第10話『また明日』

「あの、ひのさんの帰り道は……?」


 店のドアを閉める俺に、姫川ひめかわさんが問いかけた。


「ああ、こっちの道です」

「ほんとうですか? わたしも同じ方向です」


 俺の指差す方を見て姫川さんは驚いたけれど、俺は「そういうこともあるか」とあまり驚かなかった。


「あの、それじゃあ……途中まで一緒に、帰れますか?」


 おずおずとした様子で聞いてくる姫川さん。

 もちろん断る理由なんてない。まだ日が落ちるような時間ではないが、帰りを遅くしてしまった分、一人で帰すというのは気が引けた。


「大丈夫ですよ。真っ直ぐ帰るつもりだったんで」


 俺が肯くと、姫川さんは「ありがとうございます」とホッとしたような笑顔を見せた。


   *


 一時間ぶりくらいに姫川さんと並んで帰り道を歩く。

 学校から『クローバー』までの道のりとは違い、特に意識することもなく歩幅を合わせて歩けていた。それだけさっきまでの会話の時間が有意義なものだったのかもしれない。

 歩幅だけでなく、会話の方も自然に成り立っている。

 例えば、この近くのパン屋が美味しいとか、この辺りにいる名物猫が可愛いとか、当たり障り無い雑談ではあるけど十分有意義な時間だった。


 そうして歩いているうちに、俺の住むマンションが道路の向かい側に見えてきた。横断歩道に着く前にどう言い出そうかと悩む。

 しかし、先に声を出したのは姫川さんからだった。


「――あ、あの……わたしの家、ここです」


 彼女が足を止めた側には、中層マンションがそびえ立っていた。

 思わず「え?」と声が出た。なにせ、ほとんど俺のマンションの真ん前なのだから。

 近所なこともあるかな程度に思っていただけで、まさかここまでご近所とは。


「どうかしたんですか……?」

「いや、その、こんなに自分の家の近所だとは思ってなかったんで」

「日乃さんもこの辺りなんですか?」

「あれです」


 すぐ近くのマンションに指を指すと、姫川さんは目を丸くして固まってしまった。

 俺が引っ越して来てもうすぐ一月経つのに、今日まで『クローバー』以外で会うどころか見かけることもなかったというのは、運が良かったのか悪かったのか。ほとんど灯台下暮らしみたいなものだ。


「日乃さんとはこれからご近所さんとしてもお付き合いすることになりそうですね」

「そうですね。道路挟んでますけど」

「徒歩2分もかからなければ十分にご近所さん認定だと思いますよ?」


 クスクスと笑う姫川さんにつられて俺も笑う。


 ひとしきり笑い合い、ふと俺は時間が気になった。

 マンションの前で立ち止まってからそれほど経ったわけではないけれど、あまり長い間居座るのも良くない気がした。

 それに姫川さんは家族から電話が来たから帰ることになったのだから、これ以上遅くなるのは尚更良くない。


「そろそろ、俺も帰りますね」


 今度は俺から切り出す。

 すると、姫川さんが申し訳なさそうな顔をする。


「ごめんなさい、こんなところで引き留めてしまって」

「気にしなくて大丈夫ですよ。楽しかったです」

「ほんとうですか……?」

「こんなことで嘘は吐かないです」


 俺が微笑で答えると、彼女は安堵したのか一息吐いた。

 そして「あの!」と俺を真っ直ぐに見る。


「明日は、今日みたいに電話が来ないと思いますから、たくさんお話してくれますか?」


 無意識なのか、段々と顔が俯き加減になっていき、最後には上目遣いになっていた。狙っていないとわかってしまうのだから、その威力はわざわざ言うまでもないだろう。

 呆けそうになっていることを自覚し、姫川さんに気付かれないよう自分のふとももをつねった。

 こんなことじゃ、いつかふとももが千切れてもおかしくないな……。そんな風に自嘲しながら、俺は返事をする。


「もちろん。楽しみにしてますね」

「はい、わたしも楽しみにしてます」


 屈託のない笑みで喜ぶ姫川さんに、微笑ましくなる。

 それと同時に、こんなに喜ばれるとも思っておらず、なんだかいたたまれなくなってしまった。


「それじゃあ」


 今度こそ帰ろうと俺が足を踏み出すと、「日乃さん!」という姫川さんの声に引き留められた。

 振り返ると、彼女は「えっと……あの……」と何かを言おうとしてモジモジとしている。俺は首を少し傾げ、その続きを待った。


「――また明日っ」


 ギュッと瞑られた瞼に、きっとたくさん勇気を出したのだろうと感じさせられた。

 きっと、クラスメイト同士のやりとりとしては当たり前のことで、傍から見たらどこに勇気を必要とするのかわからないかもしれない。

 でも、俺と姫川さん――『店員』と『お客』の関係だった二人にとっては大きな変化で、特別な言葉だと思えた。――だから、俺は笑って彼女に応える。


「また明日!」

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