第4話 悪夢
気がつくとシャルロットは、聖堂の地下に佇んでいた。
彼女の眼前には、四肢を拘束されたベリルがいる。鉄格子はなく、手を伸ばせば彼に触れられそうだ。
すると出し抜けに枷が外れ、ベリルが床に叩きつけられた。
シャルロットは慌てて彼の傍に膝をついた。
剣が突き刺さったベリルの胸は、ぴくりとも動かない。
彼の頬を触ったシャルロットは、息を呑んだ。まるで陶器に触れているかのように、ひんやりとしている。
「ベリル、起きてください」
肩を揺すっても、ベリルは目を開かない。青ざめた顔とは対照的に、胸からはとめどなく鮮血が溢れ出し、彼の衣を濡らしていく。
「起きてください。お願いですから……」
懇願しても、ベリルが答えることはない。
その間にも、彼の血は泉のように絶え間なく流れ、ついには牢の床全体に広がった。
へたり込んだシャルロットは、ベリルの上体を腿に引き上げると、彼の頭を抱えた。
赤黒い池に浸かりながら、シャルロットは声を引き絞った。
「ベリル……」
修道服が、血を吸ってしとどに濡れていく。
それに構わず、シャルロットは声を限りに泣き叫んだ。
シャルロットは、ぱちりと目を開いた。
まばたきをすると、目尻から涙が零れ落ちた。夢と同様に、現実でも泣いていたらしい。
走った時のように、心臓が忙しなく胸を叩いている。暗闇の中、シャルロットは深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。
ベリルと再び話し始めるようになってから、彼女は毎晩、血に塗れた悪夢を見る。
――シャルロットが目を背けたい事実を、何度も突きつけてくるかのように。
(それにしても、またもや夜中に目が覚めるとは)
シャルロットは思わず嘆息した。
今回も例に漏れず、起床の時間まで悶々と過ごすことになるだろう。彼女は憂鬱な気持ちになった。
シャルロットが眠れないのは、悪夢のせいだけではない。彼女は暗闇が苦手なのである。
灯りがある時や他人がいる場合は平気なのだが、ひとりで暗闇の中にいると、どんどん気持ちが落ち込んでいく。
修道院に入った当初などは、他の修道女に寝かしつけてもらわなければ眠ることもできなかった。さすがに今は、ひとりで寝られるようになったが。
聖具室の隠し扉を発見した時などは例外中の例外で、あの時は暗がりよりも気になることがあったため、苦にならなかったのだ。
皆が寝静まった中、こうしてひとりで起きていると、この世界には自分しか存在していないような錯覚に陥る。
その想像はシャルロットにとって、なにより恐ろしいものだった。
過去の記憶に飲み込まれそうになり、シャルロットはかぶりを振った。
(大丈夫。私はもう、ひとりではありません)
ぱっと脳裏に思い浮かんだのは、ベリルの姿だった。
彼のことを思い出すと、火を灯したように心が温かくなる。それと同時に、彼を取り巻く事柄も思い出し、シャルロットは顔を暗くした。
一番気がかりなのは、ベリルが囚われている理由だ。しかしこれに関しては、当の本人が頑として口を割ろうとしないため、現時点では知りようがない。
――とは言え、どう考えてもきな臭い。
修道院長は夜陰に乗じて聖堂地下へ行き、ベリルへ香の供え物をしていた。人目を避けたこの行動は、後ろ暗いことがあると言っているようなものだ。
(マザー・オフェリーは――いえ、この修道院は一体なにを隠しているのでしょう)
清廉潔白な修道院の印象を裏切るような、あの地下の光景。
あれを見てしまったからには、今までと同じ目でこの修道院を見ることはできない。
歴史ある修道院が、得体の知れない怪物に変貌を遂げたようで、シャルロットは背筋を震わせた。
(ルテアリディスに関しては、修道院だけの問題ではないでしょうし)
ベリル曰く、彼の胸に刺さっているのが、本物のルテアリディスだという。
ならば、コベーン統括聖庁に保管されている聖剣は偽物なのだろうか。統括聖庁の聖職者たちは、そのことを知っているのだろうか?
偽物だと知っているのなら、おかしな話だ。
<剣の聖女>は、聖剣ルテアリディスを管理するための役職だ。わざわざ偽物を管理しなければならない理由とは、一体なんだろう。
(本物がこの修道院にあることを隠すため、でしょうか)
もしそうだとしたら、ベリルが囚われていることを、統括聖庁も承知していることになる。
――この件には、一体どれだけの聖職者が関わっているのだろう。
突き詰めて考えるほど、国内の<白き鏡>教に対する不信の念が、どんどん膨れあがっていく。
(まさか、教団を疑う日がくるとは)
シャルロットは寝返りを打って、唇を噛みしめた。
胸に根ざした疑いの芽は、そう簡単に摘み取れそうになかった。
誰にも吐露できない気持ちを抱えたまま、シャルロットは一睡もせずに起き出す羽目になった。
悪夢を見始めてから、一週間が経った。
シャルロットはわずかに眠っては悪夢のせいで目を覚まし、その後眠れなくなるということを繰り返していた。
昼にベリルと会話していたシャルロットは、一瞬意識が飛びそうになり、慌てて首を振った。
「シャルロット?」
怪訝な面持ちのベリルに、シャルロットはごまかすように笑みを浮かべた。
「……すみません、ベリル。少し、眠くなってしまって」
「そういえば君、最近やつれてるね。目の下に隈ができてるよ」
眉根を寄せたベリルは、椅子に座るシャルロットに近づくと、指の腹で隈をひと撫でした。
「顔色も悪いし」
そう言って今度は、両手でシャルロットの頬を包み込んだ。
最近のベリルは、シャルロットとの距離がやたらと近い。
このように間近で顔を覗き込まれ、あまつさえ触れられると、どうしたらいいのかわからなくなる。掌の感触がないとは言え、女子修道院で育ったシャルロットにとっては刺激が強かった。
頬を染めながら、シャルロットは俯きがちに口を開いた。
「最近、よく眠れなくて」
「え、そうだったの?」
ベリルは手を離すと、益々心配そうに眉を下げた。
「まだ休み時間は残ってるよね。ちょっと横になったら?」
「いえ、大丈夫です。今寝てしまったら、起きられなくなりそうですし」
「午後休むことはできないの?」
「体調不良でもないのに、休めませんよ」
「寝不足を軽く見過ぎるのも、よくないと思うけど……」
ベリルの憂いを帯びた眼差しを受け、シャルロットは口元を緩めた。
「心配してくれてありがとうございます。でも、私は平気ですから」
ベリルはじっとシャルロットを見つめた。
「……シャルロットがそんなに頑張るのは、聖女になりたいから?」
「そうですね。前にも言ったように、育ててくれた修道院に恩を返したいので」
「それならなおさら、無理しちゃ駄目だよ。君を育てた修道女たちは、君が無理をしてまで恩返しすることを、望んでいないんじゃないかな。……少なくとも、僕が同じ立場だったらそう思う」
「……そうかもしれませんね」
シャルロットは目を伏せた。
しかし、たかが寝不足で休むことには罪悪感があるし、焦りもあった。
<白き鏡>教の思惑がどうであれ、シャルロットは<剣の聖女>にならなければいけない。
務めを休んで、その資格を失ってしまうことだけは避けたかった。
自分に立ち止まっている暇はない。
課せられた仕事を真面目にこなし、一心に神へ祈り続けなければならない。
(そうでないと、私は――)
「シャルロット、大丈夫?」
ベリルに声を掛けられ、シャルロットは我に返った。
「あ、すみません。私ったら、またぼうっとしちゃって」
「ううん、それはいいんだけど」
ベリルは気遣わしそうな表情を浮かべた。
「具合が悪くなったら、すぐに休むんだよ」
「はい、そうします。ありがとうございます」
先ほど考えていたことは、靄のように確かな形を持たず、すぐに散ってしまった。
シャルロットはベリルを安心させるため、にこりと笑った。
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