第3話 君を守るために
「シャルロット、今日は灯りを消さないでくれる?」
シャルロットが仮病を使った日の夜、ベリルは真剣な面持ちでそう言った。
ヴァネッサたちが修道院を去ってからも、就寝前に談話する時は灯火を消していた。噂を蒸し返されないためにもそうした方がいいと、ベリルが勧めたからだ。
そのため、彼の発言にシャルロットは首を傾げた。
「それは問題ないのですが……どうかしましたか?」
「うん、ちょっとね。君の顔、最近しっかり見てなかったから」
昼に会わなくなったので、ベリルとは毎回闇の中で話している。顔を合わせるのは、ベリルが入室してきた時だけだった。
しかし、突然そんなことを言い出すのは妙だった。ベリルの硬い面差しに、シャルロットはなんとなく嫌な予感を覚えた。
「あのさ。今日シャルロット、街へ出かけたでしょう?」
「は、はい。見ていたんですね」
気まずい思いで肯定すると、ベリルは表情を陰らせた。
「たまたま君が門を出るところを見たんだけど、それから間を置かずに、騎士修道士が丘を下っていったんだ。たぶん、君の跡をつけていたんだと思う」
「え……」
シャルロットはさっと顔を青くした。
「全く気づきませんでした」
門前であっさり通された時に、おかしいと気づくべきだった。
騎士修道士は聖女候補を守るため、統括聖庁から派遣された者たちだ。恐らく、シャルロットの護衛としてこっそり付いて来てくれたのだろう。
しかしそれは、シャルロットの嘘がばれたことも意味していた。
どうしたものかと眉を曇らせたシャルロットは、ベリルが黙りこくっていることに気がついた。
「ベリル?」
「……君はたぶん、教団に目を付けられたんだと思う。聖堂で倒れていたところを発見されてから」
シャルロットは息を呑んだ。
「それは……ベリルの姿を目撃したと思われているからでしょうか」
「恐らくは。あの日、僕を見てしまった修道女は何人かいたけど、修道院長は施療院に運ばれてきた怪我人だと言って誤魔化していた。でも、君は違う。レリアたちと遭遇した君は、僕がどこから運ばれてきたのか見たかもしれない。修道院長たちは、それを危惧しているんじゃないかな」
ベリルは言葉を切ると、苦々しい顔つきになった。
「僕が思うに、騎士修道士は君を監視する目的で尾行したんだろう」
「監視」という単語に、シャルロットの背筋は凍りついた。
なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう。シャルロットは、この修道院が隠す重大な秘密を知っているというのに。
修道院長を始めとする教団側が、こちらの一挙手一投足に注目しているであろうことは、予測してしかるべきだった。
(今日既に、怪しげな行動を取ってしまいました)
シャルロットは己の迂闊さを詰りたくなった。
労働を放棄したばかりか、薬草を買いに行くなどと嘘をついて本屋へ向かってしまった。このことは間違いなく、修道院長に報告されたに違いない。
自身の危うい立場を思い知り、シャルロットは指の先が冷たくなっていくのを感じた。
ベリルはそんな彼女を見やると、伏し目がちに続けた。
「……僕はこれ以上、君が危険な目に遭うのを見たくない。だから」
ベリルは深呼吸してから、しっかりとした口調で宣言した。
「僕はもう、君には会わない」
その瞬間、シャルロットは時間が停止したような錯覚に陥った。
彼の声が、真っ白になった頭の中にわんわんと反響している。その言葉の意味を、理解したくはなかった。
シャルロットはやっとの思いで口を開くと、掠れた声で尋ねた。
「……どうしてですか。あなたに会わなくなったとしても、私が見逃されることはないでしょう。事態は好転しません」
「そうだね。でも今後、君に対する監視の目は一層厳しくなるだろう。僕との会話を聞かれるかもしれない。それだけは避けないと」
「あなたとの会話なら、いかようにも誤魔化せます。例えば、亡くなった母に語りかけているとか」
「それで納得しなかったら? 今ならまだ、なにも知らない聖女候補で押し通せるかもしれない。でも僕と話していることが明るみに出たら……」
ベリルは唇を噛みしめると、絞り出すようにして言った。
「君は、教団から始末されるかもしれない」
そんな馬鹿な、と一笑に付すことはできなかった。
ベリルはユディアラ王国に繁栄をもたらす存在として、聖堂地下に囚われている。このことが広く知られれば、ベリルを奪い取ろうとする人間が必ず現れるだろう。レリアの雇い主のように。
そしてなにより、ベリルのことが表沙汰になれば、シャルヴェンヌ女子修道院にとって外聞が悪い。修道院は、血なまぐさい事柄とは無縁であるべきなのだから。
それらを踏まえると、ベリルの存在を知るシャルロットは、修道院、ひいては教団や国にとって邪魔な存在だった。
そう頭では理解していても、ベリルに会えなくなるなど考えたくもなかった。
「……レリアに続き、あなたまでいなくなったら……どうしたらいいのかわかりません」
思わず、泣き言が口をついて出た。
悲しみに胸がつまって、息が苦しくなる。どうしたら彼が思いとどまってくれるだろうかと、そればかりを考えてしまう。
シャルロットが懇願するようにベリルを見つめると、彼は視線を足元へ向けた。
「どのみち、君とは別れる運命にあったんだ。それが早くなっただけのことだよ。……心配しなくても、君はしっかりしているからひとりでもやっていける。ただ、僕と出会う前に戻るだけだ」
シャルロットは駄々をこねる子供のように、頭を振り立てた。
「それでも嫌です。嫌なんです、あなたに会えないなんて!」
「僕だって」
ベリルはシャルロットの眼前まで近寄ると、彼女の頬に触れた。
「僕だって嫌だ。君と離れたくない。君とずっと一緒にいたい。……でもそれは無理なんだ。僕と関われば関わるほど、君の身が危うくなるから」
まばたきした拍子に、シャルロットの頬を涙が転がり落ちた。ベリルはそれを拭うように、そっと指を動かした。
「僕はもう、君が殺されかけるところなんて二度と見たくない。……だから、お別れしよう」
ベリルの顔が間近に迫ってきたので、シャルロットは咄嗟に目を瞑った。
目蓋にひんやりとしたものが触れ、すぐに離れていった。
それが口づけだと気づいたのは、目を開けてからだった。
ベリルは泣き出すのを堪えるような顔で、ぎこちなく微笑んだ。
「今までありがとう、シャルロット。三か月間、本当に楽しかった。離ればなれになっても、僕はいつだって、君の幸せを願っている」
ベリルの手が、頬を離れていく。
シャルロットは我知らずそれを追いかけた。
「待って。行かないでください」
「……さようなら、シャルロット」
ベリルは背を向けると、窓側の壁をすり抜けていった。
シャルロットが窓辺に駆け寄って鎧戸を開け、周囲を見渡した時には、既に誰の姿も見当たらなかった。
シャルロットがどれほど嘆き悲しんでも、そんなことは意に介さず、日常は続いていく。まるで、世の中の正しい流れから逸脱してしまったような心地だった。
機械的に午前中を過ごしたシャルロットは、自室の椅子に座り、ゾエからもらった本――大樹信仰大全をぼんやりと眺めていた。
心にぽっかりと穴が空いたようで、なにもかもが虚しく思えた。
気を抜くと、昨夜のベリルとの別ればかりを思い起こしてしまう。そのたび、シャルロットは熱い塊が喉を塞ぐのを感じた。
嗚咽を堪えて泣きながら、シャルロットは乱暴に目許を拭った。
(これではいけません)
自分は、ベリルを救い出すと決めたのではなかったか。
例え彼に会えなくなったとしても、この程度で挫けるほど柔な決意ではなかったはずだ。
それに姿が見えずとも、ベリルは修道院の敷地内にいる。遠く隔たっているわけではないし、こちらの様子を陰ながら見守ってくれているかもしれない。
そのように考えることで、尽きることのない悲しみが、多少なりとも和らぐような気がした。
シャルロットは唇を引き結ぶと、本を手に取った。
丸一日休んだおかげで、昨日のうちにあらかた読み終えることができた。
有用な情報が書かれた箇所には、栞代わりに
そこには、死者の国ヨグレルへと至る方法が記されていた。
大樹信仰の巫女となるためには、まずヨグレルに辿り着く必要がある。
そのために、巫女見習いは断食をして、死の一歩手前まで己を追い込まねばならない。そうして生死の境をさまよってようやく、巫女の魂はヨグレルへと到達するのだ。
正式な巫女になると、ヨグレルへは断食をしなくても行き来できるようになる。大樹・ルズランから摘み取った葉が、巫女の魂をヨグレルへと導いてくれるからだ。
だが、それだけでは死者の国には入れない。
決められた手順を踏み、呪文を唱えることも必要になる。その辺りは詳細な記述がなかったので、シャルロットはがっかりした。
(ヨグレルへ行くのは、想像した以上に難しそうですね)
そもそも、一人前の巫女となるには何年もの修行が必要になるのだという。
もっと手っ取り早い方法はないものか、と考えて、シャルロットは思い直した。
(現状これしか策はないのですから、試してみましょう。どのみち修道女を辞めるつもりですし、何年掛かっても問題はありません)
ベリルをすぐさま解放できないのは心苦しいが、ヨグレルへ赴き、ヘリオト神の力を借りることが、今のところ最善の方法だった。
ひとまず、ゾエに弟子入りできないか相談する必要がある。
(ですが、しばらくは外出できそうにないですね)
監視されていることを考えると、迂闊な行動はできない。
やはり聖女選定が終わるまで待たねばならないのかと、シャルロットは思わずため息をついた。
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