第2話 白い少年(1)
シャルロットと少年は、しばらくの間互いを見つめていた。時が止まったかのように、ふたりとも微動だにしない。
不意に、強風が中庭を吹き抜けていった。頭上を覆っていた雲が押し流され、月光がほのかに辺りを照らし出す。
風にあおられたベールが頬を打ったことで、シャルロットはようやく我に返った。
「あ、あの」
シャルロットが声を掛けると、少年ははっとしたように身じろぎした。
あまりにも鮮明な姿をしているため、一瞬生きた人ではないかと思った。しかし目をこらすと、それが誤りであるとわかった。
少年の体を通して、向かいの回廊がぼんやりと透けて見える。そしてなにより、彼の足は地面よりも高い位置に浮いていた。
「幽霊にも、会話できる方がいらっしゃるのですね」
口から滑り出たのは、なんとも間抜けな感想だった。
どうやら想像だにしなかった事態に、自分は少なからず動揺しているらしい。変なことを口走ってしまったと後悔していると、少年は目をしばたたいた。
「幽霊? ……ああ、僕のことか」
彼はひとり納得したように頷いた。
「他の霊は知らないけど、僕はしゃべれるよ。でも、僕と会話してくれる人は今までいなかったな」
「そうなんですか?」
「うん、君がひとり目だね。初めてのことだから、僕も正直驚いている」
そう言って彼は、じっとこちらを見つめた。
シャルロットは落ち着かない気持ちになり、うろうろと視線をさまよわせた。
「ええっと、その。私……自分の部屋に帰らなくては。明日も早いので」
はなはだ不本意ながら、レリアたちの目的はシャルロットが達成してしまった。レリアたちも部屋に戻っただろうし、最早ここに留まる理由はひとつとしてなかった。
失礼します、と会釈して踵を返そうとしたシャルロットは、「待って!」と引き止める声に足を止めた。
振り返ると、少年は切羽詰まったような顔をしていた。
「その……迷惑かもしれないけど。もう少し話せないかな……?」
こちらをうかがうように、しかし必死さの滲む口調で頼む少年に、シャルロットはどうしたものかと考えた。
今自分がすべきことは、今夜のことは忘れて、早々に寝台に入ることだ。
そう理解していても、不安げな表情で返事を待つ少年の顔を見ていると、それが正しいこととは思えなくなってしまった。
「……わかりました」
ぱっと顔を明るくする少年に、「ただし」と付け加える。
「私の部屋まで付いてきてくれますか。これ以上ここにいると、誰かに見つかってしまうかもしれないので」
先ほどのレリアたちの悲鳴で、誰かが目を覚ましていてもおかしくはない。一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
幸いなことに頭上の雲が散ったのか、今は先ほどよりも暗くない。灯火がなくとも、どうにか部屋まで辿り着けそうだ。
「わかった」
素直に頷いた少年と共に、シャルロットは仮の住まいである客人の館に向かった。
自室に入ると、シャルロットは燭台の蝋燭に火を灯した。
壁に寄せられた寝台の向かいには書き物机と椅子があり、その隣に箪笥が置かれている。家具と呼べるものはそれだけの、狭く質素な部屋だった。
シャルロットは寝台に腰掛け、目の前に浮かぶ少年を見上げた。
外の暗がりではよくわからなかったが、彼の瞳は蜂蜜を思わせる金色をしていた。繊細な美しさを持つ容貌に腰までの白髪が相まって、どこか浮き世離れした雰囲気を持っている。
格好を見ると、足首丈の白いチュニックの上に、白い一枚布を巻き付けている。チュニックは袖口と裾に金糸で草花の刺繍が施されており、火明かりにきらりと光った。まるで古代人のような格好だとシャルロットは思った。
「ええっと、とりあえず。私はシャルロットと申します。あなたのお名前は?」
少年は目をまたたいた。
「え、名前? う、うーんと……エ、エティエンヌ! エティエンヌだよ!」
「エティエンヌ、良いお名前です。この国の初代国王と同じ名前ですね」
「そ、そうだね」
エティエンヌはなぜか顔を引きつらせた。
「……それより! 君、本当に僕のことが見えてるんだよね?」
ずいっと身を乗り出して来たエティエンヌに、シャルロットは少しのけぞった。
「え、ええ。現に、こうしてお話ししているでしょう」
「そうだね……」
エティエンヌは束の間、ぼうっと遠くを眺めるような眼差しになった。
「どうかしましたか?」
「あ、ううん。誰かと話すのが久しぶり過ぎて、どうにも実感が湧かなくて……」
「そう言えば、私がひとり目だと言っていましたね」
「うん。僕のことが見える人はたまにいるんだけど、皆怖がって逃げちゃうんだ。この修道院ができてから、会話したことなんて一回もないよ」
「そうでしたか」
シャルロットは相槌を打ちながら、はて、と疑問に思った。
「修道院ができてから……ということは、あなたはこの国ができた頃からいるんですか?」
「まあ、大体そのくらいかな。少なくとも四百年以上はここにいるよ」
「四百年!?」
シャルロットは思わず素っ頓狂な声を上げた。
確かに、今は建国から四百四十二年経つ。たかだか十七年しか生きていない自分にとっては、途方もない年数だ。
「そ、それなら、四百年以上人と会話していなかったということですか?」
「そうだね」
なんてことない口調で肯定したエティエンヌに、シャルロットは絶句した。
それだけの年月を誰とも口を利かずに過ごすなど、想像もつかない。修道院という大勢の人間が生活する場に存在しているのに、その中の誰もが自分を認識しない――それはどれだけ孤独で、どれだけ辛いことだっただろう。
「大変でしたね」
労りをこめた眼差しを向けると、エティエンヌはきょとんとした顔をした。
「君は……僕に同情してくれているの?」
「……そうですね。不快に思ったのならすみません」
「ううん、そんなことない」
エティエンヌはかぶりを振った。
「そんな風に思ってくれる人がいるなんて、思っていなかったから。慣れないというか、なんというか」
彼はそう言って、こそばゆそうにして笑った。
その様を見て、シャルロットは胸が締め付けられる思いがした。
既に死した身であるから、エティエンヌが誰からも顧みられないのは仕方のないことかもしれない。しかしそうだとしても、長年孤独に耐えてきた彼に、なにかしてあげたいと思った。
「あなたさえよければ……また、こうしてお話ししませんか?」
そう口にしたものの、シャルロットは目を伏せた。
エティエンヌの気が少しでも紛れれば、と思っての発言だが、もしかすると独り善がりな考えかもしれない。怖々とエティエンヌの様子をうかがうと、彼は目を丸くしてシャルロットを見下ろしていた。
「いいの?」
「ええ。休み時間や就寝時間前でしたら、お話しできるかと思います」
シャルロットが頷くと、エティエンヌはしばし呆然としていた。
やがて提案を理解したのか、エティエンヌは見る見るうちに笑顔になった。
「うん。……ありがとう、シャルロット」
美しい少年の笑顔は、灯火よりも強く光を放っているかのようだった。
エティエンヌが手を差し出したので、シャルロットは眩しげに目を細めてから、彼の透明な手を握った。
当然のことながら感触はないが、彼の手はどことなくひんやりしているような気がした。
「よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
手を握り合ったまま、彼らは微笑みを交した。
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