第3話 三日間の失踪(2)

 シャルロットが向かった先は、薬草園だった。

 芳香を食べるベリルにとって、香りの良いハーブが集まった薬草園は、心安まる場所ではないかと思ったのだ。

 果たして、ベリルは薬草園に佇んでいた。なにをするでもなく、白い小花を咲かせたカモミールを、ぼんやりと見つめていた。

 彼の姿を目の端に捉えた瞬間、シャルロットは駆けだしていた。


「ベリル!」


 はっとしたようにこちらを見やったベリルは、そのまま薬草園から立ち去ろうとした。

 

「待ってください!」


 二列に並んだ木製プランターの間を、必死で走り抜ける。しかし、空中を浮遊するベリルに追いつくのは、至難の業だった。

 ひたすらベリルの背だけを見つめていたシャルロットは、足下への注意が疎かになっていた。

 その結果、彼女は薬草園を出て右に曲がろうとしたところで、プランターに蹴つまずいた。

 

「っ!?」


 しまったと思う間もなく、シャルロットは地面に体を打ち付けていた。

 

「いた……」


 辛うじて顔だけは庇ったものの、膝をしたたか打ってしまった。

 痛みのあまり、シャルロットはしばらく身動きができなかった。


「シャルロット!」


 地面に横たわるシャルロットの耳に、ベリルの声が飛び込んできた。

 固く目蓋を閉ざしていたシャルロットは、薄らと目を開けた。

 ベリルは焦った様子で、逃げていた時よりも早い速度でこちらへ戻ってきた。


「大丈夫? 立てる?」


 痛みに耐えながら顔を上げると、ベリルは心配そうにこちらへと手を差し伸べた。

 しかし彼は、自身の手を見て実体ではないことを思い出したらしい。

 さっと手を引っ込めて、沈鬱な表情を浮かべた。 


「大丈夫ですよ。立つのは……今は難しいですけれど」


 ゆっくりと上体を起こしたシャルロットは、弱々しくベリルに笑いかけた。


「もう少し痛みが引けば、立ち上がれます」

「立てるようになったら、すぐに施療院へ行った方がいいよ。手を擦りむいてるじゃないか!」


 眉を曇らせたベリルに、シャルロットは首を横に振った。


「いいえ。それよりも今は、あなたと話がしたいです」


 指がすり抜けることをわかっていながら、シャルロットはベリルの袖口を、握りしめるようにした。


「なにを……」

「ベリル、私の気持ちを勝手に決めて逃げないでください。私はまだ、あなたになにも話していないのですから」


 まっすぐにベリルを見上げると、彼は若干怯んだように身じろぎした。


「あなたが<蝕>だとしても、私は態度を変えるつもりはありません。これからも、今までと同じようにあなたとお話がしたいです」

「どうして」


 ベリルは呆然としたように呟いた。


「僕は<蝕>なんだよ? 君たち人間が恐れる、災厄とも呼ばれる化け物だ。それなのに、僕のことが怖くないの?」

「他の<蝕>についてはわかりませんが……少なくとも、あなたのことは怖くありません。だって、あなたは心優しい人ですから。今だってこうして、心配して戻ってきてくれました」


 「それに」とシャルロットは目許を綻ばせた。


「エティエンヌ王のことを語るベリルは、穏やかな顔をしていました。あなたをあんな目に遭わせた張本人だというのに。エティエンヌ王を含めた人間を、あなたが恨んでいるようには見えません。自分を害した相手を許すなんて、邪な存在にはできないことだと思います」

「それは……僕のことを買いかぶりすぎだよ。僕にだって心はあるし、全く恨みに思わなかったと言えば、嘘になると思う」

「では、人間のことを憎んでいますか?」

「人間全体を憎むことはないよ。僕がこの状態なのは、エティエンヌと一部の人間たちのせいだ。他の人間まで彼らと同じだとは思えない」


 言葉を選びながら話すベリルに、シャルロットは嬉しくなった。


「私は、ベリルのそういうところが好きですよ」

「す、好き?」


 ベリルは裏返った声で繰り返すと、うろたえた様子で視線をさまよわせた。


「ええ。例えば、私の知り合いは馬に腕を噛まれたことがあって、それ以来馬という生き物が苦手になってしまったそうです。それと同様に、人間に酷いことをされたなら、人間全てを嫌いになってもおかしくはないはず。ですがあなたは、別のものだときっちりと分けて考えています。負の感情に囚われていたら、そのように理性的な考えはできないはずです」

「そうかな……」

「そうです」


 自信がなさそうなベリルに、シャルロットはきっぱりと言った。


「とにかく! あなたが世間からどう思われていようと関係ありません。私は、私が見聞きしたベリルの姿を信じます。ですから……もう、逃げないでください」


 歯切れ良く話していたが、最後の言葉は尻すぼみになって終わった。 

 ――自分は存外、ベリルに逃げられて傷ついていたらしい。

 シャルロットがうなだれていると、頭上からそっと言葉が降ってきた。


「うん、もうしない。……ごめん、シャルロット。君が言う通り、君の気持ちを勝手に決めつけていた」


 シャルロットが顔を上げると、ベリルは苦笑を浮かべた。


「<蝕>だと知られたら、もう二度と話してもらえないと思ってた。特に君は、敬虔な修道女だ。僕みたいな存在は、視界に入れるのすら嫌だって……そう言われるのが、恐ろしかったんだ」


 ベリルは震える声でそう口にした。

 シャルロットは彼の半透明な手を、両手で包み込んだ。


「不安にさせてしまって、すみません」

「ううん、僕が悪いんだ。君がそんなこと言うはずないのに、愚かなことを考えた」


 シャルロットはベリルの手を離すと、おもむろに立ち上がった。

 膝の痛みは、ほとんどなくなっていた。


「それでは、仕切り直しましょう。前は『エティエンヌ』と握手しましたが、まだ『ベリル』とは握手していません」


 目を見張るベリルに、シャルロットは右手を差し出して微笑んだ。


「改めて、よろしくお願いします。ベリル」


 ベリルは泣き笑いの表情を浮かべて、シャルロットの手を握った。


「……うん。よろしく、シャルロット。僕は君と出会うことができて……本当に、本当に幸せだ」


 ベリルは胸がいっぱいになったかのように唇を噛みしめると、シャルロットに身を寄せ、彼女の頬に口づけた。

 途端、林檎のように顔を赤くしたシャルロットに、ベリルは悪戯が成功したように小さく笑った。

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