第8話 猿夢奇譚⑧

たちばなくん、先輩から何か聞いた?」

 1時間目が終わった後の休み時間、ぐったりした様子の葉山が氷魚ひおの席にやって来た。

「葉山さんも、また猿夢を見たの?」

 氷魚が訊くと、葉山は力なくうなずいた。

「うん。もらった護符は、枕の下で黒焦げになってた。これって、相当強力な呪いってことよね。どうしよう。あたしたち、死んじゃうのかな」

 今にも泣き出しそうな葉山を見て、氷魚の胸が痛む。

「大丈夫だよ。遠見塚とおみづか先輩、考えがあるって言ってたから」

 不安を抱いているのは氷魚も同じだが、少しでも葉山に安心してほしくて、氷魚は無理に微笑んだ。

「本当? どんな?」

 上目遣いで、葉山は不安そうに問う。

「それは……まだ聞いてない」

 いさなの実家に泊まるとは聞いているが、具体的に何をするのかはわからないままだ。

「そう……。何かわかったら、教えてくれる?」

「もちろん。同じ夢で苦しむ者同士だし」

「ありがとう。よろしくね」

 おぼつかない足取りで自分の席に戻る葉山を見て思う。絶対に、この怪異は解決しなくてはいけない。クラスメイトたちのためにも。


 放課後になった。

 携帯で済ませるべきではないと思ったので、氷魚は直接屋名池の教室まで行き、今晩屋名池の家に泊まることにしてもらえないかと頼んだ。ろくすっぽ事情も訊かず、屋名池は快諾してくれた。

「この間もだけど、いいのか?」

「いいよ。何か事情があるんだろ」

 氷魚は言葉に詰まる。本当は洗いざらい何もかもを話してしまいたい。だが、できない。ことは自分だけの問題ではないのだ。

「橘に彼女ができた、とかだったらめでたいんだけどな」

 屋名池やないけは茶化すように言う。

「だったらいいんだけどね。そういうんじゃない」

「そうか? 2年の遠見塚先輩と一緒に何かしてるって話を聞いたけど」

 昨日の派手な動きを考えれば、噂くらいにはなるだろう。

「遠見塚先輩って有名なのか?」

「もちろん。ここは男だらけの鳴高だぞ。あんなにかわいければ当然だろ」

 説得力のある言葉だった。

「あとは、そうだな。時々ふらっと学校を休むらしい。噂じゃ変なカルトにはまっているとか言われてる。って、橘、大丈夫か。勧誘とかされてないか」

 氷魚が気づかなかっただけで、1-5でもそういった噂が流れていたのかもしれない。そういえば、昨日話を聞いた何人かは胡散臭そうな顔をしていた。もしかしたらいさなの『噂』を知っていたのだろうか。

「されてないから、大丈夫だよ。それと先輩はカルトとは関係ない、と思う」

 いさなは氷魚には思いもよらないような怪異に関わる『仕事』をしているのではないかとうっすら考えている。その関係で学校を休むことも多いのかもしれない。誤解を受けてしまうのも、やむを得ない部分があるのだろう。怪異なんて、実際に体験しないと信じることなんてできないと思う。

「心配だな。橘は人がいいから、だまされて高い壺とか買わされそうだ」

「ないない。そもそも、先輩はいい人だよ。よくわからない所もあるけど、間違いない」

 怪異とか抜きに、いさなは信じるに足る人物だと氷魚の目には映った。だから信じようと決めたのだ。

「なるほど。橘が言うなら、そうなんだろうな」

 屋名池はあっさり納得した。信用してくれているようで、嬉しくなる。

「今度、おれにも紹介してくれ」

「――うん。ぜひ」

 今抱えている問題が解決したら、3人でゆっくり食事にでも行きたい。そう思った。


 市街地の外れにあるいさなの実家は、大きな日本家屋だった。いさなに続いてタクシーから降りた氷魚は思わず目をみはった。

 城下町である鳴城にはいかにもなたたずまいの民家がちらほらとあるが、ここは別格だ。時代劇や観光地で見る武家屋敷みたいだった。

 先輩って、やっぱりいいところのお嬢様だったんですね。

 遠見塚の家を見て、氷魚の頭に浮かんだ感想がそれだった。そのまま口に出しそうになるのはかろうじて堪えた。言われたら、いさなはあまりいい気分はしないと思ったからだ。

 本人はただ家を出ただけだと言っているが、家族と何かしらの確執はあったのだと思う。

「どうしたの? 立ち止まったりして」

 風格のある門を潜ったいさなが振り向いた。

「あ、その、立派な家だなと思って。ちょっと気後れしちゃいました」

「一応、歴史がある家だからね。といっても、今住んでいると言えるのはわたしの兄1人だけよ」

 いさなは前に向き直る。それから思い出したように、

「両親は仕事であっちこっち飛び回っているの。今日も留守。だから安心して」と付け加えた。

 ひとまずほっとした。いさなの両親に会ったとしても、どう挨拶すればいいのかわからなかったからだ。

 広い庭を横目に、いさなの後に続いて氷魚は大きな玄関に到着する。三和土で靴を脱ぎ、氷魚は「お邪魔します」と言って廊下に上がった。

「いらっしゃい。きみがいさなの言っていた子だね」

 玄関から見て左の部屋から作務衣姿の男性が出てきた。端正な顔に穏やかな笑みを浮かべている。さっきいさなが言っていたお兄さんだろう。目元がいさなに似ていた。

「はじめまして。橘氷魚です」

 氷魚は頭を下げる。

「いさなの兄の道隆みちたかです。事情は聞いているよ。災難だったね。にしても」

 道隆は子どもの初めてのお使いを見守るような目でいさなと氷魚を見つめた。

「いさなが家に男の子を連れてくるとはね」

「兄さん、説明したでしょ。橘くんは……」

「わかってるよ。それでも感慨深いんだ。――橘くん」

 急に肩を掴まれた。ヤツデの葉を思わせる、大きな手だった。

「な、なんですか?」

「今は怪異絡みでそれどころじゃないとは思うが、今後、いさなと仲良くしてくれると、ぼくは嬉しい」

「はい――?」

「なにせこの子は友達がいなくて」

「兄さん」

 押し殺したいさなの声で、道隆は怯えた子犬みたいに氷魚の肩から手を離す。

「すまない。押し付けるのはよくないよな」

 大きな体を縮こまらせて、道隆は申し訳なさそうに笑う。

 妹思いのお兄さんなのだろう。そして、ここまでのやり取りで、氷魚はいさなの交友関係がなんとなく想像できてしまった。

 だからだろうか。

「――いえ、おれも、いさなさんとは末永く仲良くしたいと思っています」

 氷魚は、頭に浮かんだことをそのまま口走っていた。

「た、橘くん?」

 珍しく、いさなが動揺したような声を上げた。そこで氷魚は気づいた。

 もしかして、今の発言は、捉え方によっては交際を申し込んだように聞こえるのではないか。だとすれば、自分は大それた爆弾発言をかましたことになる。

「――っ、あ、あの、今のは、なんていうか、その、変な意味じゃなくて」

 氷魚はしどろもどろに弁明する。変な汗が出てきた。

「橘くん、いや、氷魚くんと呼ばせてもらってもいいかな。晩御飯は食べてきたのかい?」

 なぜか暖かな目で道隆が問う。

「まだですけど……」

「よかった。ぼくが作らせてもらうよ。家族以外の誰かに食べてもらうのは久しぶりだ。できるまで、2人でゆっくりしているといい」

 さわやかな笑みを残して、道隆は廊下の奥に消えていった。

「――橘くん、ごめんね。兄が変なことを言って」

 氷魚の足元に目を落とし、いさなは申し訳なさそうに言う。

「いえ、おれの方こそ、すみません……じゃなくて」

 反射的に謝罪の言葉を口にしたが、氷魚は首を横に振った。ここは謝るべきではない。

「先輩、おれには友達がいません。屋名池くらいです」

「どうしたの突然」

「だから、先輩が嫌じゃなければ、この事件が終わった後も、構ってもらえたり、助手として使ってもらえると、嬉しいです」

 一旦言葉を切り、息を吸い込む。

「さっきの言葉、嘘じゃないですから」

 決していさなの立場に同情したわけではない。偽らざる気持ちだった。

「橘くん……」

 口にした以上、もう取り消せない。勢いで突っ走ってしまったが、これで「え、無理、きもい」とか言われたらどうしようと今更ながらに思う。一気に距離を詰めようとしすぎなのではないか。

 進退窮まったその時だった。

「聞くのを忘れていたんだけど、氷魚くん、苦手なものとかある……って、お邪魔だったかな」

 廊下の奥からエプロンを着けた道隆がのっそりと姿を現した。天の助けかと思う。

「ないです! なんでも食べます!」

「そうかい。それならいいんだけど」

「そうだ先輩、アルバムを持ってきたんですけど、何に使うんですか?」

 ヘタレでもいい。とにかく話題を逸らそうと決めた。

「う、うん。確かめたいことがあるの。兄さん、居間を使うね」

 どこかほっとしたように、いさなは言った。いさなもどう返答したらいいか迷っていたようだ。

「わかった。ご飯ができたら呼びに行くよ」

「じゃあ橘くん、こっちよ」

 氷魚はいさなに案内されて廊下を歩き、居間へと足を踏み入れる。

 畳敷きの居間は、由緒ある旅館の部屋を思わせる風情だった。ざっと見ても20畳くらいある。中央に置かれた大きなちゃぶ台がまたいい味を出していた。

 窓からは広い庭が見渡せた。蔵まであるのがいかにも旧家といった感じだ。

「楽にして」

「ありがとうございます」

 礼を言って、氷魚はいさなが居間の隅から持ってきてくれた座布団に座る。ふかふかで座り心地が抜群にいい。

「それで橘くん、アルバムなんだけど」

「あ、はい。今出します」

 氷魚はリュックから中学のアルバムを取り出し、ちゃぶ台の上に置いた。

「ありがとう。見せてもらうね」

 いさなは手帳を脇に置き、真剣な顔でアルバムをにらみつける。ページをめくりつつ、時折何かを手帳に書き込んでいく。

「――なるほどね」

 きれいな横顔に見惚れていた氷魚は、いさなの呟きで我に返った。

「何かわかったんですか?」

「今回の猿夢の被害者は、全員橘くんと同じ、大村第一中学校を卒業している。他校の生徒は1人もいない」

「それがおれたちの共通点……?」

 いさなはうなずく。

「だと思う。あと、先生に聞いたのだけれど、橘くんたち、少し前に上履きの磁石を盗まれたのよね」

「そうです。……ってまさか」

「確認したけど、猿夢の10人だったわ。魔術の触媒として使ったんでしょう。相手の持ち物を使う方法ね」

 ぞっとした。磁石の件は単なるいたずらだと思っていたのに、背後に強い害意が潜んでいたなんて。

「知ってると思うけど、うちの学校の上履きの磁石は取れやすい。10人分でも、手際よくカッターとか使えば数分あれば足りるでしょうね。人の少ない時間を狙えば、見とがめられる可能性は低い」

「学校内に出入りしている人なら、誰でもできるってことですね」

「ええ。――犯人は、橘くんを含む大村第一中学卒業の10人に何らかの恨みを持っていて、学校を出入りしても疑われない人物」

「生徒か先生、でしょうか」

「ん、そうね……」

 いさなは曖昧にうなずいた。

「いずれにせよ、おれたち10人が恨まれる理由って何でしょうか?」

 相変わらずそこは不透明なままだ。

「それに関しては、葉山さんが正しいのかもね」

「そんな、屋名池は」

 いさなはわかっているというように右手を静かに挙げる。

「屋名池くん以外にも、特進科を落ちた受験生はいるでしょ」

 いさなの言いたいことは、すぐにわかった。

「落ちて悔しいのはわかります。でも、だからって、受かった人を憎んで呪おうなんて考えるものですか」

 それはあまりに怖くて、悲しい負の感情だ。

 そこで氷魚は思う。もし自分だったらどうだろう。1-5の教室にいるのが自分ではなく、たとえばそう、屋名池だったら。今の屋名池のように、平然としていられるだろうか。

 自信はなかった。以前のように接することはできないかもしれない。だが、呪いたいとまでは思わない、はずだ。

「受かった橘くんはいまいちぴんと来ないかもしれないけど、特進科を受けたけど落ちて、普通科に通うことになった男子生徒は、特進科である5組に対して複雑な感情を持つでしょうね。なにせ同じ高校なんだから。制服は一緒なのに、明確な壁がある。中には憎む人もいるんじゃないかな」

「……」

「女子の場合も、落ちたら違う高校に通うことになるとはいえ、きっと似たようなものよ。推薦にせよ一般受験にせよ、落ちていたらこのえんじ色の制服を着ている子に嫉妬すると思う。野暮ったい制服だけどね。街で見かけたら、少なくとも、わたしだったら嫉妬する。呪うまではいかないにしても」

 視線を庭に向けて、いさなは淡々と言った。

「先輩が、ですか?」

「わたしは一般受験で特進科を受けたの。当然、落ちたらそれっきり。もしだめだったら、受かった人に嫉妬してもおかしくないでしょ」

「――そうだったんですね。にしても、女子で特進科を一般受験なんて、おれの姉だけだと思ってました」

「橘くんのお姉さんも? わたしが言うのもなんだけど、勇気があるのね」

 視線を正面に戻し、いさなは微笑む。

「先輩はどうして特進科を受けたんですか」

「何かを成し遂げて、自信をつけたかったの。だからまずはこの辺りで一番難しい特進科を受けようと思った。――と、ごめん。話が逸れたね。わたしのことはどうでもいいわ」

「いえ、どうでもよくはないです。先輩のことをもっと知りたいです」

「……また、きみは真顔でそういうことを言う」

 なぜか頬を少し赤らめたいさなは、氷魚から目を逸らした。

「何かおかしいですか」

 いさなは謎だらけだ。どういう人なのか知りたいのは当然だと思う。

「――とにかく、今は目の前の事件の話よ。なんで一中卒業生だけターゲットにしたかっていう疑問とか、色々あるでしょ」

 いさなの有無を言わさぬ口調に、氷魚はうなずく。

「え、ええ、そうですね」

「と言っても、大体見当はついたけどね」

「え、わかったんですか?」

「推測だけどね。あとは犯人に直接訊くのが手っ取り早いかな」

「何か捕まえる策があるみたいな口ぶりですね」

 氷魚が言うと、いさなは唇の端を持ち上げた。

「ある。そのためにきみをこの家に呼んだの」

「一体どうやって?」

「それは後のお楽しみとしておきましょうか」

 悪戯っぽく言って、いさなは意味ありげに笑う。

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