第2話 病院で、彼は

 春野夏樹は、難しい表情でバスの運賃箱に小銭を投入すると、バス停に降りた。

 ふと、目の前にそびえ立つ大きな建物を見上げる。


 白を基調とした建物は七階建てで、大きな入り口には老若男女様々な人が出入りをしている。夏樹と共にバスで降りた人たちも、次々とその入り口に吸い込まれていく。


 眉間に皺を寄せたまま、夏樹がその建物を睨んでいると、サイレンの音が近づいてきた。


 赤いサイレンを点灯させた白い車は、多くの人々が出入りをする大きな入り口ではなく、そこから少し離れた小さな扉にくっ付けるように後ろ向きに止めた。


 すると車の中から、担架に乗せられた血濡れの男性が運び出されてくる。白い服の人が三人がかりで担架を建物の中に運び込む。それから遅れて、一人の女性が泣き叫びながら男性のものであろう名前を叫び続けていた。


 女性は救急隊員の一人に腕を掴まれて、その男を追うことができなかった。そして、運び込まれた男の姿が見えなくなったのか、女性はその場に泣き崩れてしまった。


 その光景を、夏樹は横目で見た。この場所ならよくある光景だ。先週自分も経験したところだ。どうということはない。


 秋月冬陽が、この県立医療センターに運び込まれて二週間経った。



 夏樹は受付で整理券を受け取ると、受付前の椅子に腰かけた。


 34番と書かれた整理券を睨みつけながら、夏樹は冬陽が倒れてからのことを思い出す。


 あの告白の後、夏樹は救急車を呼んで冬陽をこの県立医療センターに運んだ。


 責任を感じた夏樹は、付き添いとして医療センターに向かったが、先ほどの女性と同じように、救急搬送口で冬陽から引き離されてしまった。


 人工呼吸器を付けて救急搬送口に運び込まれる冬陽。それが、夏樹の見た最後の彼女の姿だった。


 冬陽はその後一週間面会謝絶となった。連絡を受けて急いで戻ってきた両親に事情を説明し、夏樹は気が気でない一週間を送った。


 そして一週間前。両親はこの医療センターに向かった。何故か夏樹に「お前は来るな」と言い残して。


 夏樹はそれにひどいショックを受けた。確かに、自分の告白が冬陽を病院送りにしてしまったのは事実だ。だが、それにしても度が過ぎた対応だ。むしろ、自分が冬陽をひどい目に合わせてしまったのだ。自分が行って謝らなければならないはずだ。


 怒りと虚しさを心に渦巻かせていた夏樹は、両親が帰ってくるなり冬陽の容態を訊いた。


 ところが、ジャーナリストの父親は夏樹に「冬陽ちゃんを任せた」と言うと、中東に飛んでしまった。一方デザイナーの母親は「来週医療センターに行って事情を訊きなさい」と言い残して突然の単身赴任。突然のことに、夏樹はただ動揺した。


 そして今日。冬陽が倒れてから二週間経った夏樹は、これら異常の原因を突き止めに医療センターへとやって来たのだった。


『受付番号34番のお客様。3番の部屋にお入りください』


 アナウンスが聞こえた夏樹は、整理券をくしゃっと握りしめて立ち上がった。


 ロビーを抜けて指定された部屋に辿り着くと、夏樹はノックをして扉を開けた。


「はいはーい。あ、君が例の夏樹君だね? 私は秋月冬陽さんの担当医を務めている者だ。よろしくね」


 椅子に腰かけて夏樹を待っていたのは、固そうな白い髭を触る初老の男性だった。


彼は銀縁のメガネと白衣を羽織って、冬陽の物であろうカルテを持って夏樹を待っていた。


 夏樹は怪訝な態度を隠すことなく、社交辞令として頭を下げる。


「……よろしくお願いします」

「うん。まあ、座りなよ。いろいろ訊きたいこともあるだろうけど、まずは落ち着いて話を聞いてほしいんだ」


 担当医はそう言うと、カルテをペラペラと捲って眺めた。


「ねえ、夏樹君。君、クラン症候群って病気を知っているかい?」


 唐突、担当医が言った。夏樹は呆気にとられたものの、すぐに首を横に振る。


「いえ、知りません」

「だろうね。なんていったって、発見されてまだ5年で世界での発症例はわずか二百件。その内、日本での発症例はわずか20件だ。知っているほうが驚きだよ」


 はっはっは。と、担当医は楽しそうに笑う。一体何がおかしいのだろうか。


 夏樹は思った。この担当医は、人を不快にさせることに長けている。


「それで、冬陽はそのクラン症候群って病気になってしまったんですか?」

「そうだよ。でも、症状は説明するより実際に見たほうが早いと思うんだ」


 そう言って、担当医は夏樹を見た。


「秋月冬陽ちゃんに会いたくないかい? 春野夏樹君?」


 どくん、と。夏樹の胸が一際大きく高鳴った。


 身勝手な告白をして、そのショックで倒れてしまった自分の思い人である冬陽。その冬陽と、今から会えるのだ。


 彼女がどんな反応を示そうと、夏樹のすることは決まっていた。


 謝り、そして返事を聞く。こんなことになってしまって良い返事がもらえるとは思わない。だが、自分のしたことにはしっかりとけじめをつけたい。


 夏樹は、ごくりと唾を飲み込むと担当医の問いかけに頷いた。


「お願いします。冬陽に会わせてください」

「わかったよ。それじゃ、今から中庭に行こうか。今、ナースに彼女を連れてくるように頼んでおいたから」


 そう言うと担当医はカルテを持って立ち上がった。彼は扉を開くと、ちょいちょちと手招きで夏樹を呼んだ。その後をついてく。


 やがて検査室の通りを抜けて外へと出る。


 そこは、中庭として開放されている場所だった。周囲を白い病棟が取り囲んでいるものの、中庭には芝生が敷かれており、中央には噴水もある。ベンチもあれば、桜の木も植えてある。日差しを受けて、中庭はまるで天国のように輝いているように見えた。


 担当医が芝生の上で立ち止まる。その一歩後ろに、夏樹は立っていた。


「あ、そうだ。会ってもらう前に、言い忘れてた事があったんだ」


 今思い出したと言わんばかりに、担当医は自分の手をポンと叩いて踵を返した。


「ねえ、夏樹君。一つだけ約束してほしいことがあるんだ」


 担当医は相変わらず微笑んだままだ。しかし、その笑顔は人を安心させるためのものではないように、夏樹には見えた。

 笑顔の仮面。今の担当医が浮かべているのは、そういった類の笑顔だった。


「……なんですか?」

「なんてことはないよ。目の前の彼女を、ちゃあんと受け入れてあげる。たったそれだけだよ。約束できるかな?」

「……はい。わかりました」


 意味が分からなかったが、夏樹はひとまず頷いた。


 一体、先ほどの質問の意味は何だったのだろうか。そう思案していると、夏樹の背後で中庭とロビーを繋げる扉が開かれる音が聞こえた。


「あっ……! にいちゃんだ!」


 聞きなれない、でもどこか懐かしい大声が、夏樹の耳を刺激した。


 振り返ってみると、三歳ほどの幼い女の子が、きらきらと目を輝かせていた。


 ここには小児科もあるのだろうか。だとすれば、入院している小さい子からすれば、この中庭は絶好の遊び場に違いない。


 夏樹は思い出す。そういえば自分も昔、冬陽とよく公園で遊んだものだ。SLの形をした土管の中で、幼稚園であったことを話したりおままごとなんかをした記憶もある。


 懐かしいな。なんて感慨に耽っていると、小さな女の子はとてとてと夏樹の元までやって来ると、急に彼の太ももにに抱き着いた。


「うおっ!? な、なんだ!?」

「えへへっ。にいちゃんだいすきー!」


 自分の太ももにしがみ付いて、向日葵のように燦々と笑う小さな女の子。


 小さな女の子は、黒い綺麗な髪に人懐っこいくりくりの瞳をしていた。しかし、それ以上に夏樹には、この幼い少女に違和感を感じていた。


 どこかで会った気がするのだ。いつ、どこでかは分からない。でも、確かに会ったことがある。それは間違いない。


 混乱しつつも、夏樹は少女の頭を撫でる。


 チラッと担当医の方を見る夏樹だったが、担当医はニヤニヤと困っている夏樹を見て笑っているだけなので、仕方なく小さい少女の相手をすることにした。


「……ええっと、誰かと勘違いしてないかな? 俺は春野夏樹って言うんだけど、君のお名前は?」


 とりあえず、名前が分からなければ会話にならない。そう思った夏樹は自分から名乗って少女の名前を訊く。


 少女は、はにかみながら元気よく答えた。


「ふゆひね? あきづきふゆひっていうの! さんさいなんだっ!」


 ガンッ! と、ハンマーで殴られたような衝撃を夏樹は感じた。

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