③ 予備児童
「
「はい」
「
「はい」
小学校教諭4年目の
それでも、持ち前の明るさと優しい雰囲気のおかげで、担任を務めることになった4年2組の児童たちとあっという間に打ち解けていた。
しかし、彼女には一つだけ不思議に思うことがあった。
「
しんと静まり返る教室。
出席確認なのに誰も返事をしない。
それなのに藤沢は三拍ほど置いて頷き「全員いますね。それでは本日の連絡事項ですが……」と言ってチョークを黒板に走らせた。
誰一人異議を唱えず、疑問の表情一つせず、ごく当然のことのように受け入れている。
“予備児童”。
本当は存在しないのだけれど、あたかもいるように演じる。
出席も授業も給食も行事も、すべてその生徒がいるように扱う。
そんな変わったルールがこの学校で唯一、このクラスにだけ存在したのだ。
なんでも校長が言うには、代々4年2組が引き継いでいることらしい。
藤沢は何とも馬鹿げたことだと思っていた。
しかし、このルールを教えてくれた先生の顔は恐怖の色に染まっていたため、破れば何を言われるか分かったものではない。
だから、しぶしぶというかたちでルールに付き合っていたのである。
そんな風に過ごして2ヶ月が経ち、そろそろ意味の分からないルールにも飽き飽きしていた頃だった。
「先生、給食が足りませーん」
給食の配膳中、男子児童の一人が藤沢のもとにそう言ってきた。
配膳用の食缶を覗いてみれば、明らかに量が少ない。
急いで給食センターに連絡を取ると、どうやら手違いで少ない量にしてしまったらしい。
そこで今日のところは、他クラスから少しずつ給食を分けてもらうということになった。
給食の時間は短い。本来であれば今頃配膳が終了し、食べ始めている頃だ。このままでは清掃時間に響いてしまう。
するとふと、藤沢の視界に誰もいない席の給食が目に入った。
予備児童――呼野渚の分の給食である。
藤沢はその給食をまだ配膳が住んでない児童の席に移した。
「え、先生……」「いいんですか……?」「それは……」
藤沢の行動に気付いた児童たちが一斉に青ざめる。
きっと他の先生方から、予備児童のルールについて強く言われているのだろう。
けれども、今は事情が事情だ。
ちゃんと在籍する児童が満腹食べられないのに、架空の児童の分の給食を確保するのはおかしい。
藤沢はそう思い、児童たちを安心させるように柔らかい表情を意識して言う。
「どうせいつも残してるものだから」
結局、どうにかぎりぎりで他クラスから給食を集めてきたため、改めて予備児童の分の給食を用意することはできなかった。
ずっと前からこの学校にいる先生方の話では、こうすることでよくないことが起こるらしいが、そんな非科学めいたことがあり得るはずがない。
実際、その日の午後は何事も起こらず、通常通りに一日が終了した。
だが翌日、一人の児童が風邪で欠席した。
藤沢の頭の中に昨日のことが過るが、風邪で欠席くらいよくある話だと流した。
しかし、その翌日も風邪をひいた児童は症状が治まらず欠席すると連絡が入った。
保護者が電話越しに言っていたのは、薬が何一つ効かずに熱が下がらず、悪夢ばかり見ているということ。
藤沢の中に不安な気持ちが湧いてきた。
もしかしたら自分が予備児童をないがしろにしたせいで、と。
不安な気持ちを子どもたちに悟られてはいけない、と自分を奮い立たせて朝の出席確認に向かう。
「あれ……」
いつも通りに出席を行い、新たな異変に気が付いた。
風邪で病んだ児童とは別にもう一人、来ていない男子児童がいるのだ。
保護者から連絡は来ていない。
よくこういう時は、休む子どもと一緒に登校してくる子どもが伝言を預かっているケースがあるのだが、そういうわけでもない。
と、そこで教室の戸がノックされ、50代半ばと思われる男性教師が顔を出す。
この学校の教頭である。
「藤沢先生」
いつも通りの仏頂面の教頭だが、その声は少しピリついていた。
藤沢は嫌な予感を覚えつつ廊下に出る。
教頭について階段の辺りまで離れたところで、彼がくるりと振り向いて小声かつ早口に言う。
「
その言葉を耳にした時、藤沢の頭の中が真っ白になった。
浜中さんとは、たった今登校していないことが確認された男子児童のことである。
数秒かかって自分の教え子が事故に遭ったという事実を理解し、気が動転する。
「浜中さんは無事なんですか……っ!?」
「お、落ち着いてください。浜中さんは大丈夫ですから」
「は、はい」
藤沢は思わず教頭に掴みかからんという勢いだった。
浜中が大丈夫、という言葉を聞き、落ち着こうと深呼吸をする。
そんな藤沢に教頭はゆっくりと穏やかな声音を意識して告げる。
「とりあえず命に別状はありませんが、頭を打ったため一応数日間入院するらしいです。授業は代わりの先生にお願いしますので、すぐに病院へ向かってください」
「わかりました……!」
「道中の運転は落ち着いて。あなたまで事故に遭っては、子どもが悲しみますからね」
「はい……」
その後、藤沢は急いで病院へと駆けつけた。
どれほどの怪我の具合かと恐る恐る病室のドアを開けると、想像よりも遥かに元気な顔の浜中が出迎えてくれた。
骨折をしたため右足に太くビブスを巻いているが、少なくとも半年後にはすっかり元通りになるそうだ。
何より、後遺症が残るようなものがなくて本当に良かったと安心する。
「でもね、先生……」
大事に至らなくて本当に良かったと話をしていると、唐突に浜中の顔に影が差した。
「車にぶつかる寸前、変な人を見たんだ」
「変な人?」
「変な人っていうか、子どもなんだけど……ボロボロの服を着てて、体中傷だらけで骨みたいに細くて、僕と同い年くらいの子ども。その子どもが、じっと睨みつけるように僕のことを見てた……」
「そう、なの」
事故のショックで、変なものが見えてしまったか、記憶が混乱してしまっているのかもしれない。
けれども、その話を聞いた時、藤沢の頭にはある名前が思い浮かんだ。
――呼野渚。
二日前に呼野渚をいないものとして扱ってから、連続して子どもの身によくないことが起こっている。
ただの偶然といえばそうかもしれない。
けれども、浜中が見たという子どものことが引っかかり、藤沢はあり得ないことばかりを考えてしまった。
呼野渚が、私たちに復讐しようとしているのではないか、と。
だとしたら狙うのは私だけにして。子どもたちは何も悪くないんだから……!
藤沢は心の中でそう叫んだ。
が、そんな叫びなど届くはずもなかった。
翌日の午後、5限目の授業をしている時だった。
「いやぁああああああああああああああ」
一人の女子児童が突然悲鳴を上げた。
井上絵里という児童だ。
教室中が茫然と井上を見つめる中、彼女は悲鳴を上げ、泣きじゃくった。
まるで痛みにもだえ、恐れに身をすくませるように。
「井上さん! どうしたの井上さん!?」
藤沢が急いで井上にかけより、背中に手を回して優しく擦ろうとする。
けれども、
「やだっ!!!!!!! 触らないでっ!!!」
はねのけられた。
そして藤沢のことを睨みつける。
藤沢はその眼に、強い怒りと恐怖を感じた。
藤沢と仲のいい児童である井上は、普段であればこんな表情はしない。
井上の中に別の誰かが入っている。
藤沢は直感でそう思った。
他の先生も駆けつけ、どうにか井上を落ち着かせようとしたものの、大人たちは拒絶され全く近づかせてもらえすらしなかった。
だが1時間ほど経った時、突然糸が切れた操り人形のように意識を失って倒れた。
それから間もなくして、井上の母親が迎えに来た。
藤沢は担任として母親に詳しい事情を話したが、母親はにわかには信じがたい様子で、いぶかしげな目を向けてきた。
体罰か何かをしたのではと疑われているのかもしれない。
結局何も言わずに、母親は娘を抱えて帰っていったが、後で何を言われるかと思うと先が思いやられる。
それにしても、またもや子どもによくないことが起こった。
これで三日連続。
さすがに偶然というには難しくなってきた。
やはり呼野渚が関係しているのでは……。
「……っ!」
誰かに見られている。
藤沢は横から視線を感じて硬直した。
放課後の児童用玄関。全校児童は下校し、先生は皆、職員室にいる。
第一、 見られている感覚はしても、足音も、こちらにかけてくる声もない。
ただ、見ているだけなのだ。
では一体、今自分のことを見ているのは何者なのか。
背筋に悪寒が走った。
そして藤沢は、普段はそんなことないのだが、今だけは視線の中に強い感情を感じた。
憎悪。
深い恨みや憎しみの感情が、肌に突き刺さるような感じがした。
ちょうどそれは今日、井上にも向けられた視線だったから、そう分かったのかもしれない。
このままやり過ごそうかと思ったが、視線の主はなかなか去ろうとしてくれない。
思い切って見てみよう。
そうすれば、ここ数日子どもたちに起こっているよくないことが解決するかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、藤沢は深い水の底へ潜るときのように息を吸い、勢いに任せて横を見た。
「え……」
しかし、そこには何もいなかった。
暗がりの廊下。
消火栓のところにある赤い表示灯のみが光っており、そこ以外は闇に包まれていた。
先ほどまでの視線も感じない。
気のせいだったのか、と思い始めた時だった。
――うふふふうふふふふふふふふふふふ
――ははははははっははははははははは
「な、なに……っ!?」
学校のどこかから子どもの甲高い笑い声が響いてきた。
一人分ではない。二人、三人、いやもっといるかもしれない。
遠くから響いてきている音なのに、まるで耳の真横で笑われているような感覚。
それだけでも変なのに、その声は息継ぎなくいつまでも笑い続けていたのだ。
目を瞑って耳を塞ぐが、それでも声ははっきりと聞こえてくる。
「やめて……お願い、もうやめて……っ!!!」
その瞬間、何者かが藤沢の肩に手を置いた。
「っ!?」
小さく悲鳴を上げる藤沢。
しかし彼女は目を開き、ほっと安堵の息を吐いた。
「藤沢先生……大丈夫ですか?」
校長が心配そうな顔で立っていた。
彼にはこの声が聞こえてないのか、と思い訊ねようとしたが、笑い声はもう聞こえなくなっていた。
「は、はい……」
「藤沢先生、お話があるのですが、ここではあれなので……校長室までお願いします」
校長の後について校長室へ。
低いガラステーブルを挟んでソファに向かい合って座った。
校長は膝に手を置いて神妙な面持ちで口を開く。
そのこめかみには冷や汗のようなものが見えた。
「藤沢先生……もしかして、ですが、例の児童をないがしろにしていませんよね?」
例の生徒とは呼野渚以外に考えられない。
藤沢に思い当たる節は一つしかなかった。
「一度だけ、給食が足りない日に、呼野さんの分を他の子に分けました」
「そうでしたか……」
校長が頭を抱えた。
「私もここの校長になってから異常なことは起こっておらず半信半疑だったので、変な不信感を抱かないためにも詳しく藤沢先生に事情を説明しなかったのが悪かったんですが、大変なことになりました……」
しばらく互いに黙り、校長室を重い静寂が支配する。
「こういう時のためにと、以前からこの学校におられる先生に紹介していただいた方にひとまず相談してみます」
校長はそう言ってソファから立ち、校長席に着いて電話をかけ始めた。
「あ、もしもし、私です。はい……はい、あの児童の件で……はい」
それから二言、三言とやり取りをし、校長は電話を切り、電話をする前よりはマシな顔で言う。
「よかった、今から来てくださるそうです」
「その方って、どなたなのですか……?」
「古くからこの村にある神社の神主様です」
神主に供え物を頼まれたからと、校長は職員室の冷蔵庫からリンゴと饅頭を一個ずつ回収。
藤沢は「私が持ちますよ」と校長からそれを受け取った。
三十分もしない内に、
藤沢は一目でその人が神主であると分かった。
「わざわざご足労いただき申し訳ございません」
校長が頭を下げると、神主は朗らかに笑った。
「いえ、頭を上げてください。こちらの学校様とは昔からの仲ですので」
「ありがとうございます。ではさっそくで恐縮ですが、こちらへ……」
藤沢と校長は神主を4年2組の教室へと案内。
すると、どれが呼野渚の席か教えもしていないのに、神主は吸い寄せられるようにして呼野の席の前に移動した。
藤沢が持っていたリンゴと饅頭を受け取って呼野の席に乗せると、笏を仕舞い、音を立てないしのび手で二礼、二拍手、一礼。
長く手を合わせ、途中何やら呪文のようなものをぶつぶつと唱えていた。
10分が経とうかという頃、全く微動だにしなかった神主が合わせていた手を崩し、こちらを向いて微笑んだ。
「はい、もう大丈夫ですよ」
その表情と言葉に、藤沢は肺の中に溜まっていた空気を一気に吐き出した。
背中にのしかかっていた重い何かが取り払われたような感覚がする。
「神主様、ありがとうございました」
校長がお辞儀をするのに合わせて、藤沢も頭を下げた。
「この子たちは、いなくなったわけじゃありませんのでね。謝っただけです。いやね、許してもらえてよかった」
神主はそう言い、そっと呼野渚の席に目を向けた。
「この子“たち”、大泣きしていましたから。もう冷たいことはしないであげてくださいね」
「この子たち、とは……?」
藤沢がそう
「おやま、詳しく話してないんですかね?」
校長の気まずそうな顔。
それで神主はすべてを察したように頷いた。
「そうですか。まあ、しばらくこういったことは起こってなかったですからね」
神主は藤沢を見て話し始める。
「結構最近くらいまでね、この辺りの地域では
「間引き……ですか?」
「間引きってのはね、子どもの間引き。その家の長男だけを残して他の子どもを家のどこかに閉じ込めたり捨てたりね。そういうのがこの国のどこかにあったってのは、あなたも聞いたことがあるのではないですかね?」
「……」
確かにそのような話は聞いたことがあった。
昔は経済的な困窮や食糧事情などからそのようなことが行われたと。
それがまさかこんな身近にあったとは……。
「だからでしょうか、この学校ができた当初から、子どもさんや先生方が立て続けに不幸な目に遭ったり、机がバラバラに破壊されてたり、深夜に子どもたちの笑い声が響き渡ったり、変なことがいっぱい起こりましてね。おそらく、学校に行きたくても行けなかった、普通の子どものように行きたかった子どもたちの強い思いが出てきたのでしょうね」
神主はまるで自分の思い出話を語るように話した。
それは、彼がこの学校に通っている時に実際に起こったことなのだろうと藤沢は思った。
「先代の神主である私の父が、こう言ったんですよ――その子たちを学校に受け入れてあげなさい、と」
「そうしてできたのが……?」
「ええ、そうですね。こちらの子どもさん――呼野さんですね。そうしたらおかしなことがぴたりと起こらなくなったそうで、代々この4年2組がその役目を担ってきたというわけですね」
藤沢の中に罪悪感が湧きだしてきた。
今の話が本当なら、呼野渚とは、大人たちや世の不条理によって悲しみや怒りと共に亡くなってしまった子ども“たち”ということになる。
とすれば自分は、そんな子どもに対してなんてひどいことをしてしまったのかと。
藤沢は呼野渚の席の前まで来て、静かに手を合わせた。
そして心の中で謝罪や、これからについての話をする。
大変な人生だった分、このクラスで勉強をし仲間と過ごす楽しさを味わってね、と。
◆◇◆◇◆
「青山舞人さん」
「はい」
「井上絵里さん」
「はい」
神主が来た日から、4年2組の子どもたちに不幸は起こらなくなった。
風邪で休んでいた子どもはすぐに回復し、怪我をした浜中は予定よりも随分と早く完治した。急に発狂した井上も、何事もなかったかのように翌日から学校に通っていた。
すべてが予備児童をいないものとして扱う前の状態に戻ったのだ――ある一つのことを除いては。
「呼野渚さん」
「……」
しんとする教室。
藤沢はチョークを手に取り、黒板に向かう。
「はい、全員いますね。では――」
「……はい」
朝の連絡事項を告げようとする藤沢の声に重ねるようにして、返事の声が聞こえた。
声変わり前の男の子とも思えるし、アルトボイスの女の子の声とも捉えられるような声。
藤沢が振り向いて呼野の席に目をやるが、もちろんそこには誰の姿もない。
突然話をやめたことで、子どもたちは不思議そうな顔で藤沢を見つめていた。
「ごめんなさい。えっと、今日の連絡事項ですが」
あれから時々、藤沢にだけ呼野渚の声が聞こえたり、姿がちらりと見えたりするようになったのだ。
姿が見える時は、浜中が以前見たというボロボロの服で骨みたいに細い子どもの姿で。
男の子の時があれば、女の子の時もあった。
たまにだが、普通に児童と話していると思ったら突然クラスの子に「先生、何と話してるの……?」と聞かれることもある。
まだ藤沢のことを許していないのか、あるいは逆に慕ってくれているのか分からない。
しかし藤沢の中に、呼野渚に対する恐れの感情はもうなかった。
ただ他の子どもと同じように、一緒に楽しく過ごしたい、と。
その思いだけを胸に、今日も彼女は4年2組の教壇に立つのだった。
③ 予備児童 ―了―
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