② 再現
※この物語には“自殺”等の内容が含まれます。
不快な思いをされる恐れがありますのでご注意ください。
「あとは、このお部屋もお客様のご希望通りかと」
「んー、でも少し家賃が高いというか」
不動産屋の男に差し出された物件の資料を目に、
その反応を見た不動産屋の男は、カウンターのパソコンを操作して他の物件を探す。
新卒で勤め始めて5年。急な仕事の転勤で、急遽部屋探しをしなければいけなくなった正樹は、この不動産屋に来てから1時間、かれこれ20件以上も物件の資料を出されたが、納得するものはなかなか見つからなかった。
何も不動産屋の男が、仕事ができないわけではない。
スーツをビシッと着こなした彼は、まだ若いながらもフレッシュで丁寧な対応をしており、正樹もそれには満足だった。
家賃、間取り、築年数、立地、耐久性……etc.
部屋選びの基準はたくさんあり、そのどれか一つでも本人が納得いかなければ住みたくないものだからだ。
「それでしたら……一応ご紹介、というかたちにはなりますが、こちらはいかがでしょう?」
不動産屋の男は、印刷機から排出された紙を正樹に渡す。
正樹はその資料にざっと目を通し、あまりの掘り出し物に驚愕した。
「新しめで広いですね。立地もいい。けど家賃は破格。ひょっとして、あれですか?」
これまでの落ち着いた接客とは打って変わって、緊張した面持ちで男は頷いた。
「はい、こちらは事故物件です」
よく見れば冷や汗もかいている。
明らかに異常。
この不動産屋がここまでの反応をするということは、よほどのことがあった物件なのだと正樹は察した。
しかし正樹は、そんなことなど気にもしない顔で言う。
「これの内見お願いしてもいいですか?」
「よろしいのですか……?」
不動産屋の男は意外そうな声を上げた。
普通、事故物件となれば苦い顔をして躊躇するか、詳しく何があったか詮索するものだ。
実際にこの不動産屋が相手してきた客は皆そうだった。
それなのに正樹は、全く顔色を変えずに内見の依頼をしてきたのである。
驚いた様子の不動産屋にはお構いなしで、正樹は淡々とした口調で言う。
「ああ僕、幽霊とかそういうの全く信じてないんで大丈夫です」
「承知いたしました。では、一つだけこの物件の欠陥を最初にお知らせいたします」
「欠陥ですか?」
「はい、風呂場の湯が勝手に出ることがあるんです」
「勝手に……?」
「はい、もちろん、この部屋のガス代と水道代は大きく割り引かせていただきますので」
「はあ」
「それでは行きましょうか」
その後、内見をした正樹はその物件をいたく気に入ったようで、すぐに契約を決めた。
幽霊やその類のものを信じていない彼だったが、さすがにどこでどんな死に方だったかまで聞いたら気持ちが悪くて住めないと思い、そのあたりの情報は一切聞かないようにした。
後日、引っ越しが住み、その部屋で正樹が過ごす初日。
綺麗で広い部屋に、新しめの設備に正樹は感動していた。
奮発して家具なども新調してよかったと思う。
明日から新しい職場で不安な気持ちもあるが、この部屋での暮らしには期待で胸が膨らんだ。
しかし、午後10時前。荷解きをしていて遅くなってしまった夕食を食べ終え、片付けをしている時だった。
どこからか勢いよく流れ出る水道の音が響いてきた。
まさかお隣さんの音だろうか。
防音設備は整っていると聞いていたのだが……。
第一、お隣さんの音がこんなはっきり聞こえるものなのか。
そこで不意に不動産屋の言葉が正樹の脳裏に蘇った。
――風呂場の湯が勝手に出ることがあります
正樹は駆け足で風呂場に向かった。
そこで見た光景を前に、正樹は唖然。
湯船に湯を入れるための蛇口。
そこから盛大に水が流れ出ていたのである。
風呂場が湯気で満ちているから熱湯だろう。
正樹はひとまず急いで湯を止めて、考える。
もちろん自分で湯を出した覚えはない。
ならば引っ越し業者が、かとも思ったが、そうする意図もいつやったのかも分からない。それに、湯が出る音がしだしたのはつい今しがたのことだ。
つまり――
――ひとりでに湯が出た。
と、考えるのが妥当だった。
不動産屋の言うことは本当だったのだ。
もしかすると、周りの部屋が水道を使うとつられてこの部屋のも出てしまうのかもしれない。
ガス代も水道代もかなりの割引がきいてるし、まあいいか。
正樹は特に気に留めることもなく新居での初日を終えた。
翌日、正樹が仕事を終えて部屋に帰ってくると、違和感を覚えた。
どことなく、人の気配を感じたのだ。
強盗かもしれない。
鍵はしっかりしまっていたが、油断はできない。
正樹は警戒しながら部屋を確認し、クローゼットやトイレの中に人がいないか見て回った。
けれども、どこにも人の姿はない。
思い過ごしだったかと思いかけた時、一ヶ所確認し忘れていることを思い出した。
風呂場だ。
正樹は抜き足差し足で脱衣所へ。
擦りガラス越しに見る限り風呂場に人の影はない。
しかし、一つおかしな点があった。
明らかに風呂場が、湯気で満ちているのだ。
恐る恐る風呂場の戸を開けてみると、正樹は息を呑んだ。
「風呂が……」
湯船に湯が張られていたのである。
それも、風呂に浸かるのにちょうどいいくらいに。
指をそっと浸けてみれば湯加減もちょうどよいと分かった。
湯が勝手に出るとは聞いていたが、まさかちょうどいいところで自動で止まってくれるなんて。
時刻は昨日と同じ午後10時頃。
仕事のある日はこの時間に帰ってくることが多いし、毎日この時間に風呂が勝手に溜まってくれるのなら欠陥ではなく、かえって良い部屋を当てたのかもしれない。
正樹はそんなことを思いながら風呂に入る支度をした。
それから翌日も、その翌日も、正樹が仕事から帰ってくる午後10時頃に決まって風呂が溜まっていた。
便利なもので害はなかったから、正樹は最初こそ不可解に思ったものの、徐々に日常として受け入れつつあった。
しかしふと、自分が出張や旅行で外泊するときのことを考えた。
ガス代や水道代についてはいいが、風呂一杯分が無駄になると思うと心が痛む。
そう思い、正樹は不動産屋に相談するべく電話をかけた。
「あ、もしもし、××コーポの305号室の矢代正樹です」
事情を説明し、どうにか水道を修理できないかと言ってみた。
すると不動産屋は検討する間もなく返事をする。
『あぁ……そういうことでしたら大丈夫です』
「そうなんですね。ですが、もったいないので一度修理をお願いしたいんですが」
『その必要はございません』
「そうは言いましても……」
『矢代様がお住まいになる前に、何度か修理業者様にみてもらいましたが、異常はなかったんです』
「それは、どういうことでしょう」
『我々にも分かりかねます』
そんなことがあるのだろうか。
まさかと思うが、この部屋が事故物件であることと関係が。
いやそれこそあり得ない。
ともあれ、これ以上は取り合ってくれない様子だったので引き下がることにした。
「そう、ですか。わかりました」
『不快なようでしたら、ガス代と水道代をさらに割り引かせていただきますので……』
「あ、いえ、実害が出たらそれでお願いします。なんだかんだいって、ちょうどいいタイミングで風呂が溜まってることが多くて助かってる面もあるので」
そんなこんなで、その部屋に暮らし始めて半年が過ぎようとした頃だった。
その日もいつもの通り午後10時頃に帰宅し、風呂場に直行。
勝手に張られていた湯船にゆっくりと浸かり、仕事で疲れていたこともあって目を瞑りウトウトしてしまっていた時だった。
鼻をつく鉄っぽくて生臭い匂いと、どことなく肌に感じる違和感で目を開けると、恐ろしい光景が目の前にあった。
「は……?」
湯船の湯が、真っ赤に染まっていたのである。
入浴剤や着色料の赤ではないと直感で分かった。
――鮮血の赤である。
「なんだよこれっ!?」
正樹は急いで湯船から飛び出し、シャワーを浴びて風呂場から逃げるようにして出た。
血が。
どうして。
風呂に……!?
匂いからして本物の血だ。
幽霊などを信じていない正樹だったが、あまりに理解不能な出来事を前にさすがに気持ち悪くなって、翌日、朝一番で不動産屋に駆け込んだ。
そこで不動産屋の男から、正樹が住む前にあの部屋で起こった出来事を聞かされる。
そこは、ある若い女が暮らしていていたアパートだった。
しかしその女は、仕事や人間関係で悩むことが多く、いつしか心を深く病み自殺してしまった。
その自殺した場所というのが、風呂場だったそうだ。
死因は出血多量死。
午後10時。湯船に湯を張り、切りつけた手首をそこに浸けて……。
その後、女が残した日記で分かったことだが、自殺の数ヶ月前から午後10頃に湯船に湯を張っては自殺しようか悩んでいたようだった。
毎晩毎晩、熱い風呂の湯を眺め、湯が冷めきるまで死のうか悩んでいたのである。
正樹はそれを聞き、毎晩風呂に湯が張られることの理由が見えた気がしてゾッとした。
あの部屋は毎日、女が湯船を前に自殺を考えていた時を再現していたのだ。
それは果たして女の霊がやったことなのかまでは、分からないが。
それから最後に、不動産屋が言いづらそうに一言。
「ちなみに……ですが、昨日が――――その女性の命日でした」
② 再現 ―了―
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