第16話 アンジェリカにて③

 空気が和んだところで、氷魚ひおは気になっていたことを口にした。

「――ところで、星山ほしやま先輩はクラスメイトの体験だっていう体で話してましたけど、白い手が憑いた男子生徒って、星山先輩自身ですよね」

 氷魚の突然の指摘に、いさなは淡々と応じる。

「どうしてそう思うの?」

「まず、利き腕です。星山先輩って左利きですよね。ペットボトルのキャップも左手で開けてたし」

「そうだったかも」

「男子生徒は左腕を骨折した。星山先輩はペンも箸も持てずに苦労したそうだよって言ってました」

「それだけじゃ、根拠としてはちょっと弱くない? 左利きって、多くはないにしてもクラスに何人かいるでしょ」

「ですね。――あと、話し方に主観がちょこちょこ混ざっていたっていうのもありますが、決め手は順番でした」

「順番?」

「おれが、『怪異探求部の話を持ち込まれて引かなかったんですか』って訊いたら、星山先輩はこう言ったんです。『おれにしてみれば遠見塚とおみづかは恩人で、だから断るという選択肢はなかった』。その後に続いたのが、『遠見塚は潰れかけの郷土部を救ってくれた救世主だ』。細部は覚えてませんけど、大体こんな感じで言葉の順番は間違いないです」

「――星山くんは大袈裟ね。それはそうと、特に順番がおかしいとは思わないけど」

「そうですか? 『郷土部を救った恩人』が持ち込んだ話だから断らなかったって、矛盾してませんか。郷土部を救ったから恩人になった、ならわかりますけど」

「……」

「なぜ星山先輩は最初に恩人と言ったか。考えられるのは、星山先輩はすでにいさなさんに恩があるっていうことです」

「恩って言っても、氷魚くんが知らない他のことかもしれないよ」

「そうですね。でも、根拠はあります」

「どんな?」

「それは」

 いさなと星山、2人の間に流れていた空気だ。あれは、とっておきの秘密を共有している者同士の空気ではなかったか。常識の外にある怪異を共に体験したかのような。

 とても、親しげな――

 ちり、と胸がわずかに焦げついたように痛む。

 そこで、氷魚は自分の感情に気づいた。これはきっと嫉妬だ。自分が知り合う前のいさなと知り合い、助けてもらっていた星山が妬ましいのだ。

 自分だけだと思っていた。自分だけがいさなに助けられて、秘密を知っているのだと。

 でも、そんなわけはないのだ。いさなは困っている人を放っておけない人で、だから星山も助けた。クラスの中でまずい立場になると覚悟の上で。

 クラスでのいさなの対応が紋切り型というのは、いさななりの処世術なのではないかと思う。自分が浮いているという自覚があって、でもできるだけ周囲に合わせようとした結果なのではないか。

 しかしいさなは星山を助けた。氷魚を助けたように。

 結果、クラスで孤立した。

 自分を顧みずに行った人助けの結果、クラスメイトから忌避されるだなんて、そんなのおかしいと思う。

 善行はすべからく報われるべきというのはさすがに甘い考えだと思うくらいの分別はある。実際には報われないことの方が多いかもしれない。ただ、それでも、何らかの救いがあってもいいのではないか。

「氷魚くん?」

 固まった氷魚をいぶかしく思ったのか、いさなが名を呼ぶ。

 自分の感情に気づいた今、根拠を口にできなくなった。だから氷魚はこう言った。

「勘です」

「ここにきて、勘?」

「そうです。頭にぴこんと豆電球が灯りました」

 開き直るしかなかった。

「なにそれ。古くない?」といさなは笑う。

「あとはそう――星山先輩の態度です。あれは、自分が実際に体験した恐怖を思い出している感じでした」

 苦し紛れだったが、まるきりの的外れでもないだろう。星山の恐怖は他人事のようには見えなかった。怪異を体験した氷魚だからわかる真実味があったのだ。

「――なるほど、星山くん、隠すのが下手なのかもね」

「それってつまり……」

「そういうことよ」

「――だったらあと1つ、確認いいですか」

「なに?」

「教室では、いさなさんと星山先輩は普通に話しますか。必要事項以外で」

 いさなはおかしなことを訊くのねという顔で答える。

「? ええ、話すけど」

 やっぱりだ。星山は1つ嘘をついていた。

 いさなのクラスメイトが、腫物を扱うようにいさなに接するというのは本当だと思う。

 それが妥当だとも仕方がないとも思えない。いさなは間違いなく正しいことした。しかし、いさなの行動は周囲にしてみれば理解しがたいものだった。世間一般の常識と照らし合わせれば忌避されるもので、だからクラスメイトはいさなを避けた。学校の教室という閉鎖空間においては自然な反応だったのかもしれない。

 だが、いさなを避けるクラスメイトの中に星山は含まれていない。遠巻きになんてしていないのだ。

 恩を感じているからか、それとも本来の性格ゆえかまではわからない。いずれにせよ、星山は自然にいさなと接している。おそらく、さきほどの部室の中みたいに。

 ではなぜ星山は氷魚に嘘をついたのか。心霊写真騒動の当事者と気づかれるのが嫌だったのか、それとも――

「氷魚くん。どうかした?」

 いさなの声で、氷魚は思考の渦から引っ張り上げられた。

「――いえ、なんでもありません」

「ねえ氷魚くん。星山くんなんだけど、心霊写真の件、自分の話だって知られたくないみたいだから、一応隠しておいてくれる?」

 血の気が引いた。やっぱりそこだったのかと思う。

「……すみません。おれ、とんでもなくデリカシーのないことをしてしまいました」

 星山が隠しておきたかったことなのかもしれないのに、それを暴くような真似をした。今更ながら、配慮が致命的に欠けていたと自覚する。

「大袈裟よ。本気で隠したかったのなら、そもそも写真の話をしなかったと思うよ」

「だとしても……」

 自分が聞いたからだ。星山は親切にも教えてくれたのに。

 嘘や秘密を暴きたかったわけではない。自分はただ、いさなのことが知りたかっただけだ。そんな言い訳が胸の中に空しく響く。

 推理もどきをいさなに披露して、悦にでも浸りたかったのか。だとしたら、自分はとんだ恩知らずだ。

「だったら、これはわたしときみの秘密にしておきましょう。星山くんには内緒ね」

 悪戯っぽく言って、いさなは人差し指を自分の唇に当てた。

「先輩、おれ……」

 いさなのやさしさが、今はいたたまれなかった。

「先輩に戻ってるよ」

「あ……」

「氷魚くんはただ、わたしがいない所でわたしの話を聞いたってことを、わたしに知らせたかったんだよね。そういうの、フェアだと思う。星山くんのは、ちょっと気になっちゃっただけでしょ。誰にでもある、好奇心よ」

「――そう言ってもらえると、少しは気が楽になります」

「深刻に考えすぎ。大体、クラスのみんなは星山くんが当事者だって知ってるんだし。誰かに聞けばすぐわかるよ」

「そうなんですか?」

「わたしのクラスでは有名だね。まあ、先輩として、氷魚くんには隠しておきたかったってところじゃないかな」

「なるほど」

 確かに、星山としては、面白半分に心霊スポットに行ったらひどい目にあったなんて、後輩にはあまり知られたくないだろう。先輩の沽券に関わる。

「わかりました。星山先輩には気づかれないようにします」

「そうしてあげて」

「あの、いさなさん」

「うん?」

「ありがとうございます。今回のことも、猿夢のことも」

 氷魚は深々と頭を下げる。

「改まって、どうしたの」

 頭を上げると、いさなは驚いたように目を見開いていた。

「助けてもらったのに、きちんとお礼を言ってなかったなと思って」

「氷魚くんは義理堅いね」

 いさなは微笑むと、伝票を手に取った。

「だったら、ここの支払いをお願いしちゃおうかな」

 ひらひらと伝票を振る。

「それくらいなら」

 氷魚が手を伸ばすと、いさなは慌てたように伝票を遠ざけた。

「ごめん、うそうそ。言い出しっぺだし、今日はわたしが払うわ」

「だめですよそんなの。おれに払わせてください」

 堅実な氷魚は、貯金がけっこうあったりする。小学生の頃から、お年玉や進学祝い等をこつこつ貯めているのだ。両親や姉の誕生日に使ってはいるが、まだ余裕はある。

「いいの。これはわたしからのお礼」

「? なんのですか」

「一緒にご飯を食べてくれたでしょ。だから、ね」

 有無を言わさず、いさなは颯爽と席を立ち、会計を済ませてしまう。伝票を奪い取る隙も無かった。

 本当に、いさなには世話になりっぱなしだ。自分はいつか、きちんといさなに恩を返すことができるのだろうか。


「今日は楽しかったよ。また明日、学校でね」

 店の外に出たところで、いさなは言った。

「はい、また明日」

 小さくなっていくいさなの背中を見ながら氷魚は思う。

 結局、怪異探求部については訊けずじまいだった。いさなのやりたいことのために作ったと言っていたが、本当にそれだけだろうか。

 潰れかけの郷土部を、もっと突き詰めれば星山を助ける意味合いもあったのではないか。

 だとしても――

 自分は、いさなに協力しよう。それが、恩を返すために今自分ができる最善のことだ。

 氷魚は貼り紙の胡散臭い惹句じゃっくを思い出す。


 日常に這い寄る怪異、引き受けます。


 ただ、なるべくなら、あまり怖い怪異には出会いませんように。

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