第20話『店員さん』と『常連さん』はじめてのお出かけ。①

「よし」


 家のドアを閉め終えた俺は、下ろし立てのコーチジャケットのポケットに鍵をしまいつつ、廊下を歩き出した――。


 今日は姫川さんと映画を観に行く、約束の日だ。

 天気は晴天。外出日和といえるだろう。

 忘れ物がないかの確認は入念にしたし、着る服だって何度も考え直したりもした。

 無駄に量だけはあるクローゼットの中身が役に立つとは思いもしなかったけれど、助かった。とにかく、入念な準備をしたことだけは間違いない。


 ――それなのに、時間の管理だけが上手くいかなかった。

 待ち合わせの時間が九時なのに対して、今の時間は八時。

 これが家から距離のあるところなら全く問題がないのだが、今日の待ち合わせ場所は姫川ひめかわさんの住むマンションの前だ。

 俺のマンションから徒歩二分程の場所に、一時間も前から出ていてどうするというのだろう。

 これでも家の中で出来る限り時間を使ったつもりだ。しかし、どうしてか体感時間がとても遅い。

 もう十分くらい経ったかと思って時計を見てみれば、三分しか経っていない。

 そんなことを何度も繰り返し、このままだと出かける前に疲れ切ってしまいそうだと感じた結果、こんなに早く家を出ることにしたのだった。

 とはいえ、さすがに一時間も人様の家の前で立っているつもりはなく、辺りを散歩でもして、待ち合わせの五分前くらいになったら待たせてもらうつもりだ。


 自分のマンションから出た俺は、すぐ目の前の横断歩道へ向かう。

 タイミングが悪く、歩行者用の信号が赤になったところだった。

 散歩なのだからべつにここの信号を渡らなくてもいいかなと考えた俺は、どっちへ歩こうかと左右を見る。

 すると、動かす視線の途中で、その存在を無意識に捉えた。

 それは、待ち合わせ場所である姫川さんのマンション前だった――。


「え?」


 思わず、声が出る。

 少し距離があるとはいえ、見間違いには思えない。

 もしかしたら見間違えたのは時間の方かもしれない、とスマホを見ても八時〇三分だった。

 結局、結論が出ないまま、信号が青に変わる――その瞬間、俺は駆けだした。

 よく見える距離まで来たのに半信半疑なまま、俺は声かける。


「――姫川さん?」


 その瞬間、彼女は肩をビクッとさせ、すぐにこっちを向いた。


「・・・・・・え? 日乃ひのさん?」


 姫川さんも理解が追いつかないのか、俺の名前を口にしたものの、動かない。

 ようやく動いたかと思うと、まずはじめにしたことは腕時計を見ることだった。

 俺と同じように時間の見間違いを疑ったらしい。

 そして、すぐにそうではないと理解するのもまた同じ。


「えっと、まだ約束の時間じゃないですけど・・・・・・」

「それは姫川さんもですよ?」


 彼女の困惑する顔と向き合って、少し間が空く。

 そして、どちらからともなく笑い出した。

 ――あぁ、気が付いてなかっただけで、緊張していたんだ。

 そして、きっとそれは姫川さんも。


 ひとしきり笑い終え、仕切り直しとばかりに姫川さんがペコリとお辞儀をする。


「日乃さん、おはようございます」

「おはようございます、姫川さん」


 彼女に倣って、俺もお辞儀をして挨拶を返した。


「あ、あの・・・・・・」


 朝の挨拶を終えた途端、姫川さんの様子が変わった。


「どうかしたんですか?」


 俺が尋ねると、彼女は自身の服をキュッと握る。


「えっと・・・・・・変じゃ、ないですか?」


 と、上目遣いに不安そうな声で聞いてきた。


 間違いなく、服装のことだろう。

 聞かれたら答えないわけにもいかない。俺は、改めて姫川さんの格好を確認する。

 ゆったりとしたサイズのプルオーバーのパーカーに、薄いブラウンのプリーツスカート。それと同じくブラウンのローファを合わせたコーディネートだ。肩からは小さめのショルダーバッグを下げている。

 姫川さんの私服姿は春休みの間にも見ているので初めてではない。

 ただ、系統で言えば、パーカーのようなカジュアルさは初めてだった。

 カジュアルといっても、スカートとローファーのおかげで緩すぎず、姫川さんの雰囲気とも絶妙にマッチしているように思う。


「・・・・・・すごく、似合ってると思います」


 同級生の女子に服の感想なんて伝えたことなんてないこともあって、かなり恥ずかしかった。


 感想を伝えてすぐ、姫川さんの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。


「あ、ありがとうございます・・・・・・」


 俯いてお礼を言う姫川さんを目にして、俺の感じていた恥ずかしさがさっきよりもずっと増してしまう。

 このいたたまれなさをなんとか凌ごうと明後日の方向へ顔を背けていると、すぐ側を人が通り過ぎた。恐らく姫川さんと同じマンションの住人だ。

 そして、その人からまるで変なものを見る目を向けられる。

 よくよく状況を確認すると、マンションの前でお互いに顔を見ようともしない男女が立っている。おかしいと感じるのは至極当然だ。

 それを認識したのは俺だけではなかったようで、顔を上げた姫川さんと目が合い、お互いに苦笑いする。


「・・・・・・行きましょうか」

「・・・・・・そ、そうですね」


 そう言って歩き出した俺と姫川さんは、初めて一緒に歩いた時のように気まずい雰囲気だ。


 いよいよ始まった初めてのお出かけは、なんとも言えないスタートを切ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る