静寂

 妖魔の住む焔獄界えんごくかいと人間界はそれぞれの地脈の交差点で接し合い、互いに行き来する道を開くことができる。人間界においてそれは凶の地と呼ばれ、人間界の守護者たる仙士たちの砦がいつ来るとも知れぬ来襲に備えている、それが三十年前までの常識だった——三十年前、楊蓮鋒ようれんほうという名の仙士に身をやつしていた一体の妖魔、枯雨亡こうぼうがその本分を表してから事態は一変した。枯雨亡によって砦が次々と襲われ、守備にあたっていた仙士たちは皆惨死して霊力を吸い取られた。膨大な霊気をその身に蓄えた枯雨亡はついに焔獄界への入り口を人間界の側から開き、双方を恒常的に行き来できる道を作り上げたのである。以来枯雨亡は人間界侵略の旗頭として妖魔の軍勢を率い、焔獄界唯一の剣士として——素の身体能力で人間に優れる妖魔は武器には頼らず、体術と法術を使うものがほとんどだ——仙士たちを圧倒した。そしていつしか、彼は魔剣王と呼び習わされるようになったのだ。


 一方の桃修苑とうしゅうえんは「楊蓮鋒」時代の枯雨亡の弟弟子であり、その復活の場面に居合わせた仙士の一人だ。法術に優れ、若いうちから頭角を現していた彼は、かつて枯雨亡という存在を屠った仙士、劉子尽りゅうしじんに楊蓮鋒と共に師事していた——そう、劉子尽は枯雨亡を排除しておらず、妖魔としての特性を剥ぎ取るに留めていたのだ。彼は枯雨亡——この時についた名が楊蓮鋒だ——を一幼児として弟子に取り、仙士の武功を修練させていたのだ。結果、それが仇となって劉子尽は復活した枯雨亡の最初の犠牲者となり、桃修苑に妖魔退治のみならず不義の弟子の始末という責務をも負わせたのである。

 桃修苑とうしゅうえんの対応は驚くほど速く、惨劇を免れた仙士をすぐさま彼の本拠地である浄蓮世境じょうれんせいきょうに召集し、部隊に分けて派遣し直した。凶の地があれば吉の地もあり、凶の地に砦があるように吉の地には仙士たちの修行する「境」と呼ばれる場所がある。凶という土地柄で常に陰の気が充満している砦とは違い、境には陽の気が満ちている。陰の存在である妖魔は境の周辺では完全に地の利がないため、桃修苑は各地の戦力を境に集結させ、基地として扱うことで挽回を測ったのだ。狙うは砦の奪還と通路の封鎖、妖魔の誅伐、そして枯雨亡の首だった。

 


 

***




「師父」

 回廊を行く桃修苑を呼び止める声がした。振り返ると、ちょうど頭を上げた女仙士と目が合う。背中の古琴が目を引く彼女に桃修苑は軽く頷いた。

聆風れいふうか」

 兄弟子の離反から三十年。年と修練を重ね、熟練の仙士となった桃修苑には、宋聆風そうれいふうという弟子がいた。病死した先の師から気功で音律を操る術を学び、現在は法術の達人である桃修苑の指導を受けているという、浄蓮世境に集う中でもかなり優れた仙士だ。

替身桃偶たいしんとうぐうの修練はどうだ」

「陣形は自由に操れます。ですが……」

「琴の音がないと操れないとは言うまいな?」

 そう言って向けられた師の鋭い視線に、宋聆風は慌てて首を横に振った。

「そんな、まさか! 落ち着いてやれば琴がなくても成功します。私……私はただ、師父ほどの長時間は持ちこたえられないと言いたかっただけで」

 その返答を聞くと、桃修苑の目つきがわずかに和らいだ。宋聆風はほっと胸を撫で下ろした——前の師曰く、彼は楊蓮鋒こと枯雨亡こうぼうが本性を現わしてから寡黙で厳格になったらしい。元々は快活な好青年で、楊蓮鋒を常に慕っていて、楊蓮鋒からもよく可愛がられていたそうだ。その兄弟子が実は焔獄界の戦士だったばかりか、今では妖魔の剣王で、なおかつ師の仇だというのは人の性格を変えるには十分過ぎる衝撃だと前の師は語った。彼が来たるべき枯雨亡との決戦に一生を捧げているという話もその時に聞かされた。

「現在の浄蓮世境で、木偶のみで陣を維持できるのは私を除けばお前一人。あとの者は人の身を介さねば陣を張ることもままならない。先日のような失態がまた起これば、次も上手く逃げおおせることができるとは限らぬのだぞ」

 桃修苑の言葉に宋聆風はうつむいた。先日のことはいつまでも消えないのではないかというほど、宋聆風の胸に嫌な傷を残している。

 先日、宋聆風は桃修苑の指揮のもと、他の数人の仙士とともに中原東部の睡龍淵境すいりゅうえんきょうに赴いた。睡龍淵境からの帰途、青陵せいりょうという凶の地の近くで、彼女たちは妖魔の一軍、さらには枯雨亡と遭遇したのだ。青陵といえば、枯雨亡が復活に向けて最初に仙士を襲撃した場所だ。この因縁の地、全ての始まりの地で、かつての師兄弟は再び相まみえることとなった。


 それは衝突から一柱香ほど、各々が武功を駆使して妖魔の一隊をあらかた片付けたときのことだった。あの時初めて、宋聆風そうれいふうは枯雨亡の姿を見た。仙士の装束にも似た漆黒の衣は裾が焼けて縮れ、結わずに流した黒髪は鬼のような威圧感をかもし出していた。全身に黒い邪気をまとっていたのも威圧感の一因だろう。破れた袖や黒髪の分け目から覗く肌は抜けるように白く、うわさにたがわぬ冷酷な目つきが注がれたときは全身が凍り付くような気分になった。

「久しいな。修苑」

 枯雨亡こうぼうが口を開く。落ち着き払った声音だったが、それまで空手だった桃修苑とうしゅうえんは袖を打ち振って長剣を取り出した。

「そこを退け、枯雨亡」

 唸るように言った師に、宋聆風は迷わず古琴の弦を一本指にかけた。それを皮切りに他の仙士も枯雨亡に剣先を向ける。枯雨亡はその様子を横目で見ると、桃修苑に視線を戻して言った。

「弟子を取ったようだな。お前と同じ気概が感じられる」

「だからどうした。師兄と師父の次は我が徒弟までをも手にかける気か?」

 桃修苑の答えに、枯雨亡は静かにかぶりを振る。

「いや。それにまだ勘違いしているようだが、私は楊蓮鋒を殺めたわけではない。仮初めの夢から覚めてあるべき姿に戻っただけだ。いつまでも人聞きの悪いことを言うものではないぞ、修苑」

 そう言うと、枯雨亡は右手を振り下ろした。邪気が凝縮し、一振りの長剣が現れる。桃修苑や他の仙士が持つのと全く同じ形の、しかし柄から切っ先まで真っ黒に染まった細身の剣だ。

「それに皆、我が手勢では満足がいかないと見た。しかしまあ、それはこちらにも非があろう。剣王自らが手を出さねばならぬとは、厳罰ものよ」

 枯雨亡の手の中で剣が黒い輝きを放つ。疾風が頬を撫でると同時に、宋聆風は弦にかけた指を離して溜めた内力を放出した。

「遅い」

 目の前にいたはずの枯雨亡こうぼうが、気が付けばすぐ背後に立っている。宋聆風そうれいふうは身を翻し、琴の端でその鳩尾をドンと突いた。しかし手ごたえはなく、代わりに殺気が体側を撫でる。どう考えても反応が間に合っていないのにかすり傷一つ負っていないということは、つまり枯雨亡に遊ばれているということか——頭に血が上り、同時に脳天が冷えるような恐怖に襲われた宋聆風はやみくもに琴をかき鳴らし、四方八方に攻撃を飛ばしてようやく気が付いた。つい先ほどまで立っていた仲間が、皆血を流して地面に倒れ伏している。枯雨亡にやられたのか、はたまた自分の攻撃が当たったのか、ますます恐慌状態に陥った宋聆風の視界を突如白い背中が遮った。

 金属同士のぶつかる耳障りな衝撃で、宋聆風はようやく我に返った。桃修苑が間に割って入り、枯雨亡の攻撃を受けたのだ。師父、と口の中で呟いた宋聆風をちらりと振り返ると、桃修苑は一言怒鳴った。

「撤退だ!」

 その言葉とともに、桃修苑は黒光りする剣を跳ね退けて反撃に出る。誰かが「宋聆風、移動の準備を!」と呼びかけるのを聞いて、宋聆風は初めて仲間は誰も死んでおらず、皆傷を負っただけだと知った。だが焦りは収まらず、宋聆風はあたふたと印を結んですぐに陣を張るだけの人数がいないことに気が付いた——長距離用の転送陣は最低でも三人がかりでないと機能しないというのに、今動けるのは自分だけだ。宋聆風は急いで替身桃偶たいしんとうぐうの人形を取り出し、内力を送って転送陣の配置につかせた。だが、動揺のせいか人形が狙った場所に立ってくれない。業を煮やした宋聆風は琴の音で人形を配置につかせ、そのまま呪文を奏でて陣を起動させ、隙を見て陣の中に滑り込んだ桃修苑共々安全な場所へと逃げおおせたのだった。

 だが——もしもあの時、枯雨亡が本気だったら。そう考えると、宋聆風そうれいふうは体の芯が凍り付くような恐怖に襲われた。自分たちを殺して霊力を奪うなど、彼にとっては赤子の手を捻るより、いや、蟻の群れを踏み潰すよりも容易いだろう。


「……何にせよ、あの有り様では話にならぬ。一日猶予を与えるからよく練習するように。明後日に成果のほどを見せてもらうぞ」

 桃修苑とうしゅうえんの言葉で、暗い反省に耽っていた宋聆風はハッと我に返った。

「はっ、はい!」

 答えてから、ふとあることが引っかかる。宋聆風は首をかしげて言った。

「師父、明後日と言いますと……?」

「私は人に会う約束がある。それにお前には時間が必要だ。一日やるから琴を使わずとも落ち着いて陣を張れるようにしろ」

「はあ……ですが師父、以前のように、稽古をつけていただくことはできないのですか? もちろんこのような状況ですし、お忙しいことは弟子も分かっております。ですが」

「ならぬ」

 桃修苑にピシャリと遮られ、宋聆風は黙り込んだ。

「お前には法術の才があるが、ゆくゆくはお前一人で伸ばしていかねばならぬ……一人で出来るだけのことをする癖をつけておけ。明日私は隴河ろうこうで人に会う。戻れたら、存分に稽古をつけてやろう」

「……かしこまりました」

 妙な言い方だと思いつつも、宋聆風は拱手して頭を下げた。桃修苑は小さく頷くと、そのまま回廊を歩いて行ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る