ミュージアムの魔法使い

水無 月

前編

 紅葉こうようはじめた公園をけると、銀川ぎんかわ杏士あんじ職場しょくばであるミュージアムに行き当たる。

 在籍ざいせき出向しゅっこうちゅうの杏士は、朝のんだ空気の中、一歩いっぽ一歩いっぽ入口に近づく。


 出勤しゅっきん早々そうそう、杏士は二階のカフェでコーヒーとフランクドッグを受け取った。

 大窓おおまどからのぞ曇天どんてん

 日焼けの残る杏士の黒髪くろかみは、弱々よわよわしい陽光ようこうり返す。

 体つきのよさと長身で、あたらしいグレーのジャケットを着こなしてはいるけれど、いまだにれない。

 夏の終わりに、杏士はパイロットになる夢をうしなった。

 少し前の杏士なら、あつくもの空は目元めもときずうずくようで気に入らない。

 けれど今は、季節のうつろいをたしな余裕よゆうさえある。

 窓に広がる景色けしき横目よこめに、杏士はコーヒーとフランクドッグを紙袋へと入れると、四階へ向かった。

 杏士の業務ぎょうむは、劇場げきじょうがた本棚ほんだなのフロアから始まる。


 天井てんじょう高く本棚がかこむ吹き抜けの劇場、その中央で杏士は足を止めた。

 棚にめ込まれた複数ふくすうのディスプレイ。

 流れる映像は、アニメやドラマ、動物もののドキュメンタリーなど様々さまざま

 キャットウォークやゆか一面いちめんにも、其処此処そこここに開きっぱなしの本がらばる。


 杏士は自然とめ息をくと、暗い天井に向かって声をり上げた。

「館長、起きてください! 視察しさつに行く時間ですよ!」

 言葉がい込まれるみたく、劇場にひびく。

 杏士はいた棚に紙袋をくと、床にある本をひろっていく。

 再び、杏士は声を張り上げた。

「館長! 起きたんですか!」

 自分の声だけが、くうただよって消える。

 かかえた本を棚にもどすと、杏士は再び天井を見上げた。

 杏士が着任ちゃくにんして、約二ヶ月。

 このミュージアムには文字もじどおり「見えないちから」がはたらいている。


 大岩おおいわが大地をき上げたような、五階てのミュージアム。

 その六階に、当館の館長が住んでいる。

 ……そう、六階。


 杏士は配属はいぞく直後に、ひげたくわえた恰幅かっぷくのよい司書ししょから「他言たごん厳禁げんきん」の書面しょめんにサインをもとめられる。


『当館は、魔法まほうしょう管轄かんかつ施設しせつである。

 魔法を他言してはならない。

 違反いはんしたものは、記憶きおくから消去しょうきょする。』


 イベントてきな何かか。

「子どもはよろこぶだろうな」と、杏士はまよいもなくサインした。

 けれど、次の瞬間しゅんかん

 杏士のサイン入りの書面が、ちゅうく。

 タネの分からないマジックのように、書面はひとりでにたたまれていく。

 それは紙飛行機へと姿すがたを変えると、両翼りょうよく刻印こくいんげついた。


 見たこともないマーク。

 異国いこくの文字が丸くふちるその中に、「へび」のような、「くさり」か「ロープ」のような、絵みたいなものがえがかれていた。


契約けいやく締結ていけつされた』


 うなるような司書の声とともに、紙飛行機は旋回せんかいし始める。

 途端とたんに、杏士は目をうたがった。

 ふくよかな司書の体がしぼみ始めたかと思うと、青い髪のがら青年せいねんあらわれた。

『館長』という役職やくしょくに、年配ねんぱいだと思い込んでいたけれど、二十代も折り返しの杏士よりも、彼はわかく見える。


はじめまして。館長の時野ときのすばるです」

 やわらかなものいで青いひとみしばたくと、青年はほほんだ。

 彼と顔を合わせた時、杏士は吹き出す。

 おさなさにつかない八の字のカールした髭が、彼の鼻の下にある。

 青年もとい館長は、杏士が笑う理由に気が付いたのか、あわてて口元くちもとかくす。

 今度は照れたように笑うと、館長は軽くせきばらいをした。

 すでに髭はなく、彼は口をとがらせながらひとし指をらして杏士を見つめる。

「契約は守ってもらうよ、銀川くん」


 杏士は、出口を見つけた気分だった。

「『魔法使い』って、本当ですか?」

『魔法』が事実ならば、目の前にいる男が、何者だろうが関係ない。

 館長は目を丸くしている。

「……僕の話、聞いてたぁ? 僕は魔法使いだよ!」

 彼はほほを膨らませて不服ふふくそうな顔をした。

 杏士はぐに、彼を見つめる。

「傷も、なおせますか?」

「まだ疑ってるの? だから、僕は魔法使いだってば!」

 彼は再び、頬を膨らませた。


 杏士はつばむと、再びいかける。

「治せるんですね?」

 館長はこしに手を当てると、今度ははな高々たかだかに言う。

「僕にできないことは、ないよ!」

 杏士は息をととのえると、深々ふかぶかと頭をげた。

「治して、ください」


 はやくなるみゃくとともに、杏士の空への情熱じょうねつ高揚こうようしていく。

(また、べる……!)

 かたにぎった手のひらに、あせにじんだ。

 杏士は強く目をつむって、館長の声を待つ。


「銀川くん。その願いは、君にとって本当に大切なことなの?」

 

 館長のしめしたこたえは、杏士の予想よそうを大きくはずれる。

 杏士が頭を上げると、当の館長は空気くうき椅子いすみたく宙にすわり、熱心ねっしんに何かをしょくしていた。

「ふぃんふぁふぁふん、しぇふぁふぃっふぇふぇ……」

 杏士はこめかみを指できながら答えた。

「すみません。分かりかねます」

 館長は咀嚼そしゃくえると、言い直す。

「銀川くん、『世界』ってね、案外あんがい大きいんだよ」

 彼は言い終えると、何かがはさまったパンを再び口にほおる。

「僕もね、人間界にこんなに美味おいしいものがあるなんて、知らなかったもん」

 次に紙コップを手にした彼は、ふたくちを開けた。

「この組み合わせ、最高だよねぇ」

 館長はじょう機嫌きげんでコーヒーを飲むと、杏士に問う。

「よく考えてみて。君にとって、何が一番大切なのかを」

 館長は再び青い瞳を瞬いた。

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