第2章 エティエンヌの正体

第1話 真実の名

 血塗れの少年を目の当たりにしたシャルロットは、極寒の地へやって来たかのように震えが止まらなくなった。

 

「どうして、こんな……」


 むせ返るような血の匂いに、吐き気がする。

 片手で口元を押さえ、シャルロットは格子から後ずさりした。


「あーあ、見つかっちゃったか」


 唐突に人の声が聞こえ、シャルロットはびくりと体を揺らして背後を振り返った。

 囚われの少年と同じ顔が、そこにあった。


「エティエンヌ」


 囁くような声音だったが、しっかりと届いたらしい。

 半透明のエティエンヌは、寂しげに微笑んだ。


「シャルロットにだけは、見られたくなかったんだけどな」


 呟くように言われたその言葉に、シャルロットは口を開こうとして、やめた。

 数々の疑問が胸に渦巻き、なにから尋ねればいいのか見当もつかなかった。

 そんな彼女に、エティエンヌは優しく声を掛けた。


「戻ろう、シャルロット。この場所にいつまでもいたら、気分が悪くなる一方だよ」

「で、ですが! この状況を放っておけません」


 格子の向こう側は、最早恐ろしくて見ることができなかった。

 身震いしながらも懸命に訴えるシャルロットに、エティエンヌは首を横に振った。


「あれはどうにもできないんだ。左胸に剣が刺さっていただろう? あの剣は、君であっても、誰であっても抜くことはできない。それに」


 エティエンヌはシャルロットと目を合わせ、なだめるように薄く笑った。


「あんな状態でも、僕は死んでいないから。心配しなくても大丈夫だよ」


 言葉を失ったシャルロットは、ただエティエンヌを見つめることしかできなかった。





 エティエンヌと連れ立って自室へ戻ったシャルロットは、青ざめた顔で寝台に腰を下ろした。

 先ほどの恐ろしい光景が、頭からこびりついて離れない。

 放心状態のシャルロットに、エティエンヌは気遣わしげな表情を浮かべた。


「シャルロット、今日はもう寝た方がいいよ。顔色がずいぶん悪い」

「……いえ、大丈夫です」


 シャルロットはゆるゆるとかぶりを振った。

 今横になったとしても、全く眠れる気がしない。


「それより、エティエンヌ。あなたは……幽霊ではないのですか?」


 シャルロットが真っ先に知りたいと思ったのは、彼の正体だった。

 エティエンヌは頷くと、伏し目がちに答えた。


「うん、違うよ。さっき地下で見たあれが、僕の本体なんだ。今の僕は、魂魄だけの存在とでも言えばいいのかな」

「生きている……のですか」

「生きているよ。僕は不死身だからね」


 微苦笑すると、エティエンヌは一度、静かに深呼吸した。

 そうして彼は、覚悟を決めたような顔でシャルロットに向き直った。


「僕の本当の名前はベリル。四百年以上前、エティエンヌ王に倒された<しょく>だ」

「<蝕>? あなたが……?」


 そんな馬鹿な、とシャルロットは思わず少年の姿を眺めた。

 エティエンヌ王が討ち果たしたのは、角の生えた巨大な狼のはずだ。目の前の少年に、共通する点などひとつもない。

 シャルロットの思考を読み取ったかのように、彼――ベリルは言った。


「君たちが知っている『ベリル』が狼なのは、エティエンヌ王に箔をつけるためだよ。見るからに弱そうな僕相手じゃ、英雄譚としては盛り上がりに欠けるからね」

「ですが、聖典でも『ベリル』は狼として描かれていました」

「あれは、伝説に合わせて改竄かいざんしたんだよ。ユディアラ王国以外の聖典では、『ベリル』は白髪頭の人食い老婆ってことになってるんだ。どちらにせよ、実物とは全然違うけど」

「そうなんですか!?」


 寝耳に水の話である。

 自国にとって都合の良いように聖典を書き換えるなど、なんと罰当たりな行為だろう。それがまかり通っていたことに、シャルロットは衝撃を受けた。

 

「では、エティエンヌ……いえ、ベリル。ベリルは、伝説の通りコベーンで狼藉を働いていたのですか?」

「まさか! 僕は生まれてこの方、暴力に訴えたことはないよ。ちなみに、聖典に書いてあるようなこともしてないからね。ユディアラ王国版だと、走る度に暴風を起こしたとか、そんな感じだっけ」

「ええ、その通りです。……では、他の<蝕>も?」

「無実だよ。他の面子は聖典通りの姿をしているけれど、この世界で暴れ回ったことも、神に反逆したこともない」


 自身が修道女であることと同じぐらい当たり前だと思っていたことが、次々に覆されていく。

 シャルロットは混乱しながらも、ベリルの言葉に引っ掛かりを覚えた。


「それならば、あなたはなぜ、聖堂の地下に囚われているのですか?」

「それは――」


 ベリルは眉間に皺を寄せると、シャルロットから目を逸らした。


「……知らない方がいいと思う」

「なぜですか?」

「君が、<白き鏡>教の修道女だからだよ」


 そう言ったきり、彼は口を引き結んで答えようとしなかった。

 頑ななベリルに、シャルロットはそれ以上問い質すのをやめた。

 

「……あなたが不死身になったのは、やはり聖典に書いてある通りなのですか?」


 シャルロットは、別の質問を投げ掛けることにした。

 聖典によると、<蝕>は彼らの親であるヘリオト神の血を浴びて復活したとある。

 

「そうだね、概ねあの通りだよ」


 ベリルは表情を陰らせた。

 シャルロットが以前推量したように、ヘリオト神の死は、未だベリルの心に影を落としているのかも知れなかった。

 聞くのではなかったと、シャルロットは後悔した。


「不死身ではあるし、生きてはいるけれど。あの剣が刺さっている限り、僕はなにもできないんだ」


 ベリルが続けた言葉に、シャルロットは眉をひそめた。

 あまり思い出したくはないが、ベリルの胸に刺さっていたのは、乳白色の刀身を持つ両刃の剣だった。

 あのような色をした剣など、見たことも聞いたこともない。その特異性に、シャルロットは閃くものがあった。


「もしや、あの剣がルテアリディスなのですか?」

「その通り」


 ベリルは、事も無げに首肯した。

 今日は一体何度驚かされるのだろうと、シャルロットはあんぐりと口を開けた。

 あれが聖剣ルテアリディスであるならば、統括聖庁にあるものは偽物なのだろうか?

 しかし、シャルロットはその問いをすぐに脳裏から追いやった。今重要なのは、そこではない。


「ということは、白夜王にあの剣で刺されてから四百年以上、ベリルはあの状態だということですか……?」

「うん。さっきも言った通り、ルテアリディスは誰にも引き抜けないからね。僕の場合だと、触ろうものなら手が爛れる。最も、神だけはあの剣を抜くことができるらしいけど――未来永劫そんなことは起こらないだろうし」


 ベリルは肩をすくめた。


「その上、あの剣が刺さっている限り、僕は修道院の敷地外へ出られないんだ。今みたいな魂魄だけの状態でも、それは適応されているみたい」

「そう言えば、以前ここから出られないと言っていましたね」


 あの時詳細をぼかされた理由が、今になってわかった。自身の正体を明かさなければ、詳しく話せなかったのだろう。


「ベリルがこうして霊の姿でいるのは……やはり、自分の体に戻ると辛いからですか?」

「そうだよ。なにせあの剣、心臓に刺さっているからね。まあ、他にも理由はあるけど……とにかく、耐えがたい痛みに襲われるから、魂を切り離す方法を覚えたんだ。この状態でいれば、苦しくないから」


 そう言って笑うベリルが痛々しく見えて、シャルロットは唇を噛みしめた。

 ベリルが聖典通りの邪悪な存在であれば、まだ納得はできた。しかし、シャルロットの知るベリルは温厚で心優しい存在だ。

 このような酷い仕打ちを受けなければならない理由が、一体どこにあるというのだろう。

 沈痛な面持ちをするシャルロットに、ベリルは慌てた様子で言った。


「そんなに気にしないで、シャルロット。こうしていれば、本当になんともないから。気に病む必要はないんだ」

「気に病まないなんて、無理ですよ。あなたがあんな目に遭っているというのに」


 シャルロットは両手をぐっと握りしめた。

 そこで彼女は、あることに思い至った。

 そもそも自分が聖堂の地下へ赴いたのは、修道院長の怪しげな行動のせいだった。当然、修道院長はベリルが拘束されていることを知っているはずだ。

 

「マザー・オフェリーは、あそこでなにをしていたのですか?」

「ああ、あれはね。香を焚いていたんだよ」


 香ということは、香炉がどこかにあったはずだ。そんなものはあっただろうかと、シャルロットは首を捻った。

 眼前の光景が衝撃的すぎて、周囲に目を配っていなかったのかもしれない。


「血の匂いでほとんどわからなかっただろうけど、格子の外に香炉が置いてあったんだ。僕に供えるために、歴代の修道院長が定期的に香を焚いているみたい」

「香をお供えするのですか?」

「僕は人間と違って、芳香を食べる生き物なんだ。なくても生きていけるから、まあ嗜好品みたいなものかな。それをエティエンヌに話したことがあるからか、地下に閉じ込められてからずっと、ああやって香を焚いてくれているんだ」


 乳香にゅうこうしか焚いてくれないからいい加減飽きたけど、とベリルは付け足した。

 シャルロットは、ベリルの言葉を頭の中で整理した。


(つまり、代々修道院長はベリルの存在を知っていて、隠し通してきた。供え物をするということは、ベリルの怒りを鎮める目的もあるのでしょう)


 しかし、ベリルが不快に思うことはわかりきっているのに、なぜ拘束する必要があるのか。

 結局、疑問はそこに行き着くのだった。

 難しい顔で考え込むシャルロットに、ベリルは顔を曇らせた。


「……シャルロット。今まで黙っていて、本当にごめん。君に嫌われたくなくて、<蝕>だって言い出せなかった」

「ベリル……」

「今日は色々あって、疲れたでしょう。もう休んだ方がいいよ。明日も早いんだから」


 ベリルに有無を言わさない口調でそう言われ、シャルロットは渋々頷いた。


「わかりました。……事情を話してくれて、ありがとうございました」

「どういたしまして」

「おやすみなさい」

「おやすみ、シャルロット」


 挨拶を交したベリルの姿が、なぜか散り際の花のように儚く見えた。

 シャルロットは思わず手を伸ばしたが、彼はあっという間に壁をすり抜けて行ってしまった。 

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