第22話『店員さん』と『常連さん』はじめてのお出かけ。③
真っ暗な視界の中、周囲の音がどんどんと離れていくような感覚。
どのくらいの時間が経ったのか――それすらも思い浮かばない程の心地いい微睡みに沈んでいく俺を、さっきまでには無かった異質な音声がその意識を引っ張り上げた。
『スクリーン8番、10時15分放映開始の――』
それが映画館のアナウンスであることを理解するのに、数秒かかってしまった。
どうやら俺と姫川さんの見る映画の入場が開始になったらしい。
ということは、それだけの時間、俺は意識を手放していたということになる。
昨夜、この周辺にどんな施設や店があるのか検索をした後、寝付きが悪かったからとはいえ、さすがに呆れてしまう。
それと同時に、
――そこには、変わらず穏やかな表情で左肩に頭を乗せた姫川さんがいる。
ただ、規則的な呼吸を繰り返すだけで、館内アナウンスには気が付かなかったようだ。俺よりも深い眠りの中にいるのだろう。
起こすのはとても忍びないけれど、映画を見過ごす方が姫川さんは嫌なはずだ。
――俺は心を鬼にすることに決めた。
「姫川さん」
肩を軽く叩いて名前を呼ぶと、姫川さんは「ん~」と言いながら眉を寄せ、やがて瞼が半分ほど開いた。
そして、俺の肩から頭を持ち上げると瞬きを数回。そのまだ重たそうな瞼のまま、俺の顔を見た。
「・・・・・・ひの、さん?」
小首を傾げる姫川さん。
普段のしっかりとした印象とのギャップに、少し笑ってしまいそうになるのをなんとか堪える。
「入場が出来るようになったみたいなんで、準備が出来たら行きましょうか」
俺の言葉と共に、姫川さんの瞼がしっかりと持ち上がった。
「――わ、わたし! 寝ちゃって・・・・・・!」
状況が全て飲み込めたようだ。
恥ずかしさも相まってか、慌てふためいていた。
「まだ時間はありますから、大丈夫ですよ。それに俺もウトウトしちゃってたんで、お相子です」
「そ、そうなんですか・・・・・・?」
俺が「はい」と苦笑気味に肯くと、姫川さんは大きくゆっくりとした深呼吸をする。安心したのか、それとも落ち着くためだろうか。
そして、思い出したように耳から外したイヤホンを俺に差し出した。
「イヤホン、ありがとうございました」
「どういたしまして。俺の好きな曲で大丈夫でした?」
「はい・・・・・・って言っても、途中で寝ちゃったんですけど」
そう言って笑う姫川さんは、まだどこか恥ずかしそうだった。
まあ、眠れたってことは多少なりとも気に入ってもらえる曲が多かったのかもしれない。
「あの、また聴かせてください」
姫川さんの言葉に「もちろん」と俺は答え、二人で席を立った。
*
入場口へ向かう途中、俺たちは足を止めた。そこはフードカウンターだ。
上映時間が約九十分と書いてあったので、飲み物は必要だろうと話し合ったからだ。ほとんどの人が先に買っていたおかげか、混雑はしていない。
手前に設置してあるメニュー看板を見ながら、二人で悩み始めた。
「姫川さんは何にします?」
「あの、ちなみに
「んー、コーラですかね。なんか、レジャー施設に来ると炭酸が飲みたくなるんですよね」
「そうなんですね」
姫川さんは俺の意見を真剣な表情で聞き、看板とにらめっこをしている。
飲み物一つにも正解を模索する姿に、微笑ましくなる。
「それじゃあ・・・・・・オレンジジュースにします」
「いいですね」
俺の肯定する言葉に、姫川さんは安心した様子。
いざ注文しに行こうとすると、姫川さんが看板の前から動かない。
どうかしたのかとその顔を見ると、悩ましげな表情でメニューを見つめていた。
視線を辿ると、その先はフードメニューの欄。何か食べたいらしい。
ただ、映画の後に昼食を取ることを決めていたこともあって、今食べることに抵抗があるのだろう。
しかし、せっかく映画館で映画を見るのだから、思ったようにしてほしかった。
助け船――というほど恩着せがましくするつもりはないけれど、俺から話を切り出した。
「あの、ポップコーンを頼もうかと思うんですけど、姫川さんも何か頼みますか?」
姫川さんは少し驚き、それから少しだけ恥ずかしそうに「えっと、わたし、ポップコーンとチュロスで迷ってて・・・・・・」と打ち明けてくれた。
「ポップコーンだったら何味にしようとか、決めてます?」
「キャラメルにしようかなって」
「それなら、俺が買ったポップコーンを分けませんか? それで姫川さんがチュロスを買えば、どっちも食べれますし」
俺がそう提案すると、姫川さんが慌てた様子で両手を振った。
「それだと日乃さんが損してます!」
「大丈夫ですよ。俺、いっつも上映中に食べきれなくて困るタイプなんで、むしろ食べてもらえたら助かるんです」
食べきれないという話は嘘なのだが、映画館に来ることなんて滅多にないし、バレないだろうと考えてのことだ。
『助かる』というワードが強かったのか、思ったよりもすぐに「それじゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」と姫川さんが提案に乗ってくれたので、俺たちはそのまま注文へ向かった。
注文した商品を受け取り、フードカウンターを離れる。
ポップコーンのサイズは、昼食のことを考えてSサイズにしておいた。
俺がポップコーンをトレイと一緒に持ち、姫川さんの手にはチュロスが握られている。チュロスを見つめるその表情は、とても嬉しそうだ。
注文した甲斐があったなと思っていると、姫川さんと目が合った。
すると、何か気が付いたような顔をし、一瞬チュロスを見たかと思うと――
「どうぞ」
姫川さんは、両手で持ったチュロスをまるでマイクのように俺へ差し出した。
突然の展開に俺が「え?」と困惑していると、姫川さんは「私だけ分けて貰うのは申し訳ないですから」と笑う。ポップコーンのお返し、ということらしい。
人に提案しておいて自分が断るというのも気持ちが悪いような気がして、俺は「それなら」と言って、一口だけ食べさせて貰う。
「ん、おいしいです」
「よかったです」
チュロスを食べたのは久しぶりで、本当に美味しかった。なぜか分けた側の姫川さんの方が満足そうではあったけれど。
しかし、それからすぐのこと――姫川さんがチュロスを凝視したまま固まってしまった。
「どうかしました?」
まさか、俺の一口という感覚が、姫川さん的には大口だったのだろうか。そんな不安に駆られながら声をかける。
すると姫川さんは、肩をビクッとさせた。
「い、いえ! なんでもないんです! 本当です、決してやましいことなんてひとつも!」
口早に否定する姫川さん。
姫川さんの何かを疑ったわけでは決してないにも関わらず、ここまで必死に否定されると、それ以上は何も聞けなかった。
俺はとりあえず「そ、そうですか? それじゃあ、いきましょうか」と納得しておいた。
その後、入場口に付くまで姫川さんとチュロスのことはそっとしておくことにしたのだった。
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