 重苦しい雰囲気が廊下に沈殿する。節電のためか、蛍光灯の電気が切られていて廊下は薄暗い。


 担当医は自分のフォローがフォローになっていなかったことを悟ると、慌てて咳払いをした。


「ご、ごほん! とにかく今日から君は、あのちびっ子冬陽ちゃんの面倒を見ないといけない。急に大きくなる可能性があるから、学校には連れていけないし、大きくなった時に衣服が無いと大変だよね。そこで、君たちの先輩に当たる人物に連絡を入れたよ」

「先輩、ですか?」

「そう。実は先月にもクラン症候群の患者を診察してね? 今もこの町で療養中なんだ。いやあ、私もまさか生涯に二度もクラン症候群の患者を診ることになるとは思いにもよらなかったよ。いやはや、なんとも幸運――ごほんっ! とにかく、その先輩コンビに今日は来てもらっているから、いろいろ話を聞いてみるといい。おーい。二人ともこっちにおいでー」


 勝手に話を進める担当医は、廊下の先。ロビーがある方へと声をかける。こちらからは角度の関係で見えない七階のロビー。そこは日当たりの関係で明るかった。そこから二人の少女がやって来る。


「えっ?」


 最初に声を上げたのは夏樹だった。目を見開いて、目の前の人物を凝視した。

 校則に則った二つくくり。垂れ目気味の優しい瞳。


 なにより、でっかいおっぱい。


「……こんにちは、春野くん」


 苦笑する小日向楓が、そこにいた。

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