決闘

 何十年ぶりに手合わせをした兄弟子の剣は、昔とはすっかり変わっていた。焔獄界えんごくかいで唯一の剣士にして、一介の仙士では太刀打ちできないほどの実力を持つ、剣王の呼称にふさわしい妖魔。まさに剣の王者だと、桃修苑はたった数手を交わしただけでそれを痛感した。強力な陽の気と「桃」の字の加護がなければ、宋聆風たちともども、自分もあっけなく魔剣王の手の内で命を落としていたところだ。


 ——こうしよう、修苑。明日、隴河ろうこうの砦の跡地で待っている。弟子でも何でも引き連れて、私の首を取るがいい。


 剣戟の合間に言われた言葉が耳にこだまする。師父殺しの罪。大勢の仙士を屠った罪。焔獄界の軍勢を人間界に引き入れ無辜を虐殺した罪。そのどれもが死に値する裏切りであると、桃修苑とうしゅうえんははっきり分かっていた。枯雨亡こうぼうとの一騎討ちは避けられない。生きて帰れる保証もない。それでも、枯雨亡は他の誰でもない、桃修苑自らが手を下さなければならない宿敵だった。そして今、その悲願が果たされようとしている。



 隴河の砦は、楊蓮鋒の中に眠っていた枯雨亡が覚醒した地だ。あれから三十年、砦は妖魔の先鋒によって破壊し尽くされ、枯雨亡と焔獄界の手に陥ちたも同然の廃墟と化している。

 桃修苑が廃墟に着いたときには、枯雨亡はすでにそこにいて、荒地のただ中にぽつんと立っていた。黒い髪と黒い衣が風になびき、その手には漆黒の長剣が握られている。

「来たか」

 枯雨亡が口を開く。桃修苑は自らも剣を握ると、

「今日こそ決着をつける。劉子尽りゅうしじん師父にお前が殺した数多の仙士と無辜の命、今ここで代償を払ってもらう」

 と告げた。

「良いだろう」

 枯雨亡こうぼうが手短に答える。

 次の瞬間、二人は気合いとともに駆けだして、激しい金属音とともに剣を交えていた。同じ型、決められた返し、共に技を磨く中で知った癖の数々、よく使う技、あまり使わない技、得意な手、苦手で隙の生まれやすい手。どこを攻めればどう防がれるか、どう返せば怯ませることができるか、三十年という空白を経ても相手の全てが手に取るように分かる。一つ異なる点があるとすれば、それは妖魔が生来持ち合わせている高い身体能力が枯雨亡をより凶悪な戦士へと昇華させていることだ。疾風のように繰り出される剣は記憶の中の楊蓮鋒ようれんほうとは比べ物にならないほど迅速で、かつ今まで手合わせをしたどの剣士よりも強い。攻守が目まぐるしく入れ替わり、陰陽の気が剣を介して正面からぶつかり合う。殺気が、光芒が、時折頬や腕をかすめては紅が宙を飛ぶ。剣気が飛び交い、火花が散り、剣戟の音が荒涼とした廃墟に響き渡る。ギィン、とひときわ耳障りな音とともに後方に飛びのいた二人は、空いた左手に剣指を作って刃をなぞった。


誅魔伏妖ちゅうまふくよう!」

邪蓮焦土じゃれんしょうど


 陽にして清、穢れなき内力が桃修苑の剣に注がれて白い輝きを放つ。対する枯雨亡の剣は陰にして邪、黒い剣気をまとって鈍い光芒を放つ。再び激突した二人は数手を交わし、剣気の爆発とともに再び距離を取った。

 その瞬間、桃修苑とうしゅうえんの胸に嫌な痛みが走った。こみ上げてきた鉄の味を地面に吐き捨てて乱暴に口元を拭う。見ると枯雨亡も口の端から血を流しており、今の一招で双方ともに内傷を負ったことは間違いない。ならば次の技だとばかりに、桃修苑は構えを取って飛びかかった。枯雨亡も同時に飛び出し、桃修苑の胸を狙って刺突を繰り出す。桃修苑が身を翻して刺突を避け、すれ違いざまに下ろされた剣を枯雨亡が跳ねのけ、一手また一手と重ねるごとに閃光が尾を引いて二人の周囲を取り囲む。すると、ふいに枯雨亡こうぼうが口を開いた。

「そういえば、あの弟子は連れてきていないのだな。音律と法術の掛け合わせとは実に面白いではないか。是非とも手合わせをしたいと思っていたのだが」

「あれはお前にいたぶらせるために弟子に取ったのではないわ。口を慎め、妖魔!」

「随分な言いぐさではないか。師伯があの魔剣王で、その上直接武芸を学べるなど、彼女にとっても願ってもない幸運だと思うがね」

「ほざけ! それにお前の相手は私だ、他の誰にも譲りはせぬ!」

 雄叫びの如き一言とともに、桃修苑は再び剣指を作った。


聖気凝剣せいきぎょうけん鎮清ちんしん!」


 長剣を振って構えると、その周囲に幾筋もの剣気が現れる。掛け声とともに斬りかかる桃修苑に、枯雨亡もまた剣指を作って邪気を込める。


妖気凝剣ようきぎょうけん枯血こけつ


 枯雨亡の周囲にも、桃修苑と同じように剣気が幾筋も作られる。同じ招式、しかしその性質は正反対——双方の剣気がぶつかって弾け、二人は剣を交える前に爆風に飛ばされて後退した。よろめく二人の体をどちらのものともつかない剣気が貫く。腹を、胸を、手足を貫く痛みに衣を濡らす鉄錆の臭い。地面に剣を突き立ててどうにか体を安定させれば、傷を負った内臓が悲鳴を上げる。胸が詰まって視界が白飛びし、桃修苑は口いっぱいの血を吐いてひどく咳き込んだ。枯雨亡もまた口元を押さえて水分の絡んだ咳を繰り返しており、白い手からこぼれた血がぼたぼたと地面に落ちている。枯雨亡は汚れた袖で口元を拭うと、蒼白な顔でハ、と笑みを漏らした。

「さすがの威力だ。わた……私に、これほどの傷を負わせるとは。桃木は我ら妖魔の天敵、その力を宿したお前のことは、ある」

 息も絶え絶えに言葉をこぼすと、枯雨亡は再び鮮血を吐いた。桃修苑はそれには答えずに自らの穴道を塞ぐと、口元を拭ってよろよろと立ち上がった。

「次で最後だ、枯雨亡。次の一手でお前を討つ」

「望むところだ、修苑」

 そう答えると、枯雨亡も自らに点穴を施した。二人はもう一度剣を構え、剣指を作って睨み合う。

 一瞬の静寂。

 剣先が鈍く光を放つ。その瞬間、二人は剣指を返して内力を集中させた。


「聖気凝剣、誅魔・滅邪!」

「妖気凝剣、枯骨・断仙!」


 赤く染まった衣の裾を翻し、二人は互いに向かって突進する。

 ところが、双方の切っ先がいよいよ触れ合うというその時、桃修苑が剣を持った手を背中に回し、代わりに剣指を作った手をつき出した。突然のことに枯雨亡は足を緩め、剣を引こうとしたが、漆黒の剣はそのまま桃修苑の胸に沈み込む。驚愕に目を見開き、動きを止めた枯雨亡の胸を突いたのは、強力な剣気のこもった桃修苑の指だった。目にも留まらぬ速度で順番に穴道を突かれ、身動きが取れなくなったところに掌を入れられて突き飛ばされる。よろめき、膝をついた枯雨亡の前に桃修苑は背中の剣を突き立て、両手に印を結んだ。


「乾坤反転、陰陽逆走、三魂回始、」


 腕を組み替え、順を追って足を踏み変えると枯雨亡の周囲に金色の光の輪が現れた。桃修苑の意図を悟った枯雨亡は、顔を上げて桃修苑に呼びかけた。

「待て、修苑、それだけはいけない——」


「七魄浄清、聖気環体」


「修苑! 私に換骨奪胎之法を使うとどうなるのか分かっているのか! お前の慕う楊蓮鋒も、私とともに消えてしまうのだぞ!」

 枯雨亡が血の絡んだ声で叫ぶ。桃修苑はその顔をちらりと一瞥すると、迷わず最後の一文を唱えた。


「——悪骨邪体一一消滅、換骨奪胎、以人重生!」


 桃修苑は剣に触れ、内力を地面に流し込む。金色の光に包まれた枯雨亡はそれ以上の反抗をせず、あとには怒りとも無念とも知れぬ絶叫が廃墟にこだまするばかりだった。



***



 黄金の陣が消え、術が完成すると同時に、桃修苑とうしゅうえんはその場に崩れ落ちた。疲労と怪我で全身が鉛のように重い。桃修苑は目だけを動かして、跪いて動かない枯雨亡こうぼうに目をやった。

 かつて同じ師のもとで学び、育ち、腕を磨き合い、妖魔の殲滅と人間の平安を誓って共に肩を並べて戦った兄弟子。彼を裏切り、仲間を裏切って魔剣王として名を馳せた宿敵。だが今は、そのどちらでもない空虚な器だ。換骨奪胎之法かんこつだたいのほうは肉体の性質を徹底的に反転させ、記憶や武功、それまで肉体に蓄積した邪気や毒気を全て抜きとってまっさらな状態に戻す術だ。当然人格も白紙に戻ってしまう。枯雨亡という存在を根こそぎ消し去るには、彼を形作る全てを消し去る必要があった。今目の前にいる黒衣の男は、の形状以外には何も残されていないのだ。

 師の劉子尽がかつて枯雨亡を楊蓮鋒ようれんほうとして生まれ変わらせたのも、この術を使ってのことだった。しかし劉子尽と同じことを繰り返しては、いつまた枯雨亡が復活するか知れたものではない。桃修苑は地面に突き立てた剣にすがって立ち上がると、震える体を引きずって男の前に立ち、両手で剣を持ってその首を勢いよく刎ね飛ばした。


 支えを失った首がぐらりと揺らぎ、斬撃の勢いに負けて倒れた桃修苑の目の前に落ちる。その穏やかな顔は、彼が長年慕ってきた楊蓮鋒そのものだ。

「師兄……」

 桃修苑は物言わぬ頬をそっと撫で、静かに呟くと、その首を未だ流血のおさまらない胸に抱きしめた。

 あのときは一滴も流れなかった涙があふれるのを、あのときは一度も出なかった慟哭の声が喉を裂いて飛び出すのを、桃修苑は止めることができなかった。

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