第7話『常連さん』は『店員さん』にお願いしたい。
「――
テーブルに置かれている紙ナプキンにポールペンで書いた漢字を見せながら、俺は常連さんに名前を教える。
「日乃桐真さん……」
漢字を見ながら彼女が俺の名前を口にする。そのことに、なんだかとても背中がむず痒くなる。
それを紛らわせるかのように、俺は話を続けた。
「……俺も、名前を教えてもらってもいいですか?」
「えっと……でも、保健室に来たとき……」
「たしかに先生から教えてもらったんですけど、やっぱり本人から聞いておきたいというか……」
常連さんは理解したように小さく肯き、紙ナプキンに書かれた俺の名前の下に彼女自身の名前を書き足した。
「――
「ありがとうございます。姫川さん」
お互いの名前を知って、呼び合う。
当たり前のようなことのはずなのに、そのことに大きく前進したような達成感を覚える。まだ、こうして一緒の席に座って話をしていることには慣れないけれど、それを『違和感』と呼ぶほどの堅さではなくなっていた。
それと同時に緊張も薄れてきたのか、常連さん――ではなく、姫川さんの笑顔も戻っていた。
ようやく会話が始まるといったところで、タイミングを見計らっていたのか、注文していたコーヒーが運ばれて来た。
はじめに姫川さんの前、続けて俺の前、それぞれにコーヒーミルクピッチャーを置いていく。ただ、俺にだけはスティックシュガーとミルクピッチャーのおまけ付き。
伯父さんは目だけで「ちゃんと付けておいたぞ」と俺へ伝えてくる。
その気遣いが出来るなら、最初からコーヒーが苦手なことも言わないでほしかった……。
そんな俺の責める視線をかわすように、伯父さんは「ごゆっくりどうぞ」と丁寧にお辞儀をし、すぐに去って行った。
その背中を恨めしく見ていると、姫川さんの方から話しはじめた。
「マスターさんと仲が良いんですね」
「え? あー、伯父なんです」
「親戚の方だったんですね」
「俺がこっちに住むことになって、その流れでここの手伝いをすることになったんですよ」
「そうだったんですね。店い……日乃さんはアルバイトの方だと思ってました」
まだ癖が抜けず、俺を「店員さん」と呼びかけて言い直した姫川さんは、少し恥ずかしそうだ。
「まあ、あんまり差は無いですけどね」
俺はそれに気付かないふりをして、苦笑しながらコーヒーに砂糖とミルクを投入する。
スプーンでゆっくりとかき混ぜる俺に、姫川さんが申し訳なさそうな声を出す。
「あの、コーヒー……苦手なんですよね……?」
その瞬間、混ぜていたスプーンが「カチンッ」と音を立てる。改めて彼女の口から指摘され、動揺が隠せなかった。
それが何よりの返答となってしまった。
「私がすぐ注文しちゃったからですよね、ごめんなさい! 誰かと喫茶店に入るのなんにて初めてで、いつもみたいに頼んでしまって……」
早口で謝る姫川さん。
そんな風に思わせてしまったことに、俺の方まで慌ててしまう。
「いや! その、全く飲めないというわけじゃないですし、いつまでもコーヒーが飲めないっていうのも格好が付かないとも思ってて……」
本当はほとんど飲めないが、ここは嘘も方便ということで許して欲しい。
最後のは自分でも余計なことだと思うけれど、今更見栄を張っても仕方がないとも思っていた。
「とにかく、姫川さんは本当に気にしないで大丈夫ですから!」
俺の必死な説得に、俯いていた姫川さんが顔を上げる。
「……日乃さんは優しいんですね。プリントも、私のことだって知らずに届けてくれて……。そうだ、まだお礼を言ってませんでした! ありがとうございました」
「いや、大したことじゃないですよ。保健室に行くのもそんなに手間じゃなかったですし……」
先生から頼まれた時は押しつけられたと感じていた分、彼女からのお礼は素直に受け取りづらかった。
微妙な心境でその時のことを思い返していると、俺はあることに気が付く。
――そう、姫川さんは保健室にいたんだ。
気が付いてから、ようやく自分が見落としていることがあると理解した。
保健室にいたのだから、彼女は体調が悪かったはずだ。
「あの、具合悪かったんですよね。もう平気ですか?」
ただの気遣い。でも、本心だった。
そのはずが、何故か姫川さんの表情が曇った。
「あの、その……」
彼女は「大丈夫」とも「良くなった」とも「まだ悪い」とも言わない。
その表情と雰囲気に、俺は見覚えがあった。
「すいません、無神経でした……」
つい昨日失敗したばかりで、また同じ顔を彼女にさせてしまった。
「日乃さんが悪いわけじゃないんです。悪いのは……私です……」
昨日は口にしたわけではなかったけれど、同じように自身が悪いというような口振りだった。
どうしてそこまで自分を責めるのか、それを聞けるほど俺と彼女の距離は近くなく、勇気も無い。
これ以上何も聞くことは出来ない。でも、露骨な話題の切り替えをすることも違うように思える。結果、沈黙を選ぶことしか出来なかった。
――しかし、それを破ったのは姫川さんからだった。
「わたし……、保健室に登校してて……」
俺が今まで学生生活を送る中で、そういった事情の人が周りにいたことはなかった。
ただ、知識としてそういうことがあること知っていたし、それが悪いことと思ったことも無い。そういう境遇の人には色々な理由があって、多くが笑って話せるようなことでないと認識していた。
だから、彼女がそれを打ち明けてくれたことがどれだけ勇気のいることだったのか、俺には推し量ることなんて出来なかった。
「それで、こうやってお話出来る人が今までいなくって……」
姫川さんの絞り出すような言葉と声に、俺の胸も締め付けられる。
「その、日乃さんが……」
言葉の詰まる彼女に、何か言ってあげたくなるのをグッと堪えて続きを待つ。
姫川さんは深呼吸を大きく二回行い、それでは足りなかったのか、最後にもう一回を追加する。
そして、ギュッと目を瞑った彼女の口から、それが出てきた。
「――日乃さんが良ければ、これからもわたしと……お話してくれませんか!」
姫川さんからの、一世一代とも呼べるような表情のお願いだった。
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