静寂
妖魔の住む
一方の
***
「師父」
回廊を行く桃修苑を呼び止める声がした。振り返ると、ちょうど頭を上げた女仙士と目が合う。背中の古琴が目を引く彼女に桃修苑は軽く頷いた。
「
兄弟子の離反から三十年。年と修練を重ね、熟練の仙士となった桃修苑には、
「
「陣形は自由に操れます。ですが……」
「琴の音がないと操れないとは言うまいな?」
そう言って向けられた師の鋭い視線に、宋聆風は慌てて首を横に振った。
「そんな、まさか! 落ち着いてやれば琴がなくても成功します。私……私はただ、師父ほどの長時間は持ちこたえられないと言いたかっただけで」
その返答を聞くと、桃修苑の目つきがわずかに和らいだ。宋聆風はほっと胸を撫で下ろした——前の師曰く、彼は楊蓮鋒こと
「現在の浄蓮世境で、木偶のみで陣を維持できるのは私を除けばお前一人。あとの者は人の身を介さねば陣を張ることもままならない。先日のような失態がまた起これば、次も上手く逃げおおせることができるとは限らぬのだぞ」
桃修苑の言葉に宋聆風はうつむいた。先日のことはいつまでも消えないのではないかというほど、宋聆風の胸に嫌な傷を残している。
先日、宋聆風は桃修苑の指揮のもと、他の数人の仙士とともに中原東部の
それは衝突から一柱香ほど、各々が武功を駆使して妖魔の一隊をあらかた片付けたときのことだった。あの時初めて、
「久しいな。修苑」
「そこを退け、枯雨亡」
唸るように言った師に、宋聆風は迷わず古琴の弦を一本指にかけた。それを皮切りに他の仙士も枯雨亡に剣先を向ける。枯雨亡はその様子を横目で見ると、桃修苑に視線を戻して言った。
「弟子を取ったようだな。お前と同じ気概が感じられる」
「だからどうした。師兄と師父の次は我が徒弟までをも手にかける気か?」
桃修苑の答えに、枯雨亡は静かにかぶりを振る。
「いや。それにまだ勘違いしているようだが、私は楊蓮鋒を殺めたわけではない。仮初めの夢から覚めてあるべき姿に戻っただけだ。いつまでも人聞きの悪いことを言うものではないぞ、修苑」
そう言うと、枯雨亡は右手を振り下ろした。邪気が凝縮し、一振りの長剣が現れる。桃修苑や他の仙士が持つのと全く同じ形の、しかし柄から切っ先まで真っ黒に染まった細身の剣だ。
「それに皆、我が手勢では満足がいかないと見た。しかしまあ、それはこちらにも非があろう。剣王自らが手を出さねばならぬとは、厳罰ものよ」
枯雨亡の手の中で剣が黒い輝きを放つ。疾風が頬を撫でると同時に、宋聆風は弦にかけた指を離して溜めた内力を放出した。
「遅い」
目の前にいたはずの
金属同士のぶつかる耳障りな衝撃で、宋聆風はようやく我に返った。桃修苑が間に割って入り、枯雨亡の攻撃を受けたのだ。師父、と口の中で呟いた宋聆風をちらりと振り返ると、桃修苑は一言怒鳴った。
「撤退だ!」
その言葉とともに、桃修苑は黒光りする剣を跳ね退けて反撃に出る。誰かが「宋聆風、移動の準備を!」と呼びかけるのを聞いて、宋聆風は初めて仲間は誰も死んでおらず、皆傷を負っただけだと知った。だが焦りは収まらず、宋聆風はあたふたと印を結んですぐに陣を張るだけの人数がいないことに気が付いた——長距離用の転送陣は最低でも三人がかりでないと機能しないというのに、今動けるのは自分だけだ。宋聆風は急いで
だが——もしもあの時、枯雨亡が本気だったら。そう考えると、
「……何にせよ、あの有り様では話にならぬ。一日猶予を与えるからよく練習するように。明後日に成果のほどを見せてもらうぞ」
「はっ、はい!」
答えてから、ふとあることが引っかかる。宋聆風は首をかしげて言った。
「師父、明後日と言いますと……?」
「私は人に会う約束がある。それにお前には時間が必要だ。一日やるから琴を使わずとも落ち着いて陣を張れるようにしろ」
「はあ……ですが師父、以前のように、稽古をつけていただくことはできないのですか? もちろんこのような状況ですし、お忙しいことは弟子も分かっております。ですが」
「ならぬ」
桃修苑にピシャリと遮られ、宋聆風は黙り込んだ。
「お前には法術の才があるが、ゆくゆくはお前一人で伸ばしていかねばならぬ……一人で出来るだけのことをする癖をつけておけ。明日私は
「……かしこまりました」
妙な言い方だと思いつつも、宋聆風は拱手して頭を下げた。桃修苑は小さく頷くと、そのまま回廊を歩いて行ってしまった。
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