第15話 アンジェリカにて②
「はあ、おいしかったね」
食後に追加で頼んだコーヒーを一口啜り、いさなは満ち足りた顔で言った。
「ですね……」
対する
いさななら、ピザ丸々1枚行けたのではないか。シェアしようと言ったのは、氷魚に気を遣ったのかもしれない。
テレビの大食い女王、とまではさすがにいかないかもしれないが、いさなはかなりの健啖家なのは間違いない。その割に食べても太らない体質なのか、ほっそりしている。
氷魚の姉なんて、少し食べ過ぎただけなのにとしょっちゅう体重計に呪詛の言葉を吐いているのに。
氷魚から見れば姉は痩せている方だと思うのだが、その辺り女性はデリケートなのだろう。
「で、
いさなの方から切り出してきた。氷魚は反射的に居住まいを正す。
「――
食事の最中、何度か頭の中で練習していた話の流れを意識して口を開く。
「なるほど。星山くんから、わたしのことを何か聞いたのね」
察しがいい。ならばこちらも余計な前置きは不要だろう。
「はい。心霊写真の話です」
「そう」いさなはマドラーでコーヒーをかき混ぜる。
「星山くん、あの話をしたんだ」
「おれが訊いたんです。先輩――遠見塚先輩の噂のきっかけを。先輩、あ、星山先輩は、『おれが話したっていっていいよ』って言ってました」
「できれば、いさなって呼んでくれるかな」
「え?」
「先輩が2人だとややこしいでしょ。かといって『遠見塚先輩』っていうのは長い。だから、いさな。あ、後ろに先輩はいらないから。――もちろん、無理にとは言わないけど」
窓の外に目を向けて、少しだけ早口にいさなは言い切った。それから横目でちらと氷魚の様子を窺う。
どうしよう。
いきなり名前呼びはハードルが高すぎる。が、先輩の呼び分けは確かにややこしいし、言いにくいのは事実だった。それに、なんだか期待されている気がする。気のせいかもしれないが。
「――わかりました。いさな、さん」
精一杯の勇気を振り絞り、氷魚はいさなの名を口にした。心臓に悪い。
「うん。話の腰を折ってごめんね。続けて」
氷魚に顔を向けて、いさなは微笑んだ。ますます心臓によくない。
「心霊写真、本物だったんですよね」
気を取り直して、氷魚は言った。
「ある意味ではね」
「というと?」
「あの写真に写っていたのはいわゆる霊の手ではなくて、人の思念が生み出した怪異だったの」
「思念?」
おうむ返しに問う。
「ええ。氷魚くんが心霊スポットと呼ばれる場所、そうね、たとえば殺人事件があった廃屋に行ったとする。想像してみて。荒れ果てた部屋、割れたガラス、ささくれだった畳には黒ずんだ血痕が染みついている」
いつの間にか名前で呼ばれている。しかしそのことを指摘するよりも早くいさなは、「どう思う?」と訊いてきた。
名前呼びについてではないだろう。殺人事件があった廃屋についてだ。
氷魚は朽ち果てた廃屋を想像する。浮かんだ感想は1つだ。
「怖いと思います」
口にしてから、我ながら脊髄反射すぎると思う。小学生の感想じゃあるまいし、他に言いようはなかったのか。
「あとは?」
重ねて訊かれる。今度は少し考える。
「――何か出そう、とか」
いさなは、我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「それよ。心霊スポットっていうのは負の感情が蓄積されやすいの。有名な場所はそれだけたくさんの人間が訪れる。訪れた人みんなが、『怖い。ここには何か出そうだ』って感じたら、どうなると思う?」
「――お化けがやる気を出す? よし、怯えてくれるなら張り切って驚かそうって」
氷魚の答えを聞いたいさなはふっと微笑んだ。
「当たらずとも遠からずね。人の負の感情が溜まりに溜まった場合、本物だったらより強固に、もし本物じゃなくても、本物になってしまうの」
「どういうことですか」
「本当は何でもない場所が、心霊スポットに変化するということよ。そういうのは、人が作り上げた、言ってみれば人工の心霊スポットね。本物の霊はいない。けど怪異は発生する。人の思念によって」
「じゃあ、星山先輩の心霊写真の場所は」
「典型的な人工心霊スポットね。あの廃墟では殺人事件どころか、事故の1つも起こってない。単に資金難で潰れただけの、普通のホテルだった。けど、誰かが面白半分にSNSで流したのか、特定の部屋で殺人や自殺が続いたいわくつきのホテルだという根も葉もない噂が広まった。するとどうなるかわかる?」
「肝試しが好きな人たちや野次馬が押し寄せる?」
いさなはコーヒーカップからマドラーを抜き、空中に丸を描く。
「そ。結果、たくさんの負の感情が蓄積されて、見事、心霊スポット一丁上がりってわけ。件のホテル、今じゃ
「まだよくわからないんですけど、人の負の感情が吹き溜まると、それが怪異を引き起こすってことですか」
「そんな感じ」
「だったら、写真に写っていた白い手は……」
「人の思念の切れ端が、人に害をなすまでの力と形を持ってしまった『怪異』よ」
「……怖いですね。元々は何でもない場所に、人の感情で怪異が発生するなんて」
「そうね。しかも、写真の件で言えば、怪異はその場所に留まらず憑いてきてしまった」
「男子生徒に憑いた白い手は、いさなさんがなんとかしたんですか」
「ええ。乗り掛かった舟だったしね」
「やっぱり、刀の錆に?」
「きみはわたしを血に飢えた辻斬りか何かだと思ってる?」
いさなはじろっと半眼で氷魚をにらむ。
「そ、そんなつもりじゃ。……っあ」
氷魚はあたふたと手を振ろうとした。その拍子に手が空のグラスにぶつかり、テーブルから落下した。しかし、覚悟したグラスの割れる音は聞こえなかった。
床にぶつかる直前で、身を傾けたいさなが音もなくグラスをつかみ取っていた。長い髪が床に着いている。
「冗談よ。からかっただけ」
何事もなかったように、いさなはグラスをテーブルに戻した。ちょうど水を注ぎに来ていたウェイトレスが、ピッチャーを持ったまま目を丸くしていた。
「すみません。お騒がせしました」
ウェイトレスの様子に気づいたいさなが頭を下げる。氷魚も慌てていさなに倣った。
「い、いえ、お怪我はありませんか?」
ウェイトレスは、ぎこちない営業用の笑みを浮かべた。
「だいじょうぶです」といさなが言う。
「あ、お水、お注ぎしますね」
いさなのおかげで破壊を免れたグラスに水を注ぐと、ウェイトレスはそそくさと立ち去って行った。
その後ろ姿を見送ったいさなは細い息を吐き出し、
「ごめん。こういうの、引くよね。刀を振り回したりとかも」と言った。
「なんでですか?」
「なんでって、普通、女子高生は刀を振らないでしょ。テーブルから落ちたグラスもつかまない」
床に着いたのが気になったのか、いさなは髪の毛の先端をナプキンでぬぐう。
「かっこよかったですよ。今も、夢の中でも」
「そ、そう?」
「もしかして、箸で蠅をつかんだりできたり?」
「日本で抜群の知名度を誇る剣豪じゃあるまいし。そもそも、ばっちいでしょ」
「一瞬で突きを3度放ったりとか」
「新選組一番隊組長じゃないし。……って氷魚くん、わたしをからかってるでしょ」
「ええ、さっきのお返しです」
「……まったく」
腕を組み、いさなはじろっと氷魚をにらむ。迫力はなかった。
「でも、かっこいいっていうのは本当ですよ。掛け値なしに」
「…………」
いさなはそのまま困ったように固まってしまった。
それから咳払いをし、
「ま、まあ、グラスが壊れなくてよかったわ」と言った。
「はい。助かりました。ありがとうございます」
「お礼なんて。元はわたしのせいでもあるし」
「いえいえ、おれが茶化すようなことを言ったからですよ」
平行線だ。2人は顔を見合わせる。それから、どちらともなく相好を崩した。
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