第14話 アンジェリカにて①
もやもやがなくならない。今すぐいさなと話したい。
校舎を出て、自転車置き場に差し掛かったところで我慢できなくなった
『はい、もしもし』
いさなは3コール目で電話に出てくれた。
「あ、も、もしもし、
声が上ずった。恥ずかしい。思わず周りを確認してしまう。夕暮れの自転車置き場には、氷魚しかいなかった。斜めに夕日が差し込み、影がぽつりと伸びている。グラウンドから、野球部やサッカー部の掛け声が聞こえてくる。
『どうしたの?』
「すみません、お忙しいのに電話してしまって」
『ああ、さっきの件なら、ひとまずは大丈夫。それより、何かあった?』
「あったと言えば、あったんですが……」
どう切り出せばいいか、言葉がうまく出てこない。思いがけず先輩の噂のきっかけを知ってしまったんですなんて、直球すぎて言えやしない。
『電話じゃ言いにくいこと?』
「そう、ですね」
勢い余って電話してしまったが、日を改めて直接話した方がいいかもしれない。氷魚が日和りかけていると、
『だったら、これからご飯食べに行こうか』と、いさなが意外な提案をした。
「――でも、それだと先輩に迷惑が」
『ぜんぜん。知ってるでしょ。わたしは一人暮らしだよ。迷惑どころか、誰かと一緒に食事ができるなら、嬉しい。――って、橘くんの方こそ、迷惑かな? 家でお母さんがご飯作ってるよね』
「いえ、大丈夫です! 連絡すれば問題ないです!」
『そう? ならいいんだけど。場所はどうしようか』
「先輩の好きなところで」
『だったら、「アンジェリカ」でいい?』
氷魚も何度か家族で利用したことがある。味もいいし、値段も手ごろだ。
パスタとパフェとケーキが評判だが、鳴高の大部分を占める男子高校生はあまり寄り付かないので、知っている顔に出くわす確率は低い。ゆっくり話をするのに向いている場所だと思う。
「いいと思います」
『なら決まりね。今すぐでいい?』
「はい、おれは15分くらいで行けます」
『わたしもそれくらいかな。じゃあ、お店の前で待ち合わせね。また後で』
通話が切れた。沈黙したスマホを握りしめ、氷魚は大きく息を吐き出した。
勢い任せの電話が意外な展開になってしまった。
女の子をご飯に誘うなんて、自分がしたこととは思えない。正確に言うと提案してきたのはいさなの方だが、話があると言い出したのは自分だ。つまり自分が誘ったに等しい。
――あれ、そうかな。
どうやら、少し舞い上がっているみたいだ。
これからするのは浮いた話ではない。いたって真面目な話なのに。
そう、真剣にならなければならない。
話すべきこと、訊くべきことをまとめていくうちに、頭が冷えていく。
もしかしたら、いさなは怒るかもしれない。けど、どうしても、話しておきたいのだ。
「ごめん、待った?」
氷魚がアンジェリカに着いてから十分後、自転車でやって来た私服のいさなは開口一番そう言った。
映画やドラマでよく聞くセリフだ。まさか生で、しかも自分が聞くことになるとは想像すらしなかった。
「どうしたの橘くん、ぼうっとして」
「あ、いえ、その」
映画の主人公たちはなんと返していたか。気のきいたセリフの1つや2つあるはずだが、どれもこれも思い出せない。頭の中が真っ白になり、結果、
「先輩の私服、かわいいですね」
などと、見たままのことしか言えなかった。実際、シンプルな白のブラウスと紺のスカートは、いさなによく似合っていた。
「そう? ブティックスズキで買った安売りのだけど」
いさなはスカートの端をつまんで言う。
ブティックスズキは、この畑中商店街にある主婦御用達の店だ。お財布にやさしい価格とそれなりの品質でマダムたちから根強い支持を受けている。
が、保守的なデザインゆえか、若者受けはあまりよろしくない。
昔、姉が中学生になったばかりのころ、ブティックスズキの服を買ってきた母に抗議していたのを思い出す。
『ちょっとお母さん、勘弁してよ。これ着て遊びに行けっていうの?』
『あら、どうして? 小学生の頃は喜んで着てたのに』
『中学じゃ無理! こんなの着てたら一発でスズキストだって認定されちゃうよ!』
というようなやり取りをしてた。おそらく、娘がいる鳴城の各ご家庭では、ベテラン芸人の定番のコントみたいに母と娘の似たようなやり取りが飛び交っているのだろう。
ちなみにスズキストというのは、『スズキで売っているような服を着ている者』に与えられる称号みたいなものである。当然、鳴城でしか通用しない。
「だとしても、かわいいですよ」
氷魚は率直な意見を述べる。
「あ、ありがとう」
お世辞に聞こえてしまったかもしれないが、事実かわいいのだから仕方ない。いさなが着ていれば誰もブティックスズキの物だとは気づかないのではないか。
「橘くんも、黒の詰襟が似合ってるよ」
「それ、褒めてます?」
鳴高の衣替えは6月で、それまで男子は黒の詰襟着用が義務だ。現在、もう5月も下旬で、さすがに暑くなってくる時期である。なので、氷魚としてはできればもう脱いでしまいたい。
「褒めてる褒めてる。さ、入ろっか」
いさなはなぜか楽しそうに笑うと、店のドアを開けた。続いて氷魚も入店する。
窓際の席に案内されて腰を落ち着けるなり、いさなはメニューとにらめっこを始めた。
「――決めた。わたしはカルボナーラと季節のキウイパフェにする」
いさなはありがたい神託を下す巫女のように厳かに告げた。悩んでいたのはわずか数分だった。
「橘くんは?」
「おれはミートソースで」
ここに来るといつも頼む品物だった。他のパスタもおいしいのだろうが、ついつい知った味で安定を取ってしまう。たまにしか来ないお店だとなおさらだ。
「デザートは頼まないの? ここのは全部おいしいよ。特にパフェがおすすめ」
男子高校生としては、パフェを頼むのは気恥ずかしいと思わなくもないが、メニューの写真は確かにおいしそうだった。たまにはいいかもしれない。
「なら、先輩と同じものを」
「あと、ついでにピザも頼まない? 1人だと全部食べ切れないけど、シェアするならいけると思うの。ちなみにわたしのおすすめはバジルたっぷりマルゲリータね」
アンジェリカのパスタは1人前で結構な量がある。ピザもだ。ついでで頼むものではない。育ち盛りの氷魚だが、パスタ+ピザの小麦粉欲張りコンボはちょっときつい。しかし、期待に満ちた目をしたいさなを裏切ることはできそうになかった。
「――先輩にお任せします」
いさなは素敵な笑顔でうなずくと、ベルを鳴らしてウェイトレスを呼んだ。手際よく注文を済ませる。去り際、ウェイトレスはちらと氷魚たちを見ていった。
今更ながら、自分といなさはどう見られているのだろうと氷魚は思う。いさなは私服だが、自分は鳴高の制服だ。――カップルに見られるだろうか。
いや、それはないと即座に打ち消す。自分といさなでは釣り合わない。いさなのレベルが高すぎるのだ。いさなを主演女優とするなら、自分は画面端にちらっと映る通行人Aだ。外から見ても、きれいな先輩と冴えない後輩が関の山だろう。
「お母さん、突然の外食でも大丈夫だった?」
グラスの水を一口飲んで、いさなは言う。
「ええ。部活の先輩とご飯に行くってラインを送ったら、驚いてましたけど。ご丁寧に、アニメキャラの驚き顔のスタンプまで添えて」
「橘くんのお母さんはアニメが好きなんだ」
「エンタメ全般が好きみたいですよ。特に好きなのは映画ですね」
「橘くんも映画を観るの?」
「まあまあ観ます」
小さいころから母と一緒に観ていた影響か、氷魚も水鳥も映画好きだったりする。同じ映画を観て育ったのに、現在の姉の好みはB級を含むアクションやSF、氷魚はヒューマンドラマと見事に別れた。
「先輩は何が好きなんですか」
とっかかりはここだと思う。本題に入る前に、ジャブを打っていく。
「わたし? わたしは……強いて言えば本かな。特に小説ね。自分以外の人生を体験できるって、素晴らしいと思う。活字だと没入感が違うのよ」
「ジャンルはやっぱりホラーですか」
「やっぱりって何よ。……時々は読むけど」
時々というのは意外な気がする。好んで読んでいる印象だが。
「本職から見ると、そんなのないないとか、あるあるってなったりするんですか」
「何の本職よ……。まあ、とにかく、フィクションに接するときは、そういうのは気にしない。純粋に楽しみたいの」
「なるほど。先輩は、運動は何かしてるんですか? 夢の中では凄い動きでしたけど」
「どうしたの? なんかインタビューみたいね」
どきりとした。ジャブだったのがばれたのかと思う。露骨すぎたかもしれない。
どう返したものか思案していると、パスタとピザが運ばれてきた。いさなの目が洞窟探検の末に宝物を見つけた子どものように輝く。
「話はひとまず後にして、冷める前に食べましょうか」
「そうですね」
「では、いただきます」
いさなは嬉しそうにパスタをフォークに巻き、口に運ぶ。所作が丁寧だ。
氷魚は粉チーズをかけると、ミートソースが飛び散らないように慎重に食べ始める。久しぶりに食べたが、やはりおいしい。家庭では出せない味だ。
食べながらも、いさなに聞きたいことがたくさん浮かんだが、パスタと一緒に飲みこむ。食事中に質問攻めにしたら、いさなはいい気分はしないだろう。それに――
「ん? どうかした?」
「いえ、なんでも」
こんなにも幸せそうに食べているのだから、邪魔をしたら悪い。
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