可愛いから。

大学が夏休みに入ったと同時に、早朝からのカフェのバリスタのバイトを始めた。昼間には終わるので、午後は図書館で勉強したり、あとはみんなで出かけたりした。ゆうちゃんはいつもの集まりに顔を出さなくなった。例のイベントが色んな会場であって、ほとんど都内に居ないみたいだよ、とたーちゃんから聞いた。


ゆうちゃんの動画はあえて観ないで過ごした。元々そんなに音楽は聴かないし、声を聴いてしまったらまた好きになってしまうかもしれないのが怖かった。

とにかく会う機会がないおかげであたしは平和な夏休みを過ごせていた。

そんな8月のある夜、ベットで映画を観ていたら突然インターホンが鳴った。


時計を見ると0時近い。特に誰からも連絡はきてないし、こんな時間に急に人が来るなんてありえない。他の部屋と間違えてるのかも…。そう思いながら起き上がってインターホンに近づくと、そこにはゆうちゃんが映り込んでいた。


嘘でしょう…?どうしよう。


急に心がザワザワし出す。インターホンの音が繰り返し鳴り響く。気がつくと手が伸びて、キー解除のボタンを押していた。ゆうちゃんが来る…。あたしは部屋を見回す。なんとなく片付いているとは思う。でも、どうしよう、心の準備が何も出来ていない。


『ピンポーン』


しばらく玄関で待機していると部屋のチャイムが鳴った。ガチャリと鍵を解除するとそのまま勝手にドアが勢いよく開かれた。


「おおーー。久しぶりぃー。」


ニヤニヤしたゆうちゃんが玄関に現れる。大きなスーツケースを引きずって。


「どうしたの?」


「え?大阪のイベントの帰り。マジ起きてて良かったぁ。」


ゆうちゃんは悪びれもせず「お邪魔しまーす。」と靴を脱いだ。そのまま遠慮なく部屋に上がり込む。外のムッとした熱気とお酒の匂いを纏って。

あたしはゆうちゃんの後についてリビングへ入った。


「酔っ払ってる?」


あたしが尋ねるとゆうちゃんは振り返って、トロンとした目であたしを上から下まで眺めた。


「なにその可愛い寝巻き。」


ゆうちゃんはいつになく舌ったらずだった。どうやらかなり酔っ払っている。


「大阪からそのままここに来たの?」


「うん。…来ちゃだめだったぁ?」


ゆうちゃんは猫なで声を出した。そして1歩2歩とあたしに歩み寄り、あたしの髪の毛を手に取った。

そしてまた「だめ?」と言い、今度は首を傾げる。

長い前髪の隙間から眠そうな目がねだるようにこっちを見ている。そんな顔しないでよ。忘れようとしていた気持ちが一瞬で舞い戻ってきてしまうじゃない。


「お水飲む?」


なんとか、まともな雰囲気に戻したくてあたしは言った。


「いらなーい。」


今度は囁き声だった。空気をいっぱい含んだ甘いウィスパーボイス。ゆうちゃんは動けなくなったあたしを引き寄せる。まただ、と思った。あたしが苦労して裏返した気持ちを一気にひっくり返して自分のものにしようとしている。いい加減にして欲しい…。腹を立てそうになった瞬間、耳たぶに柔らかいものが触れてきた。


「え…ちょっと。」


ゆうちゃんがあたしの耳たぶを食んでいる。ゆうちゃんのあったかい息が耳元をくすぐってくる。嘘でしょう…?ゆうちゃんの腕は完全にあたしを包み込んで動きようが無い。されるがまま。ゆうちゃんはあたしの耳元をしばらくもてあそんでいた。


「はぁ。美味しかったぁ。」


やっとあたしから身体を離したゆうちゃんは子供のように口元を手で拭う。

身体中の力が抜けてしまったあたしはそのままソファに座り込んだ。右の耳だけがゆうちゃんの涎にまみれてぐっしょり濡れている。


「ねぇ、なんでいきなり来るの?あたしのところに。」


右耳を掌で拭いながらあたしはゆうちゃんを睨み上げた。なんだか腹が立つのを通り越して哀しい気持ちにすらなってくる。今まで自分がどんな思いで過ごしてきたか、この人は全く分かってない。


「えぇ?なんでって。あれ!なんか怒ってる?」


ゆうちゃんがとぼけた表情であたしの顔を見る。そして隣にどっしりと座ってきた。また近い距離感。それに少しだけ慣れてきている自分。目の前にゆうちゃんの顔がある。退色していつもよりすこしだけ明るい髪の色が夜なのに眩しく感じる。さっきまで真っ暗な部屋で静かに映画を観ていた平和な時間はもうすっかり消えて無くなってしまった。


「なんであたしのところに来るの。」


必死で忘れようとしていたのに。消しては現れてくるゆうちゃんの残像と甘い声と、あたしはずっと闘っていたのに。


「だって可愛いんだもん。」


「………。」


「さやは可愛い…。」


ゆうちゃんの喉から吐き出されたウィスパーボイスが耳から入り込み脳を侵食していく。

ずるい。ゆうちゃんのたった一言で大事な何かが解けて行ってしまう。ゆうちゃんは、ずるいよ。


目の前にゆうちゃんの顔がある。キスする前に流れていくこの一瞬の時間すら、溶ろけるようにゆうちゃんは楽しんでいる。甘く追い詰められて、あたしはもう自分の気持ちから逃げる理由がどこにも見当たらなくなってしまった。


「さや。」


ゆうちゃんがあたしの名前を呟く。そしてそのまま唇を塞いだ。あたしは諦めてゆうちゃんの背中に腕をまわす。多分、はじめて名前を呼ばれた。知ってたんだ、あたしの名前。あたしはそんな事を考えながらゆうちゃんのキスに応えていた気がする。

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