第25話 愛のかたち


 翌日、正式に退職が決まった。


 誰もいない夜のオフィス、遥は一人で物思いに耽る。


 別れを惜しむように一つ一つのデスクに触れ、そして最後に環のデスクまでやって来た時、深い溜息をついた。


「ごめんね、環ちゃん……」


 “自分勝手過ぎます!! 周りに迷惑がかかる事は遥さんが一番知ってるはずです! ”


 環の言葉は遥の身に、つらくしみていた。


 今まで支え合い協力してきた遥と環はこの日、初めて言い争いをした。勝手に退職日を五日後に決めた遥に環は怒り、他のスタッフも口々に遥を非難したのだ。


 “もう決まった事なの。来月から新体制で動くようにと社長命令も出てる”


 さらに、遥が環の言葉を冷たく突っぱねたせいで環は撮影ブースに籠もり、遥はチームから孤立してしまった。


「これで……いいんだよね」


 もう一度みんなのデスクを見渡し、遥は切なげに呟く。仲違いしたまま別れることになる……思ったよりも寂しい最後だけれど仕方ない。


 もう一つ、ため息をついた。


 “着いたよ”


 海斗からのメッセージで約束の時間が迫っている事に気付いた遥は慌てる。


「おつかれさまでした」


 誰もいないデスクに一礼すると、走り始めた。ビルの下では海斗が待っている。







「お待たせ、遅くなってごめんね」

「ううん、急に誘ったりしてごめん、忙しかった? 」


 この夜、海斗は遥を誘い、かつて二人が出会ったビルの前で待ち合わせをした。


「ここ? 俺達が出会った場所」

「うん……」


 並んでビルを見上げる海斗の視線を追う遥。


「まだみんな働いているの? 」

「ほとんどのオフィスはもうロイドさんなんじゃないかな。うちはまだ働いている人達もいるけど」

「ロイドさん? 」

「あ、えっと……業務用のロイドさんね、夜の時間は人間と交代して夜勤してくれるの」

「そうなの!? 大変なんだね、ロイドさんって」


 驚きながら、何かを考えるようにもう一度ビルに目をやる海斗を、遥は複雑な想いで見つめる。自分がロイドかどうか……それ以前にロイドが何か知らないなんて、あり得るんだろうか。


 だとしたらなぜ、あの人はそんな事を。


「行こっか、お店予約してくれてるんだよね」


 わざと明るい口調で話をそらし、遥は海斗の手を繋ぐ。


 自分の心ひとつでは抱えきれない……不安を隠す遥に、浮かれる海斗は気づかない。


「そうだね、行こっか」


 華奢で冷たい手を優しく包み、海斗は遥をある場所へと連れて行く。







 そうして遥が海斗と歩きだした頃、オフィスには環が戻ってきていた。


「待っててくれなかったんだ……」


 ショックを隠せない様子の環は、怒っているというより、今にも泣き出しそうだ。


「きっと何か予定があったんだと思う……服装がいつもと違ったから」


 後から入ってきた橋本の言葉を、環は無視してモニターに向かう。


 橋本は遥のデスクに置かれている書類の束を読む。引継ぎの為に遥が用意した書類だ。


「なぜだと思う? あの人がこんな事をする理由」


 書類から目を離して橋本は環を見つめる。環も一瞬、動きを止めるものの、すぐ我に返って作業に戻る。


「知らない。私、人の気持ち探るとか嫌いなの。隠し事や嘘と同じくらい」


 冷たく接する環、それでも橋本は微笑みをたたえながら穏やかに話し続ける。


「俺達を仲直りさせたいんだ、ピンチを作り出して協力させる事で。そうすればチームの結束も固くなるし、嫌になったら我先に辞めようとするスタッフもいなくなる。俺達の為だよ……あの人らしいと、俺は思ってる」


 手を止め、俯いてしまう環をなだめるように橋本は諭す。


「遥さんと、ちゃんと話した方がいいと思う。このまま離れたらきっと後悔するよ」

「わかったようなこと言わないで。あなたに言われたくない」


 環は表情を変えずモニターに向かう。言葉から読み取れるのは、はっきりとした橋本への拒絶。


 以前は仲睦まじかった二人、でもある事件をきっかけに関係は壊れてしまった。今の二人の間には、仕事上、必要最低限の会話しかない。


 それでも、橋本は伝えることをもう諦めなかった。


「絶対、後悔する……これは俺じゃなくて遥さんの言葉だ。誰とも向き合おうとしなかった俺に、あの人が教えてくれた」


 環はずっと黙ったまま、でもしっかり橋本の言葉を聞いている。無愛想で口下手で心が読めない人……環はずっとそう思っていた。だからこそ知りたくて、笑ってほしくて、振り向かせたくて一生懸命努力してきた。


 彼は変わった……変えたのは遥さん。


 環は初めて、遥に少しだけ嫉妬した。


「遥さんにとって私なんて大した存在じゃないの、辞めると決めたらもうどうでも良い。それに私も……いきなりの事でそれどころじゃないの。今日はもう帰ります、お疲れ様でした」


 たまりかねたように立ち上がる環。


「これからの事は心配しないで」


 優しい、今までに見せたことのない表情を橋本は環に向ける。


「不安だと思うけど、いつも通りでいてくれればいい。精一杯サポートする、その為に戻ってきたんだ。もう元には戻れなくても……どんな形でも側にいて助けになりたい。だから……何も心配しないで、大丈夫だ」


 言葉が、環の胸を締めつける。


 付き合っている間、不安に#苛__さいな__#まれるといつも橋本がこう言って抱きしめてくれていた事を、思い出したから。


 “何も心配しないで……大丈夫だ”


 橋本の声で、言葉で、ぬくもりを感じながら、こう言われると安心できてたまらなく幸せな気持ちになれた。


 いつもなら素直に、胸元に寄りかかれた……でも、今の環は、橋本が見せる新しい愛のかたちを、素直に受け入れる事が出来ない。


 環は何も言わず、立ちはだかる橋本の横をすり抜けて、走り去る。


「みんな勝手過ぎ……」


 走る環の目からは涙が溢れ、声は震えている。







 迷っているのは環だけではなく、遥も同じだった。湧き上がる不安を前に、大切な人からの愛を受け入れられない二人は、少し似ているのかもしれない。


 海斗が遥を連れて行ったのは、高級レストランだった。


 キャンドルの灯りに照らされたムード溢れる空間で二人きり、恋人同士のような時間を過ごした遥と海斗。キスもハグもなくても……幸せな時間に、遥は心揺さぶられていた。


「ありがとね……海斗」

「俺が行きたかったんだ、遥と一緒に」


 優しい微笑み、繋ぐ手の温もりが嬉しくて恥ずかしい。


 私の大切な人がやっと、私の元に帰ってきてくれた。


 横顔をちらっと盗み見、胸がキュンと震える。


 ずっとドキドキさせられっぱなしだった……優しくて完璧なエスコートに二人だけの時間、美味しい料理、それにブーケのプレゼントまで。


 “海斗様が事前にご用意くださった物です、遥様には白が似合うと仰られて”


 ウェイターさんの話を思い出す。


 白いバラのブーケ、その真ん中にはちょこんとチワワが頭を出していた。


 前に海斗に、遥みたいと言われたチワワのぬいぐるみ。初めてのお揃い、私達の新しい思い出。


「どうかした? 」

「ん……何でもない」


 私のは茶色いチワワ、海斗の手には白いチワワ。お揃いねって笑う海斗は茶色いチワワに見えて可愛かった。


「知ってる? あのお店の料理食べると幸せになれるってジンクスあるの」

「そうなの? 」

「うん、調べたら実際に幸せな出来事が起こった人がいっぱいいてね、どうしても遥と来たいって思ったんだ。遥と一緒に幸せになりたいって思って」


 海斗はいつも平然と、心をくすぐるような事を言う。


 一緒に幸せに……それはどういう意味だろう。


 全身が熱くなってくる。


 私もって……素直に言えたらどんなにいいだろう。


 ずっとこのまま……時が止まってくれたら。


「海斗……? 」


 海斗の足が止まった。


 横顔が、正面に……海斗の瞳が、私を見てる。


 瞳に囚われて動けなくて……息さえ、出来なくなりそうで。大きな手に髪を撫でられ、その手が頬に……恥ずかしさに俯くと温もりがそっと、近づいてくる。



「やっぱり遥だ!! 」


 温もりが離れ、甘い雰囲気は一気に消え去る。


「樹梨亜……」

「偶然だね、こんな所で会うなんて」


 突然のことでびっくりしてる海斗にごめんねと囁く。


「遥達もデート? 」

「デ、デートじゃないってば。その……そう、この間話した草野海斗君」

「初めまして、草野海斗です」

「初めまして、遥の友達の佐原樹梨亜です」

「夫の煌雅です。初めまして」


 バクバク響く心臓を抑えながら樹梨亜に何とか紹介をして、挨拶し合うのを複雑な気持ちで見る。


「ご結婚されてるんですね」

「うん、煌雅はパートナーロイドなの。遥から話聞いてない? 」

「はい……」

「ごめんね、話しそびれてて……」

「でも夢瑠とはもう会ったんでしょ? 」

「夢瑠ちゃん……あぁ、この間図書館で」

「面白い子でしょ」

「はい、とっても」


 まさかこんな所で偶然会うなんて。


「そうだ! 海斗君、来週家でパーティーやるの。遥と来てよ」

「いいんですか!? 俺が行って」

「当たり前でしょ、遥の彼氏なんだから」

「ちょっと樹梨亜……」

「どうせ、遥の事だから誘ってなかったんでしょ」

「それはそうだけど……」

「海斗君、遥恥ずかしがり屋だから積極的にね! じゃあ私達もこれからデートなの」


 煌雅さんと腕組みをして、樹梨亜は街に消えていった。言いたいことだけ言って……この間、記憶がない事もちゃんと話したのにと、複雑な気持ちになる。


 煌雅さんと海斗がいなかったら、喧嘩してたかも。


「遥」

「ごめんね……海斗」

「なんで謝るの? 」


 気にしてないよと笑う海斗に、逆だっていた心が落ち着く。


「それよりさ……」

「うん……」

「まだ……時間いい? 行きたい所あるんだ」


 これ以上はだめ、わかってるはずなのに……黙って頷いて、自分から手を繋いでいた。


「俺達もする? 」


 腕を上げて、入り込む隙間を作る海斗。


「は……恥ずかしいよ……」

「そう? 」

「うん、これでいいの」


 一度失って気づいた。


 側にいて笑ってくれる事、それが一番の幸せで……それだけでもう充分だって。

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