第9話 猿夢奇譚⑨
「先輩、今更なんですけど、これ、マジですか」
「マジよ」
氷魚の枕元に正座しているいさながそっけなく答えた。
氷魚が眠りに落ちた後に魔術による干渉があるか、いさなが近くで確かめる。もしも干渉があったら、解決策を用意している。
事前に説明を受けてはいた。が、やはり現実感がない。
「眠れないんですが」
時刻は夜の11時を回っている。普段であれば寝ている時間だ。しかし、どうしてこの状況で眠れようか。今日初めて訪れた人の家、そして枕元には美人の先輩。しかも制服姿。
無理だ。緊張で神経が高ぶっている。
「そのうち薬が効いてくるわ」
布団に入る前、よく眠れるようにと錠剤を貰った。睡眠薬みたいな物だそうだが、まだ効果は実感できない。
「眠れないなら、都市伝説でも話してあげようか」
落ち着かず、もぞもぞしていたら、いさなが不意に口を開いた。
「なんでそのチョイスなんですか。余計眠れなくなりますよ」
「そう? 面白いよ」
「どうせ聞くなら先輩の話がいいです」
「わたしの? だったら、橘くんの話が聞きたいな」
「おれのって、先輩に比べたら絶対に退屈ですよ」
「どうして決めつけるの?」
「だって、おれは平凡だし。劇的な出来事なんて何もない、ありふれた――それがとても幸運だってことはわかりますが――家庭で育ったので」
「橘くんを見ていると、いいご家庭で育ったんだなってわかるわ。ただ、橘くんは、なんだかすごく家族に気を遣っているように見えるけど」
「気を遣うというか、迷惑や心配をかけたくないんです」
「昨日も言ってたよね。いろいろあった、だっけか」
「そうですね。いろいろです」
沈黙が場に下りた。いさなはどうして? とは訊かなかった。
自分は訊いてほしいのだろうか。話したいのだろうか。
その場しのぎで『いろいろ』と口にはしたが、実際の理由はたった一つだ。
「――死にかけたんです。小さい頃」
沈黙は数十秒ほどだったろうか。気負わず、何気なく言ったつもりだったが、うまくいったかどうかはわからない。
いさながこちらを覗き込む。氷魚はわずかに目を逸らし、天井を見つめる。
「家族でキャンプに行った日でした。ゴールデンウィークで、こどもの日だったな。夜になって、高熱が出たんです。祝日でも診療している病院に運ばれて、そのまま入院して1週間病院でうなされていたそうです。あともうちょっと熱が続いていたら死んでいたって聞きました」
相当苦しかったはずだが、熱のせいかおぼろげな記憶しかない。
「病気だったの?」
「かもしれません。原因不明だったんです。1週間経ったら、嘘みたいに熱が引いたって」
「そうだったんだ」
「家族、特に姉がひどく責任を感じたみたいで。『あたしが河原で水をかけたからだ』って。泣きじゃくっていたそうです。おれが目を覚ました時も泣いていました。姉さんは何も悪くないのに」
気が強い姉が泣いている姿を見たのは、後にも先にもあれ一度きりだ。
ぼろぼろと大粒の涙を流す幼い姉の泣き顔は、今も脳裏に刻みついている。自責の念と共に。
氷魚は細い息を吐き出す。
「ぼくはとっても悪いことをしたんだなって、子ども心に思いました」
「橘くんの責任じゃないでしょう」
「……ありがとうございます」
いさながそう言ってくれるのを期待していた自分にちょっとした浅ましさを感じたが、気が楽になるのは事実だった。誰かに大丈夫だよと言ってほしい瞬間は、絶対にある。
「熱がきっかけで、橘くんはできるだけ家族に迷惑をかけないように生きていこうって決めたの?」
「はい。もう家族の悲しむ顔は見たくないって思ったんです」
「そうだったんだ。がんばったね」
「そう……ですか?」
がんばったとか、努力したとかいう自覚はなかった。それが当たり前で、自分の義務だと思っていた。
「そうだよ。まだ小さい頃からそういう考えで生きてきたんでしょ。なかなかできることじゃないよ」
ただ、といさなはやさしい声で続きを紡ぐ。
「橘くんは、もうちょっと甘えても許されると思う」
「ぼく、は……」
薬が効いてきたのか、意識が心地よく酩酊していく。
「迷惑をかけたり、かけられたり。たまに喧嘩することがあっても、でも、許し合える。家族ってそういうものでしょ。……そうであってほしいよ」
いさなのやさしい声にいざなわれるように、氷魚は眠りに落ちた。
電車の中だった。座席にはいつものクラスメイトたちが座っている。運転席に背を向けて立っている氷魚を含めて、7人。最初10人いた乗客は、3日で3人減った。何もしなければ、今日も1人減ってしまうのは間違いない。
「次はみじん切り~、みじん切りでございます」
車内に気の抜けた声のアナウンスが流れた。
来た。
氷魚は気を引き締める。やはり身体は動かせない。だが、今までより恐怖感は薄い。慣れたわけではない。いさながついていてくれるという安心感があるからだ。
後部車両へ続くドアが開いた。肉厚の鉈を持った小人が2人、にたにたと嫌らしい笑みを顔に貼りつけてやってくる。
眠る前に聞いたいさなの推測だ。
しかし小人たちは陣屋の前を素通りした。
それどころか2人の小人は他の生徒たちには目もくれず、一直線に氷魚を目指して歩みを進める。ぎらぎらと、不気味に光る鉈を引きずりながら。
明確に、自分を害そうとする悪意が迫ってくる。
「……っ!」
声が出ないおかげで、情けない悲鳴は上げずにすんだ。
身体は動かず、逃げ出すことはできない。今の氷魚にできるのは、ただいさなを信じることだけだ。
歯医者の待ち時間にも似た、長いような短いような時間だった。身じろぎもできず固まっている氷魚の前に、小人たちがたどり着いた。近くで見ると、小人は氷魚の背丈の半分ほどの大きさだった。大きな鉈との不釣り合いさが恐怖を増幅する。
左右に別れた小人2人が鉈を振り上げる。恐怖に駆られながらも、氷魚は目を逸らさない。
大丈夫。絶対に大丈夫だ。
小人が鉈を振り下ろす。ひどく緩慢な動作に見えた。
刃が自分の身体に食い込む感触を想像した瞬間、火花が散った。
氷魚の影から出てきた刃が、鉈を受け止めていた。
「――!」
「ぎりぎりでごめんね!」
刃に続いて、氷魚の影から眠る前と同じ制服姿のいさなが飛び出してくる。妖しく煌めく刀を持って。
いさなはそのまま刃を滑らせ、鉈を受け流した。体勢を崩した小人に鋭い蹴りを叩き込む。小人は勢いよく吹っ飛んで、床に転がった。
急に現れたいさなに動揺したのか、固まったもう一方の小人に向けて、いさなは刃を一閃させた。
速すぎて氷魚の目にははっきり映らなかったが、いさなの斬撃は袈裟懸けに小人の身体を断ち切った。小人の身体は黒い粒のようなものに変化して、霧散する。
続けていさなは間髪入れず、床に倒れている小人に近づく。立ち上がろうとした小人の胴体を踏みつけ、素早く逆手に持ち替えた刀の切っ先を躊躇なく首に突き刺した。くぐもったうめき声を上げ、小人の身体が霧散していく。
――すごい。
テレビで見るトップアスリートの動きのようだと思う。
いさなの一連の動作には、よどみもためらいもなかった。明らかに、いさなはこういった荒事に慣れていた。
小人が完全に消えたのを見届けた後、いさなは刀を持ち直した。息一つ切らしていない。
刀を持った姿が恐ろしく様になっている。刀の刃渡りはざっと80cmほどだろうか。家族旅行で訪れた博物館で見た刀とはまた違う、美しさの中に妖しい煌めきがある。見ていると吸い込まれそうだ。怖くなった氷魚は刀から視線を引きはがす。
「橘くん、怪我はない?」
「――はい、先輩のおかげです」
いつの間にか、声が出るようになっていた。試しに腕を持ち上げる。問題なく動く。
「解決策って、直接先輩が乗り込んでくることだったんですね。ありがとうございます。助かりました」
「間に合ってよかった」
「先輩は、どうやってここに?」
「橘くんと精神を同調させたの。眠る前に飲んでもらった薬があったでしょ。あれの効果と――」
そこでいさなは自身の影に視線を落とした。
「協力者に手伝ってもらってね」
「協力者ですか」
一体誰だろう。口ぶりから、道隆ではなさそうだが。
「今はそれよりも、犯人当てをしましょうか」
いさなは、座席に座った生徒たちに目を向ける。思わぬいさなの言葉だった。
「犯人――って、この中にいるんですか?」
てっきり、安全地帯みたいな場所でこちらを監視しているイメージだったのだが。
「ええ、そうよ」
いさなは刀の切っ先を1人の生徒に向けた。
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