第7話 救い主
みるみるうちに、穏やかな海面が眼前に迫ってくる。
シャルロットは真っ白になった頭で、それを眺めていた。
(こんなところで死にたくない)
だが、もはや打つ手はなかった。
海中に叩きつけられることを覚悟して、シャルロットは固く目蓋を閉ざした。
(……え?)
しかし、そうはならなかった。
シャルロットの体は、なにか固いものに受け止められていた。
それから間を置かずに、全身を緩やかに拘束される。
彼女は恐る恐る目を開けた。
眼下には、相変わらず海が広がっている。しかし先ほどと違うのは、海の上を平行に移動しているということだった。
一体どういうことかと周囲を見回したシャルロットは、視界に入ってきたものにぎょっとした。
彼女の体に巻き付いているのは、巨大な手だった。
手は翡翠色の鱗に覆われており、指から鋭い鉤爪が伸びている。シャルロットは首を捻って、手の持ち主を見上げた。
長い口先に、鱗よりも白に近い二本の角。黄金色の目の後ろには、魚のひれのようなものが風になびいている。馬のように長くしっかりとした首は、爬虫類のごとき鱗に覆われ、翡翠色に輝いていた。
この体勢では全体像は見えないが、その姿は伝説上の生き物と合致していた。
「竜……」
シャルロットは茫然自失として呟いた。
彼女は、竜に掴まれて空を飛んでいるのだった。
今、自分は夢の中にいるのだろうか。それともここは、死後の世界なのだろうか。
そんなことを考えているうちに、シャルロットは崖からさして離れていない砂浜の上に下ろされた。
「大丈夫?」
こちらを見下ろす竜が言葉を発したことに、シャルロットは飛び上がるほど驚いた。
「あっ、ごめん。びっくりした……?」
二階建ての建物ほど丈のある巨体から、子供のように高い声が聞こえてくる。
気遣わしげにこちらの様子をうかがう竜に、シャルロットは慌てて背を正した。
「すっ、すみません、大丈夫です。ええっと、助けてくださったんですよね。ありがとうございます」
混乱しながらも、シャルロットはひとまず礼を述べた。
「ううん。間に合ってよかった。……一応確認するけど、君がシャルロット、だよね」
「はい。あの、あなたは……?」
「おれの名前は、アデュラ。ベリルの兄弟。人間からは<蝕>と呼ばれている」
やはりそうだったのかと、シャルロットは目を丸くしてアデュラを見上げた。
神話上の怪物が目の前に存在しているのは、奇妙な気分だった。
同じ<蝕>でもベリルの場合、聖典に記された姿とはかけ離れていたために、あまり実感が湧かなかった。
しかし目の前の竜は、シャルロットが思い浮かべていた<蝕>アデュラそのものだった。
まるで現実の光景ではないように思え、シャルロットはぼうっとアデュラを見つめた。
「どうかした?」
アデュラが首を傾げたため、シャルロットは我に返った。
「すみません。その、なんだか夢を見ているようで……」
「おれの姿が珍しい? それはそうか。今までずっと眠ってたし」
アデュラは納得したように頷いた。
「あの、あなたはベリルに言われてここまで来たんですか?」
「うん。大切な人間が殺されそうになっているから、なんとか救い出せって、ベリルに叩き起こされた。たまたまおれが近くにいたからよかったけど、遠くにいたらどうするつもりだったんだろうね」
「それは……お手数をおかけしてすみませんでした」
ベリルの話だと、アデュラは深海で眠っていたはずだ。自分のせいで、彼は安眠を妨げられてしまったのだ。
申し訳なさに肩をすぼめていると、アデュラは蛇のように長い尾でぱたりと地面を叩いた。
「謝らなくていいよ。悪いのは、寝起きでぼんやりしているおれをこき使ったベリルだから。せっかくだから、大きな貸しにしておく」
アデュラは金の目を細めた。
どうやら、怒っているわけではなさそうだ。シャルロットはほっとして、気になっていたことを尋ねた。
「ベリルはどうやってあなたと連絡を取ったんですか?」
「おれたちは心の中で念じれば、いつどこにいても会話ができる。ただ、おれは眠っている時だと反応できない。そこで、ルネットがおれを起こすための笛を作ってくれた。普段は耳飾りとして、ベリルの耳に下がっている」
「そうでしたか」
この世界に残る二体の兄弟を、ルネット神は心配したのだろう。離れていても寂しくならないように、その笛を作ったに違いない。
その時、シャルロットはふと違和感を覚え、崖の方へ目を向けた。
崖の一部は砂浜に近づくにつれて、なだらかに低くなっている。そこには砂浜へ続く小道が敷かれていたが、その道を下りようとする人影が見えた。
アデュラもシャルロットの視線の先を辿り、「ああ」と呟いた。
「もしかしてあれ、君を殺そうとした人たち? こっちへ来ようとしている?」
「……恐らくは」
「じゃあ、もう行こう。追いつかれたら困る」
アデュラから背に乗るよう促され、シャルロットは困惑した。
「けれど、一体どこへ行けば……」
「ベリルのところじゃないの?」
小首を傾げるアデュラに、シャルロットは束の間逡巡した。
「あの場所に、もう私の居場所はないんです。……いえ」
シャルロットはそこまで口にして、思い直した。
「せめて、ベリルにお別れを言いに行きたいです。やはり、ベリルのところへ連れて行ってくれませんか」
「もちろん。さあ、早く乗って」
シャルロットの真摯な頼みに応じ、アデュラは彼女に背を向けて体を伏せた。
道案内に全く自信のなかったシャルロットは、ベリルの居場所をなんとなく感じ取れるというアデュラの言葉に胸を撫で下ろした。
人々に見つかって大騒ぎにならないよう、アデュラはできるだけ高い位置を飛んだ。
足元には綿雲が浮かび、平原や森が広がる地上は様々な緑色に塗りつぶされたかのようだ。相変わらず夢のただ中にいるようで、シャルロットは惚けたようにそれを眺めた。
滅多にない体験に夢中になっているうちに、アデュラは王都コベーンに入り、修道院が建つ丘の麓に降り立った。
体感時間は、馬車の十分の一ほどだった。
シャルロットはその速さを褒め称え、アデュラを大いに照れさせた。
「さて、これからどうする? 普通に入るの」
ここへ辿り着くまでに、シャルロットは崖から突き落とされた経緯をアデュラに説明していた。
「はい。恐らく、修道院長以外は<剣の聖女>本来の役目を知らないのだと思います。私が修道院にいても、そこまで不審には思われないでしょう」
もしなにか尋ねられたとしても、聖堂で儀式を行うとか、荷物を取りに来たとか、言い訳はいくらでもできる。
アデュラは「わかった」と頷き、蜻蛉の羽によく似た、緑がかった透明な羽を折りたたんだ。
「ちょっと待ってて。小さくなるから」
「えっ?」
シャルロットがどういうことかと聞き返す前に、アデュラの体が徐々に縮み始めた。
思わず目をこすったが、どうやら見間違いではないらしい。
アデュラの体躯はどんどん小さくなり、仕舞いにはリスほどの大きさになった。
「肩に乗せて」
唖然としていたシャルロットは、慌ててアデュラの言う通りにした。
アデュラはベールの陰に隠れた位置に陣取り、シャルロットの肩にしがみついた。
「これでよし。じゃあ、行こう」
今日は一体、何度驚かされるのだろう。
シャルロットは目を白黒させながらも、アデュラの言葉に従って丘を登り始めた。
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