第5話 聖女の役割(2)

 馬車はメレサ川沿いに川下へと向かっていた。


 朝食を食べ終えると、シャルロットはすっかり手持ち無沙汰になってしまった。

 唯一の同乗者は相変わらず、こちらをちらりとも見ない。マリユスの拒絶するような雰囲気に、シャルロットは話し掛けることを早々に諦め、ひたすら外の景色を眺めることにした。


 そうしてやり過ごしているうちに、日はいつの間にか高い位置に昇っていた。

 道の脇に広がる葡萄畑が、陽光を浴びて鮮やかな緑色にきらめいている。

 太陽の位置を見るに、修道院では皆が労働に励んでいる頃合いだろう。


 それからしばらくして、馬車が止まった。

 長時間座っていたため、全身が強張っている。シャルロットは体を伸ばせることを喜びつつ、馬車から降りた。

 

「わあ……」


 目に飛び込んできた景色に、シャルロットは我知らず声を漏らした。

 彼女は今、崖の上に立っていた。そして眼下には、見渡す限り海が広がっている。

 今までずっと内陸住まいであったため、海を見るのは生まれて初めてだ。

 水平線でくっきりと分かたれた紺碧の海と晴れ渡った空に、シャルロットはしばし見入った。

 もっとよく見ようと、彼女は岩石を覆い隠す芝を踏みしめ、歩を進めた。


「シスター・シャルロット」


 名を呼ばれ、シャルロットは振り返った。

 十歩ほど離れた位置に、マリユスが立っている。彼の声が合図だったのか、下馬した騎士修道士たちが、シャルロットの周りをいっせいに取り囲んだ。

 そのただならぬ様子に、彼女は顔を強張らせた。


「……なぜ、このようなことを?」

「今から儀式を始める。だがその前に、当代の<剣の聖女>に真実を教えるとしよう」


 シャルロットの問いを無視して、マリユスは無表情に告げた。


「<剣の聖女>は、五人の候補の中で最も信心深い少女が選ばれる。信心深いとはすなわち、<蝕>ベリルに大きな苦痛を与える存在だ。我々の<白き顔の神>への祈りが、<蝕>を苦しめる呪いとなっているからな」


 やはり、マリユスもそのことを知っていたのか。

 彼の言わんとしていることがわからず、シャルロットは眉根を寄せた。


「そしてその信心深い娘を差し出すことが、我々の<蝕>に対する誠意の証なのだ。つまり<剣の聖女>は、<蝕>ベリルの花嫁となるために存在する。無論、文字通りの意味ではない。花嫁という名の、人身御供ひとみごくうだ」


 シャルロットは頭を殴られたような衝撃を覚え、よろめいた。

 

「人身御供……? <剣の聖女>が?」

「<剣の聖女>の起源は、二百年ほど前まで遡る。当時、王族が相次いで身罷みまかるという不幸があった。それを<蝕>ベリルの怨念によるものだと考えた当時の人間は、生け贄を捧げることでベリルの怒りを鎮めようとした。そしてそれを実行に移すと、不幸はなくなったそうだ。それから三十年ごとに生け贄を捧げ続け、ユディアラ王国は今日に至るまで繁栄し続けている」

「それはただの偶然です!」


 シャルロットは思わず叫んだ。


「ベリルがそんなことをするはずがない! この国に不幸があったとしても、それはベリルとは全く関係のないことです!」

「なぜそう言い切れる?」


 鋭く問いかけられ、シャルロットは捨て鉢になって秘密を明かした。


「私はしばらくの間、ベリルの魂と親交を結びました。彼の人柄を、私はよく知っています。自分の境遇に不満を持っていても、それで人間を傷つけるようなことは決してしないでしょう。それに彼は、個人に栄華を授けることはできても、国に繁栄をもたらすことはできないと言っていました。この国の繁栄が怒りを鎮めたベリルによるものだと考えているなら、それは大いなる間違いです」

「ほお」


 マリユスはすっと目を細めた。


「なるほど、お前を選んだのは正解だったな。<蝕>ベリルの存在を知り、彼の事情に精通している人間など、生かしておく理由がない」

「……私はベリルを知っているという、ただそれだけの理由で聖女に選ばれたのですか」

「無論、それだけではない。言っただろう、信心深い娘が選ばれるのだと。元々お前は五人の中でも図抜けていたし、<蝕>のことがなかったとしても選ばれていたはずだ」


 <剣の聖女>の役割を知った今、その発言は微塵も嬉しくなかった。

 シャルロットは歯を食いしばって、目の前の司教をめつけた。


「今まで私たちのことを騙していたんですね。地位と名誉が手に入るなどと嘘をついて」


 <剣の聖女>という名称からして、なんの意味も持たないのだろう。

 聖剣ルテアリディスを管理するという役割自体が、でっち上げなのだから。


「地位は手に入らないが、名誉なら手に入る。この国をベリルの怨念から救ったという名誉が」

「ですから、それは誤解だと言っているでしょう!」


 頑なに考えを変えようとしないマリユスに、シャルロットは食ってかかった。


「なぜ認めようとしないのですか!?」

「では逆に聞くが、なぜお前は<蝕>を信じられる? 人類にとっての災厄、神に対する反逆者のことを」


 冷ややかなマリユスの言葉に、シャルロットははっとした。

 自分はベリルのことを受け入れていたので、すっかり忘れていた。<白き鏡>教の信徒にとって、<蝕>とは化物のことであり、敵のことである。

 ベリルを信用できないのも、当然のことだった。


「……ベリルは、あなた方が思っているような悪しき存在ではありません。彼はあのような境遇にあっても人間を恨まない、大らかで心優しい<蝕>です」

「だから信じられると?」

「そうです」


 シャルロットがきっぱりと肯定すると、マリユスは蔑むような眼差しを寄越してきた。


「修道女ともあろう者が、愚かしいことだ。<蝕>に懐柔されるなど」

「なんとでもおっしゃってください。私は意見を翻すつもりはありませんから」


 騙されたことに対する怒りと失望、そして悲しみを抑え、シャルロットは毅然とした態度で言った。


「とにかく、こんな馬鹿げたことはやめてください。ベリルがこの国に不幸を呼び込むなど有り得ませんし、人ひとりを捧げられて喜ぶはずもない!」

「お前の言葉は聞くに値しない」


 マリユスは、シャルロットの訴えをばっさり切り捨てた。


「<蝕>に誑かされた者を信用するはずがないだろう。こうなったからには、疾く<剣の聖女>としての役目を果たし、己の罪を償うがいい」


 抑揚のない声色に反して、マリユスの目には嫌悪が滲んでいた。

 道端の塵芥ちりあくたでも眺めるような視線に、シャルロットは爪が食い込むほど強く拳を握った。


(この人は、人身御供になんの罪悪感も抱いていない)


 ユディアラ王国の平和が保たれるなら、人ひとりの犠牲ぐらいなんの痛痒つうようも感じないのだろう。

 己の振りかざす正義だけを信じ、都合の悪い真実には目を向けようともしない。頭の固い典型的な聖職者そのものの姿に、胸が悪くなった。


「やれ」


 マリユスの命令に、騎士修道士たちが動き始めた。

 そのうちのひとりに羽交い締めにされ、シャルロットは身をよじって暴れた。


「離してください!」


 ぎりぎりと体を締め上げられ、シャルロットは呻き声を漏らした。

 死に物狂いで動かした足が、背後の男のすねに当たったが、拘束はびくともしなかった。

 騎士修道士が向かっているのは、崖の縁だ。

 遥か下に広がる海が、徐々に近づいてくる。シャルロットは、恐怖で血の気が引いていくのを感じた。


「それではな、シスター・シャルロット。この場にいるすべての者が、お前の尊い犠牲を忘れないだろう」


 白々しいマリユスの言葉と共に、シャルロットは崖の縁ぎりぎりに下ろされた。足を踏ん張る暇もなく、即座に背中を突き飛ばされる。


 次の瞬間、シャルロットは宙に放り出されていた。

 悲鳴を上げることすらできずに、彼女は海に向かって落下していった。

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