④ 黒い染み


 ――カシャリ……カシャリ


 スマートホンカメラのシャッター音が響き渡るアパートの一室。


 リビングやキッチン、風呂場やトイレ。

 風見順平かざみじゅんぺいは自分の部屋の端から端までを写真に収めていた。


 大学進学を機に彼がこの部屋に住み始めて間もなくから、ラップ音やポルターガイストが頻発していたからだ。

 深夜二時に壁を裏側からノックするような音が聞こえたり、キッチンの戸棚がいつの間にかすべて開いていたり。


 特に事故物件だとかは聞かされていないが、きっとこの部屋には自分以外の何かがいる。

 だから絶対に心霊写真が撮れるはず。

 風見はそう思っていた。


 部屋の隅々まで撮り終え、すべての写真を確認。

 一枚、また一枚と怪しいところをアップにして見ていく。


 だが、もし本当に変なものが写っていたらどうしよう。

 今更になって、風見は怖くなってきた。


 いっそ見るのを中断して写真を消そうかとも思った。

 しかし、怖いもの見たさで気になる気持ちもある。


 そんな思いのせめぎ合いをして何度も休憩を挟んでいたせいで、すべての写真を見るのにひどく時間がかかってしまった。


 そして二時間がかりで確認し終えた結果――


「――何も写ってなかった……」


 その途端、肺の中の空気がすべて外に出た。安堵の息である。

 そこで初めて彼は、今までずっと緊張状態にあり、浅い呼吸しかしていなかったことに気付いた。

 風見は自分で思っていた以上に怯えていたのだ。


 ラップ音やポルターガイストの正体も、ただの老朽化や隙間風のせいに違いない。

 とにかくよかった。


 そう思って写真を削除しようとした時だった。


「ん……?」


 リビングの白い壁を写した一枚。

 その中央に黒い点があることに気が付いた。


 写真を拡大表示してみる。

 するとそれは点というよりも、染みであることに気付いた。

 実寸大を考えると、指先ほどの大きさだろうか。


「こんなところに染みなんてあったっけ……」


 写真を撮った場所に目を遣る。

 ……が、そこには真っ白な壁が。

 寄ってみて確認するが、やはり黒い染みらしきものは一切なかった。


「ほこりが偶然写ったのか?」


 いや、きっとそうだろう。そうに違いない。

 風見は特に気に留めることなく写真フォルダを閉じた。


 たった今、撮った写真を消そうとしていたのに、どうしてそれを忘れてしまったのか。

 そのことについて風見は後から考えても分からなかった。

 だがその時は、何となく消さなくていいと思ったのである。


 それはともかくとして、不思議なことにその日からぴたりと、ラップ音やポルターガイストは起こらなくなった。


 やはり霊的な何かではなかったのだろうと風見はさらに安心。

 この部屋に住み始めてからようやく初めて、何の心配もなく過ごせるようになったのである。



 それから2ヶ月が経過し、部屋の写真を撮ったことなんて忘れていたある晩。

 日付が変わるくらいの時刻。風見は家事や寝る前の準備を終え、ベッドでくつろいでいた。

 スマートフォンのストレージがいっぱいになりそうだったことを思い出し、アプリやファイルの整理をする。


 不要なアプリをすべて消したが、まだいささか容量が心もとない。

 そこで風見は写真ファルダにも手を出すことに。

 過去の写真へとさかのぼりつつ、不要なものがないか探っていく。


 すると、自分の部屋の写真が何枚も続くところがあった。

 最初はどうしてこんなに部屋の写真を撮っていたのかと疑問を抱いたが、すぐに思い出した。


 そうだ、この部屋で怪奇現象が起こっていたから、心霊写真が撮れるかもと思ってやったんだった、と。


 しかし、怪奇現象も起こらなくなったし、この写真ももういらないな。

 そう思って部屋の写真を全選択して消そうとした時だった。


「……なんだよこれ……」


 白い壁を写した一枚。

 その中央に、ぽっかりと黒くて大きな風穴が空いていたのである。


 写真を拡大してみると、それは風穴のようにも黒い大きな染みのようにも見えた。

 光を全く反射しない、こちらを飲み込もうとするような黒。


 ――そういえば、この写真、最初に見た時はこの大きな黒はほんの小さな点にすぎなかった。それがまさか、この二ヶ月間ほどでここまで“成長した”というのだろうか……!?


 もしやと思って写真を撮った実際の場所を見る……が、そこに黒い染みらしきものはなかった。

 これは写真の中だけにある染みなのだ。


 霊的な何かだろうか?

 それともスマートフォンのバグ?


 何にしても現状実害がないこともあって、風見は少し面白く感じ、その写真を『この染み、写真にだけ写ってる。しかも成長してるみたいなんだ』という文章と共に友人に送ってみた。


「あれ……」


 どういうことだろうか。

 アプリのトークルームに表示された、送信済みの写真。

 それはただ真っ白な壁を写すばかりで、黒い染みらしきものは一切写っていなかった。


 拡大表示しても、やはりどこにも染みはない。


 間もなく友人から『染みってどこ?』と返事があったので、おかしなやつだと思われても困るので『ごめん、見間違いだった』と返した。


 写真フォルダを見直すと、元の写真にはしっかりと染みが。


「送った写真にも写らないのか……」


 バグと考えるのも難しくなってきた。

 これはどう考えてもおかしい。


 風見は急に寒気を感じて鳥肌が立った。


 今すぐにこの写真を消さなければやばい……っ!!


 直感的にそう思って、写真を選択して削除しようとするが、消えない。

 何度、削除ボタンをタップしても反応しなかった。


「どうしてだよっ……どうして消えないんだっ!」


 そうしていて気付いたことがある。

 よく見れば、写真の黒い染みが徐々に広がっていっているのだ。


 この黒い染みが画面を埋め尽くしたら、絶対にまずい気がする。

 風見は急いでスマートフォンの画面を閉じようとした。

 しかしどういうわけか、画面は暗くなることなく写真を表示し続けている。


 そうこうしている内に画面が真っ黒に染まった。

 あるいは、画面が消えたようにも見える。


 あれ、何も……起こらない?


 そう思って画面を見つめていると、中央の方にぼんやりと何かが浮かんできた。

 画面の反射か何かだろうか。いや、違う……。

 これは――


「うわっ!!?」


 ――目だ。


 人間の目。

 左右どちらかは不明だが、ギロッと見開かれた片方の目がこちらを見つめているのである。


 風見は気持ち悪くなり、スマートフォンを放り投げた。


 その瞬間、部屋の明かりが消え、真っ暗に。

 一寸先すら見えない。異常な暗さ。

 カーテンの隙間から差し込む光も、絶えず点滅するインターネットのルーターの光もない。

 まるでこの部屋が外界から遮断されてしまったかのようだ。


 暗さに目が慣れてくると、闇の中に二つ浮かぶものが見えてきた。


 しっかりと見える前に、風見はそれが何なのかわかった。……わかってしまった。

 つい今しがたまで見ていたものだったからだろう。


 それは二つの目だったのだ。


 およそ直立した人間の目があるだろう位置。

 そこに二つの目だけがあった。

 限界まで見開かれているのかもしれないが、あるいは本当に目だけが浮かんでいるのかもしれない。


 まばたきをせず、自分以外の方に向くこともなく、ただじっとこちらを見つめ続けている。

 恨み? 怨念? 殺意? この目が何を考えているのか分からない。少なくとも友好的な感じはしない。


 先ほどまで画面の中にいた“それ”が、今目の前に。

 その事実に風見は震えあがり、声にならない悲鳴を上げた。


 逃げなければまずい……!!

 だが、恐怖で足がすくんで力が入らない。

 それでもどうにか、もがくように後退しようとすると、突然喉を猛烈な違和感が襲った。


「うっ……かっ」


 呼吸が、できない……っ!

 気道に蓋がされたように、どれだけ息を吸おうとしても、肺に空気が送り込めない。


 その場に膝をつき、喉をきむしる。


 怖い、苦しいっ……死ぬ………………。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 いやだ、死にたくない………………。


 段々と身体に力が入らなくなり、意識が朦朧もうろうとしてきた。

 最後まであらがおうともがく。


 だめだ……本当に死ん―――――






「――――はッ!」


 風見は目を覚ました。

 ゲホゲホとむせ返した後、荒い呼吸を繰り返す。

 まるで今の今まで長いこと呼吸を止められていたかのように。


 カーテンからは太陽の光が差し込み、時計の針は7時半を示している。

 朝を迎えていた。


「寝てた……のか……? いや待てよ」


 はっとしてスマートフォンを手に取る。

 写真フォルダを開き、例の写真のところまでスクロール。


「あれ……」


 それは真っ白の壁を写すだけの写真だった。

 画面いっぱいに黒が広がっていることがなければ、最初に見たような染みすらない。


 すべて夢だったのだろうか。

 だとしたらよかったが、大変気分の悪い夢だった。


 風見はひとまず顔を洗おうと洗面所に向かった。

 前かがみになって冷水を顔に浴びせ、ハンドタオルで拭う。

 そして体を起こして、ふと鏡に目をり、彼はぎょっとした。


「っ!?」


 風見の首に、無数の真っ赤なひっかき傷があったのだ。


 夢だと思っていた出来事がフラッシュバックする。

 暗闇に浮かぶ不気味な二つの目。息ができなくなって苦しみ、喉を掻きむしる自分。


「う、うそだろ……じゃああれは……っ」


 夢じゃなかった。

 そう理解した瞬間、風見は背筋が氷水に浸かるような感覚がした。


 待てよ。あれが現実だとしたら……。


 駆け足でリビングへ。

 件の写真が撮られた白い壁を見る。


 すると、あった。



 ――指先ほどの大きさの黒い染みが。



 風見はそれからすぐに部屋を飛び出し、引っ越し業者を雇う時間すら惜しいと思ったため友達に手伝ってもらって引っ越しをした。

 新しい部屋ではポルターガイストのようなことは起こることなく、黒い染みが現れることもなかった。


 あれからあの部屋は封鎖されたらしい。

 退居する時に大家に事情を説明した時は全く取り合ってもらえなかったのだが、その後、どんなに壁紙を換えても浮き出て大きくなっていく染みに手を焼いてのことだったらしい。

 理由は何であれ、これ以上被害者が出ないのであればよかった。


 あのままあの部屋に住み続けていたらどうなっていたのか。

 黒い染みが大きくなった時、一体何が起こっていたのか。

 そして誰も足を踏み入れなくなった今、あの部屋の染みがどこまで成長しているのか。


 風見はそのことを考えると、今でもぞっとするのだった。






④ 黒い染み ―了―

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