第9話 大樹・ルズラン(1)
シャルロットの白い修道服に、じわじわと鮮血が広がっていく。
ベリルは自身の衣の裾を切ると、彼女の腹に当て、傷口を強く押さえた。
しかしその布にも、徐々に血が染みだしてきた。掌の下で、布がじっとりと湿っていくのがわかる。
傷口を圧迫しながらも、ベリルは現実を受け止められないでいた。
「アデュラ……」
アデュラはシャルロットの頭付近に座っていた。
紙のように白くなった彼女の顔を、沈鬱な様子で眺めている。
「血が止まらないんだ」
自身の声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
ベリルは人間を操ることはできるが、臓器まで操ることはできない。彼ができるのは、人間の体の自由を奪い、思うがままに動かすことぐらいだった。
だがそんな力を持っていても、なんの意味もない。彼女の血を止めることすらできないのなら。
アデュラはしばし沈黙した後、のろのろと口を開いた。
「ベリル。この様子だと……。彼女はもう」
「違う」
ベリルは言下に否定した。
「彼女は死なない。死ぬはずがない。だって、僕をここから出すんだって言ってくれた。それができるって信じていた。彼女が約束を破るなんてこと、考えられない」
だが、目の前のシャルロットは、虫の息で横たわっている。
心では信じたくないのに、ベリルの理性は、彼女はそう長くないと判じていた。
(シャルロットが、死んでしまう?)
柔らかな微笑も、落ち着いた声音も、優しい眼差しも、すべて失われてしまう。永遠に。
「嫌だ」
ベリルは震える声で言った。
「嫌だよ、シャルロット。僕を置いていかないで」
しかし、シャルロットが返事を返すことはなかった。
ベリルの心は、床に叩きつけられた卵のように、ぐしゃりと潰れた。
「ああ……」
「ベリル、駄目だ!」
アデュラの制止の声も聞かず、ベリルは絶叫した。
「ああああああああっ!」
その瞬間、地震が起きたように、地下全体が揺れた。
地響きと共に石の欠片が落ち、揺れは激しさを増していく。
涙で曇る視界の中、ベリルはシャルロットを抱きかかえた。
「シャルロット……」
ついには、天井の石が落下してきた。
聖堂が崩壊を始める中、ベリルはシャルロットの頭を大切な宝物のように、そっと抱え込んだ。
***
シャルロットはゆっくりと目蓋を開いた。
まず視界に入ってきたのは、乳白色の空だった。曇り空に似ているが、薄暗さは感じない。それどころか、空全体がぼんやりと発光しているようだった。
自分がどこにいるのかわからず、シャルロットはしばしぼうっと空を見上げた。
(私、マザー・オフェリーに刺されて……)
直前の記憶を思い出し、シャルロットは弾かれたように上体を起こした。
腹部に視線をやると、血の痕がない。
怖々と触れても、刺されたのが嘘のように、傷ひとつ見当たらなかった。
腹部から目線を上げたシャルロットは、視界に入ってきたものにぎょっとした。
本来なら足先が覗いているはずのところに、魚の尾びれのようなものが見える。
慌ててチュニックをまくり上げると、水色の鱗が目に飛び込んできた。シャルロットの足は、なぜかふくらはぎの辺りまで魚の尾に変化していた。
ふくらはぎより上は人間の足になっており、中途半端な仮装をしているように珍妙な有様である。
(一体、どういうことでしょう)
シャルロットは忙しなく周囲を見回した。
彼女が腰を下ろしているのは、浅い水の中だった。陸地の見えない海にいるように、見渡す限り水に覆われている。
その澄んだ水の中には、色とりどりの鯉に似た魚が泳いでいた。赤、黄色、緑、青、紫と様々な色合いは、花畑がそのまま魚になったかのようだ。
しかし、この空間で最も目を引くのはそれではない。
一定の間隔を置いて植わっている、巨大な樹木だった。
大人が両手を広げて幹を囲んだとしたら、十人以上は必要なほど太い。
しっかりとした枝には、水晶のような葉が茂っている。葉の間には、同じく虹色にきらめく丸い実が生っていた。
巨木は林立しているわけではなく、十分な間隔を開けてぽつりぽつりと植わっている。それが水と同様、どこまでも続いていた。
風が吹くと、水晶の葉が擦れてシャラシャラと美しい音が鳴った。
シャルロットは、革紐を掴んで大樹の葉守りを引っ張り上げた。
眼前にそびえ立つ巨樹の葉と見比べると、瓜二つである。
「ここは……死者の国、ヨグレルなのですね」
シャルロットは呆然としながら呟いた。
大樹・ルズランとは、一本の巨木のことなのだと思っていた。
確かに巨大な木ではあるが、このように何本もあるとは想像だにしていなかった。
(私は今、どういう状態なのでしょう)
意識を失う寸前、彼女は服越しに葉守りを握りしめていた。
そのおかげで生きたままここに到達できたのか、はたまた死んでしまったのか、判断が付かなかった。
「あなたはまだ、死んでいない」
その時、シャルロットの疑問に答える声があった。
どきりとしたシャルロットは、左手前方に、見知らぬ若い女性が立っているのを認めた。柘榴色の長い髪を垂らした、美しく儚げな人だ。
先ほどまでは自分以外、人っ子ひとりいなかった。一体いつからそこにいたのだろうと、シャルロットは訝しんだ。
「あなたは大樹の葉守りを持っていたから、息を引き取る前にヨグレルへと入ることができた。本来、ヨグレルに到達できるのは死した人間だけ。死者の魂は魚へと姿を変えるけれど、大樹信仰の巫女ではなく死者でもないあなたは、中途半端な存在になってしまった」
シャルロットは瞠目して、自身の足――というより、尾びれを見た。
つまり死に至ると、周りを泳ぐ鯉と同様の姿になってしまうということか。
ここに来て、シャルロットは女性の正体に思い至った。
ヨグレルの仕組みについてこれほど詳しいのは、大樹・ルズラン――すなわち、ヘリオト神だけだろう。
(この方が、ヘリオト神)
シャルロットは唾を飲み込むと、意を決して話し掛けた。
「……ヘリオト神。私はシャルロットと申します。ぶしつけかとは思いますが、どうか私の話を聞いていただけませんか」
ヘリオト神は表情を変えず、黙ったままこちらを見つめている。
拒否されなかったのをいいことに、シャルロットは続けた。
「あなたの子供であるベリルは、四百年以上、人間の手によって監禁されてきました。<白き顔の神>が人間の王に聖剣ルテアリディスを授け、それでベリルを刺すよう唆したためです。この聖剣はベリルの逃亡を阻止するばかりか、神にしか引き抜けないという特性を持ちます。……ですから、ヘリオト神にお願い申し上げます。どうか、聖剣をベリルの胸から引き抜いていただけないでしょうか」
シャルロットの嘆願に、ヘリオト神は束の間口を閉ざしていたが、やがて感情を感じさせない口調で答えた。
「私は既に命を落とし、
「そんな……! お願いです、あなた様以外に頼れる方はいないのです!」
立ち上がれないため、シャルロットはいざってヘリオト神に近づいた。
「ベリルを助けていただけるなら、私は未来永劫あなた様にお仕えします。ですから、どうか、どうかお願い致します!」
ヘリオト神に縋り付かんばかりに、シャルロットは懸命に頼み込んだ。
この女神に断られてしまったら、ベリルは永久に囚われの身となってしまう。それだけは、なんとしてでも阻止したかった。
ヘリオト神はシャルロットの様子に絆された様子もなく、無表情に彼女を見下ろした。
「ただの人間が、私に仕えることなどできない。人間の魂は、時が来ると大樹の実となり、やがて地上へと還る。あなたも例外ではない」
ヘリオト神は緑柱石のような瞳を細めると、冷淡に言った。
「あなたはもうすぐ死ぬ。その運命を覆すことはできない。魚に変化しつつあるのが、そのなによりの証拠」
すっと足の辺りを指し示され、シャルロットは急いでチュニックをめくった。
鱗は、もはや太腿の辺りにまで達していた。
「今生のことは忘れて、早くこの国に馴染みなさい。そうすれば、いつの日か地上へ還る時が来る」
そのにべもない調子に、シャルロットは怒りが込みあげてくるのを感じた。
「ベリルはあなた様が創造した子供ではないですか。ベリルがこの世界に留まったのは、あなた様を思ってのことです。そんな彼を、哀れだとお思いにならないのですか?」
シャルロットが詰ると、ヘリオト神はやにわに手を伸ばしてきた。
なにをするつもりかと身構えていたシャルロットは、女神に目を覆われて息を呑んだ。
「少し、黙っていなさい」
そう命じられた直後、シャルロットの意識は暗転した。
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