第32話 『姫川さんのお母さん』
それでも、今何をすべきかは考えなくても勝手に身体が動いた。
「はじめまして、
『挨拶は基本』をしっかりと身につけていた自分を褒めたい。
会釈の短い間に、俺の頭には最近芽生えていた懸念が真っ先に思い出された。
「あの、ご挨拶が遅くなってしまってすみません……」
俺は上げたばかりの頭を、今度はもっと深く下げた。
姫川さんの事情を先生から聞かされた時から、今後も姫川さんと関わっていくなら一度ご両親には挨拶をしておくべきなのではないだろうかと考えてはいた。
ただ、それを姫川さんにどう伝えるか悩んでしまい、今日まで何のアクションも起こせずにいたわけだ。
結果として、俺と出かけた直後に姫川さんは体調を崩すことになってしまった。
だから、俺はご両親に責められて当然だ。
今、姫川さんのお母さんにどんな目で見られているのだろう。そんな不安が俺の頭をさらに重くさせている。
「――あの子から聞いてた通り、優しい人なのね」
「え?」
予想と違う言葉をかけられたことに俺は戸惑い、ゆっくりと顔を上げる。
――姫川さんのお母さんは優しい目をしていた。
「
「それは……恐縮、です……」
一体どんなことを話していただろう。ちょっと不安が増してきた。
「ふふっ、そんなに緊張しないで。そうだ、桐真君って呼んでもいい?」
「え? あ、はい、もちろんです」
「桐真君、あんまり自分を責めないでね?」
「それは……」
そう言ってもらえるのはありがたいとは思う。けれど、それはとても難しい。
「本当にちょっと熱が出ちゃっただけなの。たぶん、はしゃぎ疲れてしまったのね」
「……はい」
「桐真君、ありがとう」
「はい?」
一体、何に感謝されたのだろう。
責められるとばかり思っていた俺に、それが思い至るわけもない。
「あんなに楽しそうな愛葉を見るのは本当に久しぶりだったの」
「そうなんですか……?」
「笑顔が見られないわけじゃなかったんだけどね。何かを心の底から楽しむような、そういう笑顔はずっと見られてなかったから」
それを話す姫川さんのお母さんの表情も本当に嬉しそうで、娘の姫川さんをどれだけ想っているか、感じることが出来た。
「……それなら、昨日一緒に出かけられて良かったのかなって思います」
「昨日だけじゃなくてね。新学期が始まってから学校に行くのも楽しそうで、家に帰ってきて今日はどんなことがあったか、日乃さんがこんなことを言ってたとか、いっぱい話すの」
自分のことをそんな風に話されていると知って、照れくさい気持ちになる。
でも、姫川さんがそれだけ楽しいと思ってくれてるなら、素直に嬉しい。
「全部、桐真君がきっかけなの。だから、ありがとう」
今まで、見返りを求めてきたわけじゃない。
それでもこうして直接感謝されて、まだたった一週間だけど、自分が少しでも力になれてるとわかって、込み上げてくるものがあった。
「――僕も、姫川さんには感謝してるんです」
思えば、こうして姫川さんのことを自分から誰かに話すのは初めてかもしれない。
「こっちに引っ越して来て、自分の中にどこか逃げてきたような気持ちがあって。でも姫川さんに出会って、それが少し薄くなったんです。たぶん出会えてなかったら、毎日をただ浪費するだけになっていたと思うから」
「それじゃあ、二人が出会えて良かったわ」
「――はい」
気持ちを吐き出して、少し楽になったような気がする。
「あ、ごめんね? 長い間立ち話させちゃって」
「いえ、姫川さんのお母さんと話せて良かったです」
偶然ではあったけど、本当に良かったと思う。
「そうだ! 桐真君、スマホは持ってる?」
「はい、持ってますけど」
「連絡先交換しましょ!」
「え!?」
「嫌かしら……?」
すごい哀しそうな顔してる……。
驚いただけで嫌だと思ったわけではないのに、凄く申し訳ない気持ちにさせられる。
「そんなことないです! 是非!」
「ならよかった~」
メッセージアプリのID交換はとてもスムーズに行われ、友だち一覧に『
「それじゃあ、また連絡させてもらうね。またね、桐真君」
「あ、はい。失礼します」
俺が会釈すると、姫川さんのお母さんは笑顔で手を振ってからマンションへ入っていった。
――そして帰宅後、俺のスマホに、
『今日はありがとう。姫川さんのお母さんだと呼びづらいだろうから、私のことは由美さんって呼んでね』
クマのようなキャラクターが笑顔で手を振るスタンプ付きのメッセージが届いた。
それがマンションへ入っていく姫川さんのお母さん改め――由美さんの姿を思い出させ、急にドッと疲労感が襲ってきた。
「……今日は早く寝よう」
何故かそうした方が良いと、直感的に思ったのだった。
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