第38話 自宅のお茶会
――のだが、シチュエーションが変わるだけでこうも落ち着かなくなってしまうものなのか。
玄関前でこれが現実だと認識したつもりが、自分の生活スペースにいる姫川さんの姿を改めて見ていると、やっぱり夢でしたと言われた方が納得してしまうだろう。
「――わたしの顔、何か付いてますか……? も、もしかして、クッキーの粉とかっ……!」
慌てて口周りを両手で覆う姫川さん。
現実味が薄くて、姫川さんの顔を見すぎてしまっていたらしい。
「いやっ、全然付いてないです! すいません!」
誤解させてしまったことと、ジッと顔を見ていたことの申し訳なさに、こっちも慌てて謝った。
「この家、家族以外が入ったことがなかったので、なんというか……」
「不思議な感覚、ですか?」
「……ですね」
「わかります。
姫川さんは少し恥ずかしそうに笑う。
俺は共感してもらえたことと、内心を言い当てられたことがこっぱずかしくて、苦笑で返す。
「あの、聞いてもいいですか……?」
改まって尋ねる姫川さんに、俺はなんだろうと疑問に思いつつ「はい」と頷く。
「さっきご家族の話が出ましたけど、それってマスターさんのことですか?」
「定期的に来るのは叔父さんと、くみ……叔母さんですね」
いつもの癖で叔母を愛称で呼びかけたが、姫川さんは気にした様子はなかった。
というより、それよりも気になることがあるのか、何か言おうとしてはいるものの躊躇いがちだった。
「それじゃあ……その……」
「姫川さん?」
「……引っ越す前、一緒に住んでいたご家族は……?」
そういえば、姫川さんには親の仕事の都合としか言っておらず、詳しい事情を話したことはなかった。
特に話したくなかったわけでもなく、それほど話す必要性を感じていなかったし、話の種にしようと考えもしなかった。
ただ、それが返って姫川さんからしたらタブーのように感じられたのかもしれない。
「母と妹は今、海外に住んでます。だから、ここには内見の時に来てからそれっきりですね」
「えっと……それじゃあ……」
姫川さんの未だ拭えない逡巡とした様子に、俺は「あ……」と声を漏らす。
俺がどれだけ上手く話したとしても、これは明るい話にはならないとわかっているからだ。
「父は俺が小学生の時に病気で亡くなってて。でも、さすがにもう吹っ切れてるので気にしないでくださいね」
少しでも姫川さんが気に病まないよう、穏やかな口調でいることに努めた。
――それが気休めにもならないことは、俺自身が一番わかっていたとしても。
「ご、ごめんなさいっ……わたし……」
「難しいとは思うんですけど、本当に気にしなくて大丈夫ですから」
「……はい」
どうしたって気まずくなってしまう内容だ。少しの間でも室内が静まり返ってしまうのは仕方がないと思いたい。
しかし、一度でも静寂が生まれてしまえば、それを破るのは極めて難しい。
これ以上姫川さんに対して気にしないように言葉を尽くしても、逆効果になることは予想できる。かといって、このまま何も言わずに座っているだけというわけにもいかない。
――どういう選択をすることが一番なのか。
そんな未解決問題のようなものを机ごとひっくり返したのは「ぐぅー」と間の抜けた音だった。
「日乃さん……?」
「……すいません」
それは、空気も読まずに空腹を告げた俺の腹の音だった。
時計を見ると十二時を回って少し経ったくらい。なんとも正確な自分の腹の時間感覚に呆れてしまう。
あまりの恥ずかしさに何も言えずにいると、くすくすと堪えきれず出たような姫川さんの笑い声が耳に届いた。
「わたしも、お腹空いちゃいました」
そう言って姫川さんは微笑む。
たぶん七割は気をつかってのセリフだと思うが、今はその助け舟に乗らせてもらうのがきっと一番だ。
「……どこか食べに行きますか? それともデリバリーします?」
そんな俺の確認に、姫川さんは少し考える。
ややあって、意思が決まったのか小さく頷いた。
「日乃さんがよければ、わたしが作りましょうか?」
「え、いいんですか?」
「はい。お詫び……というか、お礼に……」
どうしたって言葉で姫川さんの罪悪感をぬぐい切るのは難しい。
それなら、この申し出を受けることが少しでも変わりなればと思った。
「それなら、お願いしてもいいですか?」
俺が了承すると、姫川さんはパッと明るい笑顔を見せる。
「はい! 任せてください!」
気合十分な様子で立ち上がった姫川さんはキッチンの方を見て
「冷蔵庫を見させてもらってもいいですか?」
と、俺に確認を取る。
これから料理をするというのだから、材料の確認をするのは当たりまえのことだ。
それはわかる。……わかってはいるのだが。
「あー、その……」
「どうかしたんですか?」
「いや、なんと言ったらいいのか……」
「日乃さん?」
煮え切らない俺に、姫川さんは首を傾げる。
「あれです! ちょうど食材を切らしていて!」
「……日乃さん」
あまりにも白々しい言い方だったのだろう。姫川さんがジト目を俺に向ける。
それがとても胸に刺さるので目を背けると「トトト」という軽快な足音が鳴る。
気づいた時には姫川さんが冷蔵庫に手をかけていた。
「あ! ちょっと!」
「問答無用です!」
俺の静止する声もむなしく、冷蔵庫が開かれる。
「…………」
飲み物といくつかの調味料しか入っていないその中身を無言で眺める姫川さん。
続けて野菜室、冷凍庫。開けられるすべての場所を確認し終えた姫川さんが振り返る。
さっきまでの疑いのジト目は、問い詰めるものへ変わっていた。
「日乃さん?」
「……はい」
「食生活を改善するってお話、してましたよね?」
以前、昼食の時に俺の偏った食生活を知った姫川さんが、その後も心配してくれていた。それが申し訳なくて「改善します」と俺は言っていたのだが……
「いや、する気はあったんですよ?」
「……あった?」
「い、今もあります!」
何かひとつでも間違えたら命が危ないのではとさえ思えるオーラに、俺は気をつけの姿勢をとった。
張り詰めた緊張感を味わう俺に「はぁ」とため息が聞こえてくる。
「お買い物に行きましょう」
「え?」
「これから先のことは置いておいて、まずはお昼ご飯です」
苦笑する姫川さんに、俺は「ですね……」と頷くのだった。
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