第10話 闇夜の記憶(3)

 目を瞑っても開けても、眼前に広がるのは暗闇のみ。

 己の体さえ見えず、周囲には自分ただひとり。この状況に、シャルロットは覚えがあった。


(あの時と、同じ)


 心臓が早鐘を打ち、息づかいが荒くなる。シャルロットは震えながら膝を抱え込み、固くまぶたを閉ざした。


(……思い出したくない!)


 しかし、心中の叫びもむなしく、彼女の意識は過去の記憶に引っ張られていった。



***



「どこへ行くの、父さん」


 日没を迎え、辺りが薄闇に沈みつつある中、六歳のシャルロットは父親に手を引かれて山道を歩いていた。


「着けばわかる」


 後ろを振り返りもせずに、父は言った。

 このやり取りも、最早何度目だろうか。望む答えを得られず、シャルロットは眉根を寄せた。

 父と出かけたことなど、記憶にある限り一度もない。そのため、どこへ向かっているのか皆目見当が付かなかった。

 父が灯りを持っているとは言え、段々と暗さが増す中歩き続けるのは不安を覚える。早く目的地に着かないだろうか、とシャルロットは唇を噛みしめた。


 町の舗装された道とは違い、山道は足下が悪く、歩きづらい。道が険しくなると父から手を離されたが、手元に灯りがないため何度か転びそうになった。

 しばらくして、開けた場所に出た。

 辺りはすっかり暗くなり、灯火がなければ周囲の様子さえわからないほどだった。再び繋がれた父の手を、シャルロットは固く握りしめた。


「ここで待っていろ」


 父が進んだ先には、門と思しきものがあった。

 灯光に照らされて、木製の門扉がぼんやりと浮かび上がる。

 シャルロットは耳を疑い、父を見上げた。


「ここで? どうして?」

「父さんは用事を済ませてくる。迎えに来るまで、ここで待っていなさい」

「嫌だよ」


 この真っ暗闇を、灯りもなしにひとりで待つことなど到底できない。

 シャルロットは激しくかぶりを振って、父にしがみついた。


「無理だよ、こんなところで。その燭台も、父さんが持って行っちゃうんでしょう?」

「そうだな。これがないと、道を歩けないから」

「なんにも見えないところで、ひとりぼっちなんて……絶対に嫌!」


 シャルロットは父の腕を抱き締め、懇願した。


「ここに置いていかないで。一緒に連れて行ってよ」

「駄目だ」


 父は断固とした口調で即答した。


「お前は連れて行けない。どうしても、お前には待っていてもらわないといけないんだ」

「でも、怖いよ」

「すぐに戻るから」


 そう言い置いて、父はシャルロットの手を引きはがすと、さっと身を翻して歩き始めた。


「待ってよ、父さん!」


 行きと違って、父の足は速かった。ここに到着するまでは、娘の歩調に合わせて歩いていたのだろう。

 シャルロットは必死に父の背を目指して駆けたが、追いつく前になにかに蹴躓いた。盛大に転んだ彼女は膝の痛みに立ち上がれず、しばし地面にうつ伏せになっていた。

 涙を堪えて半身を起こした時には、父の姿は消えていた。


「嫌だ」


 置き去りにされた恐怖で、シャルロットの体は小刻みに震えだした。


「嫌だ、置いていかないで! 怖いよ、父さん!」


 シャルロットは声を限りに泣き叫んだ。しかし、どれほど泣きじゃくっても、父が戻ってくることはなかった。

 しばらくして泣き疲れたシャルロットは、膝を抱え込んで丸くなった。


 ――父は戻ってくると言ったのだ。ならば、今できることはここで待つことだけだろう。


 散々泣いた後で幾分すっきりしたシャルロットは、前向きに考えることにした。

 先ほど見た門の前まで戻りたかったが、今夜は新月の上、雲に遮られて星の光も差し込まない。

 物の輪郭さえわからない中、移動する気にはなれなかった。今自分が座っているのは山道の手前辺りだろうが、万が一道を外れて滑落などしようものなら一巻の終わりだ。

 シャルロットは大人しく、この場にじっとしていようと心に決めた。


 これ以上心細くならないよう、彼女は膝の間に顔を埋め、辺りの様子を視界から閉め出した。そうすると、聴覚が研ぎ澄まされていく。

 そよ風にサラサラと鳴る葉擦れの音、虫の声。どこか遠くから、梟のもの悲しい声が聞こえてくる。

 そうしていると、荒れ狂った海のような心が、次第に凪いでいくのがわかった。

 しばし身じろぎせずに耳を澄ませていたシャルロットは、不意に飛び込んできた音にびくりと身を竦ませた。


(犬の鳴き声?)


 距離は離れているようだが、確かに聞こえた。

 ここは山中なのだから、野犬が生息していてもおかしくはない。

 シャルロットはそのことに思い至り、歯の根が合わなくなるほど震え上がった。


(どうしよう)


 シャルロットは即座に顔を上げた。

 暗闇に目が慣れたのか、朧気ではあるが周囲の様子が見える。

 シャルロットは背後が開けた場所になっていることを確認すると、這うようにしてそちらに進んだ。


(どうしよう、ここまで野犬が来たら)


 恐慌をきたした頭では、妙案など思い浮かぶはずもない。

 がたがたと震えながら、シャルロットは門を目指してひたすら前進した。方向があっているかどうか定かではないが、今はとにかく、野犬から少しでも離れていたかった。


 指先が硬い石材に当たった時、シャルロットは全身の力が抜けそうになった。

 恐らく、これはなんらかの建物を囲む周壁なのだろう。この周壁に沿って歩けば、先ほどの門に辿り着くはずだ。

 震える足を叱咤して立ち上がると、シャルロットは右手で石壁に触れながら歩き始めた。


 それから間をおかず、またしても犬の吠え声が耳に入った。ガサガサと茂みを揺らす音と、荒い息づかいまでもが聞こえてくる。先ほどよりも、野犬はこちらに迫ってきているようだ。

 総毛立ったシャルロットは、足を踏み出すことができなくなった。


(野犬が来たら、私なんてあっという間に食べられちゃうかもしれない)


 シャルロットは石壁にもたれ掛かって、ぎゅっと目蓋を閉ざした。

 早く門に辿り着き、中にいるであろう人間に助けを求めなければならない。しかしシャルロットの両足は、根が生えたかのようにぴくりとも動かなかった。


(嫌だ、早くどこかに行って! 父さん、助けて! 早く迎えに来てよ!)


 石壁と一体化するような気持ちで、シャルロットは息を殺し、縮こまった。

 野犬が遠くへ行くようひたすら祈っていると、その願いが通じたのか、犬は別の方角へと去って行ったようだった。


 野犬の気配がなくなっても、シャルロットはしばし身動きできなかった。細く息を吐き出してから、魔法が解けたように、ようやく強張っていた体を緩めることができた。

 ひとまずの危機は去った。しかし、また野犬が戻ってこないとも限らない。

 シャルロットは足早に歩き、ついに門扉に辿り着いた。


「誰かいませんか!」


 力任せに門を叩く。しかし、反応はない。

 シャルロットはめげずに、再び声を張り上げた。


「お願いです、入れてください! 誰か、いるなら助けてください!」


 だが、何度叩いても返事は返ってこなかった。

 寝入っているために声が届いていないのか、無視しているのか。はたまた、この内部には誰もいないのか。

 それは知る術もないことだが、ただひとつわかることは、シャルロットは父の言いつけ通り、ここで待つしかないということだった。

 治まったはずの恐怖が、再びシャルロットを飲み込もうとしていた。

 彼女はずるずるとその場にしゃがみ込むと、堪えきれずにしゃくり上げた。


「もう、嫌だ……。怖い、怖いよ、怖い!」


 この闇の中に、自分はいつまでいなければならないのだろう。

 父は、いつ迎えに来てくれるのだろう。

 半狂乱になって、シャルロットは泣きじゃくった。しかし、山中に響くような大声で泣き喚いても、彼女を気に掛ける存在はひとりとしていなかった。

 それでも、シャルロットは待ち続けた。すぐに戻るという、父の言葉を信じて。


 恐ろしい夜を過ごした彼女は、空が白み始める頃、ようやく父の真意に気づいた。


 ――自分は捨てられたのだ。


 シャルロットは絶望しながら、闇を切り裂く曙光を眺めた。

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