第12話 帰還(1)

 気づけばシャルロットは、再び乳白色の空を見上げていた。

 どうやら、水の上に浮かんでいるらしい。

 砂の敷かれた水底に手をつき、彼女は急いで上体を起こした。


「これほどしぶといとは思わなかった」


 目の前に立つヘリオト神が、嘆息しながら言った。

 その言葉から、シャルロットは推察した。


「先ほどの父は、ヘリオト神が私に見せた幻だったのですか」

「そう。生への執着を捨てさせるために、最も適したものを見せた。どうも、逆効果だったようだけれど」


 ヘリオト神は憂いを帯びた眼差しで、シャルロットをひたと見据えた。


「あなたはなぜ、死を受け入れようとしない? 死ぬことは恐ろしいことではない。人間が新しい道へ進むための、ひとつの過程に過ぎないのだから」

「……私は死ぬことを恐れているのではありません。ベリルを救い出せないまま死ぬことが、恐ろしいだけです。彼を幸せにできるのなら、この命が尽きても構いません」


 シャルロットの覚悟を決めた面持ちに、ヘリオト神は再びため息をついた。


「あの子が幸せになるためには、あなたもいないと駄目でしょう。……仕方ない。特例中の特例だけれど、あなたに力を貸すことにする」

「本当ですか!」


 シャルロットは顔を輝かせた。

 

「ありがとうございます、ヘリオト神!」


 飛び上がりたいほど嬉しかったが、魚の尾でそれをやるのは難しい。代わりにシャルロットは、満面の笑みを浮かべた。

 しかし、なぜヘリオト神は考えを変えたのだろう。

 シャルロットの疑問を読み取ったように、ヘリオト神は答えた。


「子供たちには、親らしいことをほとんどしてやれなかった。だからせめて、ベリルには手を貸してやろうと……そう思っただけ。それから、あなたがベリルのことで必死になってくれたのが嬉しかった。その強い願いを、叶えてあげたいと思った」


 ヘリオト神は、口許を綻ばせた。

 初めて見る柔らかな笑みに、シャルロットはしばし見惚れた。


「さあ、ぐずぐずしている暇はない。あなたの命が尽きる前にやらなくては」


 確認してみると、鱗は今や胸の辺りにまで達していた。

 シャルロットはそれに青ざめつつ、ヘリオト神の言葉に引っ掛かりを覚えた。


「なにをやるのですか?」

「私は直接現世に介入することはできない。だから、あなたに私の力を授けようと思う」

「そんなことができるのですか!」


 思いも寄らない方法に、シャルロットは驚いた。


「ただし、人間のままでは私の力に耐えられないから、あなたを私たちのような存在に作り替える必要がある。そうなると、老いることもなく、死ぬこともなくなる。永遠を生きるとは、時の流れに置いて行かれるということ。人の精神には、耐えられなくなるほど辛いかもしれない。それでも、やる?」

「やります」


 シャルロットは即答した。


「例え辛くなったとしても、後悔することはありません。絶対に」

「……わかった」


 ヘリオト神はシャルロットの真っ直ぐな視線を受け止め、微笑んだ。

 そして、シャルロットの頭にそっと手を乗せた。


「では、始めましょう」





 長い眠りから覚めたように、シャルロットはすっきりとした心地で目を開けた。


 まず目に入ってきたのは、こちらを覗き込むふたつの顔――ベリルと、見覚えのない若い女性だった。

 ふたりとも、驚愕したようにこちらを凝視している。


 シャルロットはそろそろと起き上がった。

 修道服と傷口を縛っていた手巾は血塗れだったが、腹部の傷は全く痛まなかった。手巾をほどき、布地が裂けた箇所を手で触ってみても、傷跡すら残っていない。


 チュニックの裾から出た二本の足を確認し、シャルロットはほっとした。 

 徐々に魚へと変化していくのは、あまりいい気分ではなかったのだ。


「シャルロット……」


 掠れた声で呼び掛けられ、シャルロットはベリルに顔を向けた。


「また、心配を掛けてしまいましたね」


 彼女は手を伸ばし、ベリルの赤くなった目許を、指の腹でそっと撫でた。


「ただいま戻りました、ベリル」


 そう言って笑いかけた途端、シャルロットはベリルに引き寄せられていた。

 息苦しくなるほど強く、頭を抱き込まれる。


「シャルロット……!」


 回された腕から、顔が触れた胸から、震えが伝わってくる。

 声もなく涙を流すベリルの背を、シャルロットはそっと撫でた。

 そうしているうちに、顔のすぐ右側に突き出た剣の柄が、この上なく鬱陶しいものに思えてきた。

 シャルロットはベリルの背を軽く叩くと、体を引き離した。


「ベリル。私はヨグレルにいるヘリオト神から、力を授けられました。その力で、今からその聖剣を引き抜きます」

「えっ?」

「ヘリオトに会ったの?」


 最後の声は、足元から聞こえてきた。

 小動物のようなアデュラが、とことことシャルロットに近づいてくる。シャルロットは愛らしさに頬を緩めながら、頷いた。


「はい。せっかくお目にかかれたので、ベリルを助けて欲しいとお願いしてきました。ヘリオト神は地上に干渉することができないため、私がそのお力の一端をお借りする形になりましたが」

「だから、傷も治ったのか」


 アデュラはシャルロットの姿をしげしげと眺めた。


「それにしてもすごいね。死にかけたというのに、それを逆手に取ってヘリオトの力を手に入れるとは」

「元々、ヨグレルへ行くために手を尽くそうと考えていたところでしたから」


 つくづく感心した様子のアデュラに、シャルロットははにかんだ。

 ベリルに目を向けると、彼は事態に頭が追いつかないと見え、放心したように固まっていた。


「ベリル、今からやってみますね」

「えっ? あ、うん」


 あたふたと頷くベリルに、シャルロットは微笑みを向けた。

 静かに深呼吸してから、飾り気のない銀色の柄を両手で持つ。そして、力一杯引っ張った。

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