アフさんに捧ぐ

上松 煌(うえまつ あきら)

アフさんに捧ぐ



                 1


「ねぇ?」

カウンター越しに紗和(さわ)ちゃんが聞いてきた。

「阿付利(あふり)さんって、ちょっとない名前よね。珍名さんだわ」

「ん? ま、そうだね。自分でもそう思う」

2杯めのハイボールの氷がカランと音を立て、ほんのりといい気分だ。

今夜は空いているから、彼女を独占できるものいい。

「歴史をたどるとぼくの先祖は武士の鎧とか鞍とかを作る職人だったらしいんだ。でも、動物を殺して皮とかを使うんで、穢多非人(えたひにん)と言って人間以下だったみたい。仏教では生き物を殺すことは悪だから。海の魚をとる漁師さんも旃陀羅(せんだら)といって卑しい輩とされていたんだよ。だから、もちろん名字なんかない」

「ふ~ん、厳しいのね」

「うん、昔のことだからね。阿付利(あふり)ってのは馬の鞍下に付ける、台形の泥除けのことなんだ」

彼はしずくを指に付けて大きく書いて見せた。

「ほら、本当は障泥(あふり)ってこう書くんだよ」

紗和(さわ)ちゃんがカウンターに顔を近づける。

彼女から柔らかなリンスがふわりと香った。

「え~と、あっ、「しょうでい」って書くのね。あはは。そのものズバリ泥よけ」

「そう。ぼくの先祖はとても上手に泥よけを作る名人だったんだろうね。あるとき、お殿様にとても褒められてこの名前をいただいたらしいんだ。この阿付利(あふり)に字を変えてね。お殿様はたぶんセンスのある人で、障泥(しょうでい)のあふりじゃあんまりだと思ったんじゃないかな」

「うん、言えてる。こっちの阿付利(あふり)のほうがぜんぜんおしゃれよね」

紗和(さわ)ちゃんが楽しそうにまた笑う。

彼もそれに吸い込まれるように笑顔になった。


 阿付利隗(あふりかい)は30半ばのサラリーマンだ。

一応、小企業の庶務課係長だが、172センチの中肉中背の体型といい、一般的なつるしのスーツといい、これといった特徴はない。

ただ、真面目な人柄をあらわす端正な表情が、笑うとクシャッとつぶれて、実に人のいい笑顔に変わるのがチャーム・ポイントだろうか。

キモイと言われたのは中学時代だけで、社会に出てからはその表情が女性や年配者から受けるようになっていた。

営業に向いていると言われることが多かったが、彼は縁の下の力持ち的な庶務の仕事が気に入っていて、煩雑な割にはたいして感謝もされない業務をむしろ楽しんでいた。

年金をもらうようになった母親と2人暮らしの気楽な独身だから、ほとんど1~2日置きにこの小さな居酒屋に入り浸る。

もう、70近い寡黙な大将と優しげな女将さん、そして彼よりいくつか年下の紗和(さわ)ちゃんが作り出すほんわりとした空間には、いつも中間管理職の苦労が霧散していく気がするのだ。


「このハモちり、美味いね。暑い夏に熱々もいいよね」

旬の肴を堪能できるのもこの店のいいところだ。

味の割に安価だからさらにいい。

「ハモの骨切りは昔から『1寸(3,3センチ)に24包丁』って言われてるんですよ。でも、うちは20くらいかな」

女将さんの笑顔の返事に、奥から大将の抗議の声がする。

「バ~カ。22は入れてるワ」

絶妙な掛け合いに椅子席にいた4人組の客も笑いだした。

「大将のね、骨切りの音いいわよぅ。シャッシ、シャッシ、シャっていうリズム。ほんっと、夏が来たって感じなの」

紗和(さわ)ちゃんの言葉に阿付利(あふり)は自分の質問をかぶせる。

「ね、ここに来てどれくらいだっけ? 紗和(さわ)ちゃんは」

「え? そうねぇ、もう少ししたら2年半かな」

「そう。早いね」

さりげなく言いながら、彼は内心、ため息をつく。

「2年半も見てるだけか……」


                  2


 それから数日後の花金だった。

「あ~らぁ、いたのぉ? アフさん、つ~かまえたっ」

『ばぁ・かめ』のママさんが後ろから抱きすくめてきた。

週末前のちょっと華やいだ気分が、少ししぼんでしまう気がする。

「熱いよ。ママは体温高いんだから」

文句を言いながらも席を空けてやる。

「ありがと」

恰幅のある身体が押しのけるように隣に座る。

椅子がギシッと音を立てた。

彼……いや、もとい、彼女は趣味でバーを経営している。

ちょっと年配の腕のいいバーテンダーを入れた今はやりの洒落た店で、客の入りはいい。

その他にも数軒持っていて、それぞれの業種に貸し出している。

別に金には困っていないから、毎晩、自分の店を抜けだして店子を回るのが日課だ。

悪い人ではないのだが、『その手』の嗜好を持つので、同好の士以外はみんな警戒している。

気に入ると強引に迫って来て『尻小玉を抜く』のだそうだ。


「ん、もうっ」

ママがいきなり手の甲をつねった。

「痛っ。どうしたの? 機嫌悪いね」

手を引っ込めて尋ねると、彼女はすねて肩を押しつけてくる。

肉の壁がけっこう分厚くて圧死しそうだ。

「アフさんったら、紗和(さわ)ちゃんばっか見てんだもの。あたしはこっち」

両頬に手をかけてギューッと捻じ曲げてくる。

「いたたた、見てるよ、ほら、ママのほう」

逆らったら首がねじ切られそうだから、素直に眼を合わせて笑顔を見せる。

「うむ、よろしい」

彼女は満足そうにロックグラスを空にした。

「あなた、ずぅ~っと前から彼女が好きね。色に出にけり我が恋は……か。アフさん、わかりやすいんだから」

「……」

ちょっと言葉に詰まる。

上手くごまかしたいが、とっさに気の利いた返事が出ない性分だ。

「あのねぇ、紗和(さわ)ちゃんは結婚してるのよ。旦那がいるの。知らなかったぁ? うつけ者ぉ」

ママの顔が意地悪く変わる。

「えっ? 女将さんからはそんなこと聞いてないよ?」

「ウソ、ウソ。ほら、紗和(さわ)ちゃん、グラス空よぉ」

「は~い」


 新しいグラスをひったくる様に受け取って、ママがズイッを身を乗り出す。

「紗和(さわ)ちゃん、聞くけど、あなた、旦那持ちよねぇ?」

「え?」

たじろぐ様子に、ママを叱る。

「ママ、プライベートは失礼だろ」

「なによっ、エエかっこしいっ」

バシッと平手が背中に炸裂して痛い。

「いえ、いいんです」紗和(さわ)ちゃんが急いで間に入る「ええ、夫はいます。でも、調停中で……」

「ほ~らね。さ、いいわ。質問はおしまい」

得意然としたママにちょっと頭を下げて、彼女は厨房に去って行った。


 その後ろ姿を阿付利(あふり)は茫然と見送る。

「ほんっと、アフさんは騙されやすいんだから」

「いや、他ならぬ女将さんの言葉だったから。だれかいい人いればいいんだけどって……。フツー、ダンナ持ちにはそんな風に言わないよね」

「知らなぁい。未練じゃぞ、おぬし」

ママは悠然と阿付利(あふり)のナス田楽に箸を付ける。

「ね、いっそのことあたしの囲い者になっちゃいなさいよ。養ってあげるわよ。庶務課の係長って気苦労が多いんでしょ? それから解放してあ・げ・る」

「……??」

ママのセリフが頭に入ってこない。

彼の頭上に鳴り響いているのは、紗和(さわ)ちゃんの「調停中で……」という返事だけだ。

あの時、彼女はチラッと阿付利(あふり)の顔を見た気がする。

いくら馴染みの客にでも、そういった内輪のことは普通、口にしないだろう。

と、いうことは、あの言葉は彼女からのメッセージ?


                  3


 彼はどこかのトイレにいた。

便意もないのに、なぜか固い便が強引に肛門を攻めてくる。

早く排泄してしまわないと痔になりそうだ。

ピッと切れる感じがして、反射的に穴を閉める。

「やべっ」

排泄中止だ。

が、「えっ?」

どうしたことだろう?

便が肛門をこじ開けて直腸内に侵入しようとしている。

排出でなく排入?

まさか、こんなことがあるのだろうか。

「わっ」

思わず恐怖の声が出た。

なんだかケダモノじみた息遣いの巨大な塊が自分のすぐそばにいたからだ。

悪夢だ、そうに違いないと思った。

とにかく早く眼を覚ますのだ。

寝具が手に触れる。

よかった、やっぱり夢だ。

たが、まさか、酔っ払ったあげくの寝小便ならぬ、寝大便未遂?


「いたたたた」

まるで便に意思があるみたいだ。

彼の体内に戻ろうとする悲願に凝り固まっているかのように、異常な圧力で肛門内に突入しようとする。

それにしても夢から覚めないのはなぜだろう。

おまけに身体がうつぶせになっている。

彼はいうつぶせ寝はしないから、薄明かりの中でグルッと首を回してみた。

「うがあぁぁぁぁぁ」

身をもがいて、遮二無二にあおむけになるが早いか、手足をめちゃくちゃに振り回した。

巨大な塊に蹴りがもろに炸裂して、ソイツが、

「ッグエッ」

っと化け物じみた声を上げる。

そのすきに、ゴキブリみたいな四つん這いでフローリングに逃れた。

そばにあったリモコンをひったくって灯りを点ける。

「マ、ママッ、これってなんだよっ」


 塊が恨めしそうに顔を上げる。

いつも結い上げている髪が乱れてまるで貞子だ。

キャリー・パミュパミュ並みのパッサパサの付けまつげも剥がれ、左右の頬に歪んで張り付いている。

アイラインとシャドウがパイレーツ・オヴ・カリビアンのジョニー・デップそっくりの黒々した隅を作っていた。

いつもの真っ赤な口紅はよだれでトロケて妖怪口裂け女もびっくりだ。

「ママ、鏡っ」

灯りは煌々とついてはいても、これでは気味悪くて仕方がない。

「え?」

まだ、欲情を眼に滲ませた『ばぁ・かめ』のママが姿見をおずおずと覗きこむ。

「いやあぁぁぁぁっ」


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「ママ、これって犯罪だよ。男だってこれは強姦罪に当たるよ。こんなことしてたらしまいに訴えられて、ここにいられなくなるから」

でっぷりした脂肪の塊が眼の前で小さくなっている。

「ごめんなさい。だって、あたしは和姦だと思ったのよう。アフさん、OKしてくれたって……」

「そんなはずないだろ」

言いながら、彼女がしきりに囁いていた言葉を思い出す。

「ね、自分を変えなきゃ。新しい自分よ。あたしがその扉を開いてあげる。紗和(さわ)ちゃんなんか忘れなさいね」

阿付利(あふり)はこれを世間一般の、ごく普通の励ましの言葉と受け取ったのだ。

彼女がかいがいしく彼の母親に電話し、

「あ、もしもし。『ばぁ・かめ』のママですぅ。あ、いえ、こちらこそいつもお世話様です。で、さっそくなんですけどぉ、アフさん、今夜、すごく酔っちゃって……。あたしのうちで一晩休んでもらおうかなって、ええ、はい。いえいえ、迷惑なんて、そんな……。はい、では、そうさせていただきますぅ。いえいえ、どうも」

阿付利(あふり)はその時かなり酔っていたのは事実で、そばにいた大将も女将さんも紗和(さわ)ちゃんも、ただの親切心としか思わなかったようだ。

こんな魂胆が隠されていたとは。

「ほんっとにごめんなさい。ね、あやまるから、もうしないから、あたしを嫌いにならないで。ね、ねっ。男に二言はないわ。これからは女の友情よ。あたし、アフさんと紗和(さわ)ちゃんに協力する。彼女のダンナ、きっとDV野郎よ。そういうヤツに限って離婚に応じないんだからもう」

「決めつけるのはよくないよ。それにママが入ると大事(おおごと)になりそうだから、いいよ」

ママとの話はそれで終わった。


 それから2週間ほどは何事もない毎日だった。

庶務課の業務も順調だし、紗和(さわ)ちゃんもいつもどおり接してくれている。

阿付利(あふり)にとってはすべてが想定内の理想的な日々で、サラリーマン生活もいいものだとつくづく思えるのだ。

「ね、ね、アフさん。今夜来て、あたしの店」

いきなり『ばぁ・かめ』のママからTELが入る。

昼食を食い終わったいつもの午後だ。

「え? 『秋月(しゅうげつ)』でいいだろ? ママんとこ高いから」

「ううん、いいから来て。1杯ならおごるわよぉ。ね、絶対来て。じゃね」

せっかちに畳み込んでそのまま切れた。

理由も告げない電話じゃあんまり気は進まないものの、足を運ぶことにする。

洒落たネオン・サインとロゴに飾られた重厚なドアを開けると、正面にきらびやかなバック・バーが見え、ハイクラス層を満足させるための酒類が豊富に並んでいる。

 

 ちょっと足を止めて見まわすと、ママがボックス席から手招きするのが見えた。

「へ~、いい店だね」

「アフさん、初めてだっけ? たまには来てよぅ」

「うん、心がけるけど、安サラリーマンには敷居が高いよ」

初老の品のいいバーデンダーが、にっこりほほ笑んで酒を置いて行く。

阿付利(あふり)の顔が輝いた。

「これって、マティーニだよね。ロンドン・ドライのジンを使って、良く冷えるよう軽くシェーカーかけてる。基本の4:1がちょっと薄まってまさに夏向きだね。いいセンスしてんなぁ。あのバーテンダーさん」

「ウフッ。アフさんわかる? あたしがスカウトして引き抜いた横田さん。この店が繁盛してんのはあの人のおかげよ。これからはご贔屓にね」

「親父が無類の酒好きでさ、鍛えられてちょっとはわかるんだけど、たまにならいいけど破産しちゃうよ。で、何の用?」

「うん」ママが声を潜める。

「紗和(さわ)ちゃんのこと、おかみさんに聞いたのよ。そしたらね、なんと離婚調停に難色示してるのは紗和(さわ)ちゃんのほうだって」

「ええっ?」

思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。


「ね? びっくりでしょう? あたしもさ、詳しく聞きたかったんだけど、女将さんはママに言ってもしょうがないからって、口を割らないのよ」

無意識のうちに弱いため息がもれる。

「……いいよ。無理に聞くことないよ。つまり、ぼくが横恋慕したってムダってこと。夫婦の間には他人がわからないいろんな思いがある

んだね、きっと……」

炭酸の気が抜けるような感じで語尾が消えた。

ママの大きな顔が彼を覗きこむ。

「アフさん、それでいいの? あんた、あの人が好きで好きでたまんないんでしょう? あきらめるにしろ、もう少しわけを知りたいと思わないの?」

「思わないよっ」

ついつい声が荒くなる。

ママに八つ当たりしたって何の解決にもならないのはわかっている。

それでもイライラがとまらない。

「余計な御世話だよ、ママ。刑事じゃないんだから、聞き込みなんかよせよ。そんなことされたら意識しちゃって『秋月(しゅうげつ)』に行けなくなっちゃうじゃないかっ」

「そんなに怒らないでよ。だって、女将さんはこうも言ったのよ。紗和(さわ)ちゃんもアフさんに前から気があるみたいって」

「え?」

ちょっと絶句する。

どういうことだろう?

これが女心の複雑さってことなのだろうか?


                  5


 阿付利(あふり)はしばらく、といっても5~6日だが、『秋月(しゅうげつ)』から足が遠のいていた。

多分、女将さんの勘違いだろうけど、紗和(さわ)ちゃんも自分のことが好きだったなんて、理想的すぎてかえって耳を疑う。

彼女の前でどんな顔をすればいいのだろう?

素知らぬフリのポーカー・フェイスなど、彼には出来そうもない。

『ばぁ・かめ』のママからは盛んにTELが入るから、

「いや、母親が夏バテでね。ちょっと様子を見てて、元気になったら行くよ」

と、答えている。

それでも内心は紗和(さわ)ちゃんに会いたくてたまらない。

軽い残業で遅くなったある夜、彼はフラフラと店の前に立っていた。

コロナ自粛で営業は9時までだから、9時半を回ったこの時間では当然、シャッターは下りている。

明かりの消えた店先で、しばしぼんやり立ち尽くす。

裏口からだれかが出てくる気配に、

「やべっ」

急いで背を向ける。

「あらぁ、アフさん。もう、お店終わっちゃったよ。お母さんの具合どう?」

屈託のない声は紗和(さわ)ちゃんだ。

思わずビクンと飛びあがった。


「あ? ああ、その。だ、だいぶ元気になったよ。で、あの、今日は残業だったんだ」

自分でもわかるくらいトギマギしている。

彼女はちょっと笑って、

「ね、待ってて」

と店に引き返して行った。


 ほどなく、彼らは夜の公園にいた。

雨模様の曇天のせいか外飲みの連中もいず、静かなものだ。

女将さんが大急ぎで用意してくれた冷酒とタッパーのツマミでとりあえず乾杯をする。

それだけのことなのに阿付利(あふり)は思春期に戻ったようにドキドキした。

紗和(さわ)ちゃんがポツリポツリと自分のことを話してくれている。


「で、ね、あたし、ほんとにアフさんが好き。アフさんと結婚して生活をやり直せたら、って夢を見たのは事実よ。女将さんに打ち明けたら大賛成してくれて……。でも、やっぱりダメ。あたし、主人を捨てられない」

「……」

とっさに、どう返事していいか声が出ない。

一条の光のようにキラめいた好きという単語も、末尾に続く言葉にたちまち打ち消されてしまう。

「だって、あの人、あたしのために一生懸命なんだもん。あたしが別れちゃったら、夫はきっと支えを失って……。あたし、後悔すると思う。アフさん、あの人がね、別れ話を切り出したのは、夫婦生活が不能ということと、子供が出来ないせいなの」

話が微妙なものになってきた。

阿付利(あふり)は黙ってうなづく。

思うに彼女の夫はインポテンツというものなのかも知れない。

それに負い目を感じて、離婚という法的措置で紗和(さわ)ちゃんを解放しようとしたのだろう。

だが、彼女はそれに応じないので、彼女の年齢を考えた夫はやむなく離婚調停に持ち込んだ気がする。

男はまだしも、女性の再婚には年齢的な制約があるのは事実だからだ。


「重い話だね。ほんと人生はいろいろだなぁ」

彼の言葉に彼女も黙る。

夜の湿った風とともに、近くの鉄路を過ぎる列車の音が通り過ぎで行く。

ため息のような沈黙が苦しくなったのだろう。

「アフさん。実は、あのね」

彼女がうつむいていた顔を上げて、そっと囁く。

「え……?」

聞き耳を立てた阿付利(あふり)の顔が奇妙に歪んだ。


                  6


 「ぬわんだってぇ、許せないわようっ」

声と同時にママの巨体がユサユサと揺れた。

『ばぁ・かめ』の片隅で、彼は公園での紗和(さわ)ちゃんとの会話を打ち明けていた。

あの時、彼女はこう言ったのだ。

「アフさん。実は、あのね、夫は『ばぁ・かめ』のママと同じ趣味の人なの。って言うか、趣味じゃなくて真正。女性じゃ起たないの」

「え……?」

「でも、親兄弟や親戚、友人知人なんかはみんな彼がノーマルって思ってて、時期が来たら結婚してあたりまえって考えだったみたい。夫は追い詰められちゃって、あたしと結婚したの。偽装結婚って思うかもしれないけど、絶対、違う。彼、本気であたしを愛してくれてる。

当事者のあたしにはわかるの」

「うん」

「だけど、彼の身体はダメなの。拒否するの。あたし、夫のことをフツーだと思っていたから、結婚したら子供は最低、2人欲しいとか、夢をいっぱい話してたの。彼は陰でこっそり努力していたみたい。精神療法とかバイアグラとか。でも、ダメなものはダメってわかった時、泣きながら離婚を提案してきたの。許してくれって。でも、あたしはそれに同意できなかった」

「彼が好きなんだね」

「うん、人間的にはとってもいい人。思いやりがあって誠実。彼、あたしと結婚する時、本気であたしとだったら出来るって思ったみたい。あたしのこと考えると起ったって言ってたもん。でも、いざとなるとダメだったの」

「……」

「あたしは子供なんかもう、いらないからって、夫婦の営みもなくていいからって話したんだけど、彼はそれじゃ、心苦しいって。あたしだったらもっと幸せな結婚生活が営めるって。その可能性をつぶした自分が許せないって。周りを騙すためにノーマルのフリした自分なんか社会の片隅で見捨てられりゃいいって……」


「そうよ。見捨てられりゃいいっ」

ママの声はドスが効いている。

「あのねえ、アフさん、あたしたちの中でなにがやっちゃいけないって、ストレートのフリして女性と結婚することよ。つまり、他人を犠牲にしてまでマトモを偽装すること。風上にも置けないわよ、ソイツ。紗和(さわ)ちゃんもおバカさんすぎ。うまく騙されて利用されたのに気づかないなんて」

「うん、でも、彼の愛情は本物みたいだけど?」

「どんなもんだか。だったら、最初から結婚なんかしなきゃいいじゃない。そういうヤツは口ではどんなことでも言うのよっ」

「でも、離婚調停に応じないのは紗和(さわ)ちゃんのほうだよ」

ママがギロッと眼をむいた。

あちゃ、本気で怒らしちゃったようだ。

「アフさぁん。あ・ん・た、そのクズの味方する気ぃ? 仁義をわきまえない輩にはそれなりの制裁が必要だわよっ」

2ダース入りのジンを片手で積み上げるとうわさの腕を突き出して指をパキパキ鳴らす。

「マ、ママ。抑えて。傷害は止めてよ」

思わず本気の声が出た。


                  7


「ね、紗和(さわ)ちゃん、旦那さんに変わったことない?」

店に来るなり、阿付利(あふり)が尋ねる。

「え? 別に。この3,4日、忙しいって会社に泊まり込みだけど、いつものことだし」

なにも知らない彼女は屈託なく答えてくる。

「それより、『ばぁ・かめ』のママさん、どうしたのかしら? やっぱり、この3,4日パッタリ来ないの。女将さんが心配しちゃって……」

「うん、ぼくも心配でママの店に行ってみたんだけど、いないんだよね。バーテンダーの横田さんに聞いたんだけど、口止めされてますって言うだけ」

「まさか、具合悪いとか?」

「いや、病気や怪我とかじゃないらしいんだけどね」

「ふ~ん、そう? ママさん気まぐれなとこあるから、飽きちゃって違う店に行ったのかも。それともかわいいカレシ見つけちゃったかな?」

「あはっ。かもよ」

他愛ないこの話が現実になっていようとは……。


 スマホが震える。

昼休みのこの時間なら、きっとママだ。

大急ぎで出る。

「ママっ、どこに雲隠れしてたんだよっ?」

「雲隠れって、人聞きの悪いこと言わないでよぉ。うふふ、今夜、『秋月(しゅうげつ)』に来て。サプライズがあるの。絶対来てねっ」

いつもよりかなり機嫌のいい声で言って、いつものように切れた。

なんだろう?

手慣れたはずのルーティンが手に付かない感じでソワソワする。

仕事が終わるが早いか、彼は店に駆け付けた。

いつものように大将、女将さん、紗和(さわ)ちゃんの3人が顔をそろえているが、他に客はいない。

「表の行燈出し忘れてるよ。のれんも出てないし……。来るの早すぎた?」

気がかりそうな言葉に、女将さんが返事する。

「いらっしゃい、アフさん。『ばぁ・かめ』のママさんが今夜は貸し切りにしてって言うのよ。え~と、サ、プ……サプなんとかがあるんですって」

「そうなの。昼間、電話くれて。ママね、すっごいご機嫌だったわ。サプライズってなにかしら?」

「う~ん、ママのバーが3つ星取ったとかかな?でも、そんなことぐらいじゃ、ママは喜ばないよなぁ」


 カラッとかすかな音がして、だれかが入口を細めに開けて覗く。

紗和(さわ)ちゃんが目ざとく見つけて、

「あら、ママぁ。今、ウワサしてたの。入って。面子そろってるわよ」

と、手招きする。

グフフフフというような含み笑いとともに彼女は巨体を現した。

ズシッと席に着くが早いか、

「まず、生で乾杯しましょ。紗和(さわ)ちゃん、ジョッキお願い」


 5つのグラスが高々とあがる。

「かんぱ~い」

いつもは業務終了まで飲まない大将も、なかなかいい飲みっぷりだ。

ママが上機嫌で女将さんの出してくれたお通しに箸を伸ばす。

「ん~、いい。この鯉の洗い。適度な厚身で泥臭くなくて、大将の包丁は最高だわ、ね、アフさん」

「うん。キュッと締まってて、さっぱりさわやかだよねぇ」

美味いつまみに声が弾んだ。

「ねぇ、ママ。サプライズってなぁに? 楽しみで待ちきれないな」

紗和(さわ)ちゃんの言葉に、彼女はまたまたグフフフっと笑う。

「ちょっと待って。儀式があるの。え~とね」

得々とした顔で手提げを探り、なにやら畳んだ和紙を取り出した。

「うふふふ。アフさん宛てにお手紙があるのよ。紗和(さわ)ちゃん、あなたも隣で良く聞いていてね。っと、祝詞みたいよねぇ、この紙」

なにが始まるのだろう?

4人の視線が集中する。


 ママは大真面目で前髪を掻きあげ、咳払いした。

『アフさんに捧ぐ』

冒頭を読み上げて、ちらっと阿付利(あふり)の顔を見た。

『え~。アフさんに捧ぐ。アフさん、あたしは本気の本気であなたが好きでした。だから、この間、あなたを襲っちゃってごめんなさい』

「えええ~?」

紗和(さわ)ちゃんの超びっくりした声に続いて、女将さんの

「あれまぁ……」

という、あきれ返った声がする。

大将は腕組みして「う~ん」と唸ったままだ。

それでもママは悪びれない。

『でも、未遂だからいいでしょ。あなたがあそこまでストレートだったなんて、あたしの誤算でした。見事に失恋しちゃって、とても悲しかったわ。でも、世の中って上手く出来てる。今、あたしはアフさんに代わる超いいヒト見つけちゃったの。だからアフさんはいらない。そこの紗和(さわ)ちゃんと結婚でもして幸せになってください。以上、1巻の終わり。かしこみかしこみ申すぅ』

彼女は神主そのままに恭しく礼をした。

これでママが突然消えたワケがわかった。

でも、と、すると新しい恋人とは……?


                  8


「本当にママさんのおかげだわ」

「う~ん、ホント、びっくりしたよ。縁は異なものっていうけど、ここまでとはね」

阿付利(あふり)と紗和(さわ)ちゃんは、今ではひとつ屋根の下にいる。

離婚はとっくに成立し、彼の母親が心待ちにしている孫の誕生も時間の問題だ。


 サプライズのあの晩、『ばぁ・かめ』のママは阿付利(あふり)のかわりという新しい恋人をみんなに紹介したのだ。

「あ、えっ? えっ? 直樹(なおき)さん? いやだ、ど、どうして? あ~、あのぅ、みなさん、あたしの主人です……」

対面した時の超とまどった彼女の様子を阿付利(あふり)は微笑ましく思い出す。

「いやねぇ、あなた、元妻でしょう? おめでとうとか、もっと言うことないのぉ」

ママがわざと額にしわを寄せるのを真に受けて、

「あっ、はい。す、すみません。あの、お……おめでとうございます」

あわてて言った言葉に、びっくり顔の大将やおかみさんの表情も緩む。

「よろしい。ねぇ? 彼ってアフさん似でしょ。こんな身近にこんないい男がいたなんて。あたし、最初、ぶっ飛ばそうって思ってあたしの店に呼んだのよ。暗かったからアフさんと間違えるくらいだったわ。そんときにバックンと一目ぼれ。でも、人間って相性が大事。人となりを見なくちゃって思って、4,5日間は急遽の同棲突入よ。彼、素直にあたしのところから会社に通ってくれた。ねぇ、紗和(さわ)ちゃん。直樹(なおき)さんって、真面目でマメなタイプね。尽くす性格だわ」

「え、ええ。そうです……」

「あなたにはもったいないから、あたしがもらうわね。まだ、味見はしてないんだけどさ、彼もあなたよりあたしの方が自然でいいって。ね、すぐに離婚しなっさい。親兄弟や世間も問題ないから。周りはね、1度離婚しちゃうと、本人は凝りちゃったって見るのよ。だから、バツイチがひとりでいてもそんなに問題にされないの」

かなり恥ずかしそうにママの陰にいた彼が、そっと妻に声をかける。

「紗和(さわ)? びっくりした? 急でごめんね。でも、ぼくはきみ自身のためにもこれが1番いいと思うよ。きみが随分前から阿付利(あふり)さんのことが好きだってわかってた。でも、きみはぼくを1人ボッチにするのが辛くて、ぼくのそばにいてくれる。それが嬉しい半面、申し訳なくて随分、苦しかったよ。でも、これでみんなが万々歳だよね。ママに縁があって、ぼくは本当に幸福者だ」

紗和(さわ)ちゃんの目から、みるみる涙があふれる。

彼は彼女の手を取り、握り合う夫婦の手にクリスタルのしずくのようにしたたり落ちた。

「うん。……うん。そうね。直樹(なおき)さん、今までありがとう」

「こちらこそ。紗和(さわ)、きみも幸せにね。阿付利(あふり)さん、どうかよろしくお願いします」 

頭を下げられて、阿付利(あふり)も急いで最敬礼した。

「はい。精いっぱい努めます」

あれっ?ちょっと変だったかな?

これって女性側の返事だっけ?

とっさに自問自答したが、大将も女将さんもに真面目な顔でうなづいていた。


「でも、直樹(なおき)さんって、そんなにぼくに似てる?」

彼の疑問に彼女もちょっと首をかしげる。

「う~ん、背格好と雰囲気かなぁ? ぶっちゃけちゃうとアフさんのほうがステキ」

「あはっ。ママは彼のほうがイケメンだってさ。どっちもホレた弱みってやつなんだろうね」

軽い笑いが朝のリビングに広がった。

「さ、お義母さんを呼んでこなきゃ。あたしたちの邪魔をしないようにホント、気を使ってくれてるの」

楽しそうに奥の間に行く彼女を、阿付利隗(あふりかい)はテーブルから見送る。

今まで2人分だった食器が、3人分になって並んでいる。

それが4人分になる日も近いのだ。

カーテンの向こうの小さな庭から、うらうらと春めいた日差しが差していた。



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