第22話 スパーリング

 ミントは楓の持ってきた服に着替えた。コスプレみたいな服装だと目立ってしまう。黒いTシャツにデニムというシンプルな格好のミントは、見慣れないせいか俺たちの目からは違和感満載だが、これで人混みに紛れたら悪目立ちすることはないだろう。

 ダンゴムシたちは出かける間際、ついでに当面の生活に必要なものを買ってくる、と言って出て行った。店からそのまま出てきたので、俺たち夫婦以外は手ぶらの状態だ。着替えの類を持ってきていない。ダンゴムシやミントの家を見張られてる可能性を考えると、家に取りに帰るのはリスクがある。ロイホの分の着替えも、ダンゴムシたちに頼んだ。上野であれば、アメ横や丸井があるから、充分に買い揃えることができるだろう。

 ロイホはあまりファッションに興味はない。細かい注文はせず、サイズがMであることだけを告げた。そう言えば、楓の弟の樹は、ブランド物ばかり着ていたことを思い出した。


「そう言えば、新しい人、こっちに何時ごろ着くんですかね」


 ロイホはパソコンを見ながら独り言のように言って、またカタカタとキーボードを鳴らす。


「飛行機だと香川から1時間ちょっとですね。高知からの移動と、羽田からの移動を考えると、遅くても6時くらいには着くんじゃないですかね」


 ロイホはネットで四国から東京までのアクセス時間を調べて言った。


「本当に、その人、来るのかなぁ」


 楓は首を傾げながら、部屋を行ったり来たりしている。そして俺に近づいてきて服の臭いを嗅ぎ、「ここでタバコ吸ったでしょ」と言ってきた。バツが悪くて俯くしかない。


「今日のシンちゃん、カッコイイね」


 不意に褒め言葉が来たので、気恥ずかしくて更に俯く。視線を逸らすと、口に手を当てて笑いを堪えているロイホの姿が視界に入った。俺と目が合うと声に出さずに口の動きだけで何かを言った。何と言ったかは判別できなかったが、俺をやかす言葉の類だ。イラッとして睨むと、咳払いをして平静を装った顔でまたキーボードに向かった。

 年下のくせに、どうも俺を小馬鹿にするようなところがある。イラつきと恥ずかしさと気まずさが入り混じった妙な気分だ。さっきまでの掴みかけた覚悟の感触が離れてしまいそうになる。イラつきはロイホだけでなく、ロイホがいるのにこのタイミングで変なことを言う楓に対しても感じた。


 俺の肩に何か当たった。振り返ると満面の笑みの楓が、パンチンググローブを手にして立っていた。


「はい。スパーリング」


 グローブを受け取ると、楓はスパーリングミットを装着した。俺の鈍った体を鍛え直そうと言うのだ。

 渋々グローブをめると、楓はパンッと両手のミットを叩いて音を鳴らした。


「はい。ワン、ツー!」


 俺はソファに張り付いてしまった重い腰を上げ、楓にならって構えた。右の拳を硬く握り、脇を絞り、右腕を振り出した。

 楓のミットにぶつかると、ペコッと変な音がした。力の入れ具合が思い出せず、変な力が入り、手首と肘が痛くなった。痛みのせいで、左のパンチは更にヘナチョコなパンチで、ミットに擦る音しかしなかった。

 手首を振り、肘を摩った。楓は腰に手を当てて、


「だいぶ鈍ってるね。やり方は間違ってないのよ」


 と言った。そして、またミットをパンッと鳴らす。


「体は覚えてるはずよ。むかしダンゴムシに鍛えられたでしょ。体が思い出すまで、はい、ワン、ツー!」


 俺は楓の言われるままスパーリングを続けた。始めは痛めた手首や肘が痛かった。そこに負担をかけないように足や腰の動きをつけて、痛めた手首や肘を庇う。何度かやり続けているうちに、最初は腕の力だけで殴っていたことに気づいた。足の踏み出しに意識をした。腹に力を入れた。腰の回転を加えた。


「口が開いてる!奥歯を噛んで!」


 歯を食いしばった。首に力が入った。呼吸を整える。息を吸って、口を閉じ、歯を食いしばってから、足、腹、腰に力を入れた。足の指先から筋肉収縮が順を追って上に這い上がり、拳に力が集中する。パシッと綺麗な音が鳴った。

 体の細胞が研ぎ澄まされていくのを感じる。「今のもう1回!」続けて同じような動きを意識したが、今度は少し掠る男。パンッと、また楓はミットを鳴らす。「間違ってないよ!」何も考えずに同じことを繰り返す。左の手首がクニャッとなった。瞬時に危険を感じ、腰を引いて衝撃を和らげ、手首は痛めずにすんだ。「惜しい!」パンッ。ミットの音。


「大丈夫!体は覚えてるよ。もう1回!」


 俺は体の筋肉、全細胞に語りかけた。思い出せ。思い出せ。

 足先から力が昇ってきて、全身を通り、拳に流れる感じ。赤い玉をイメージした。ズバン!右のストレートがクリーンヒットし、今までにない綺麗な音を発した。それに満足してしまい、左がやや弱いパンチを繰り出し、また掠れた音。「んー、惜しい!」

 踏み込んだ左の爪先の赤い玉が、体を昇って右の拳に流れるイメージ。右の拳に流れた赤い玉はミットに当たると共に弾け、続いて青い玉が次に踏み込む右足の爪先に生まれる。腰、腹を通過し、左腕に流れてミットで弾ける。パンッ、パンッとリズミカルにいい音が出た。


「今の調子!もう1回!」


 だんだん楓が丹下段平たんげだんぺいに見えてきた。汗が目に入る。パンッ、パンッ。


「ラスト!」


 ラストと聞いて、今残っている体力を全部乗せた。ズバンッ、ズバンッ。楓が少しよろけた。俺はもうクタクタになって、左ストレートの後そのまま床に寝転んだ。Tシャツが汗で肌に張り付いて、首からダラダラと汗が流れた。身体中の毛穴が広がった状態だ。


「5分のスパーリングで根を上げちゃダメよ」


 5分?もう30分以上やってるかと思った。

 喉の壁が張り付いて、息を吸うと、ヒュィッと変な音が鳴った。無駄に咳き込む羽目になった。咳き込むと、腹、腰、胸の筋肉が悲鳴を上げた。顔に熱湯をかけられたように熱い。顳顬こめかみの血管が波打って、顔全体が鼓動しているようだ。顔面を通る血が沸騰して暴れている。このまま顔が爆発するのではないかと思うほど波打っている。鼻の奥がジンジンする。顔面で火山が噴火したみたいだ。流れる汗が顔を冷やす。


「さっきより、顔、デカくなってません?」


 床で横になっている俺を覗き込むようにして、ロイホが小馬鹿にした笑みを浮かべて言った。

 そうだった。俺は顔が腫れていたんだ。顔が爆発しそうなのは比喩ではなくて、本当に爆発するのかもしれない。


「ほら、そこの笑ってる人。アンタもだよ!」


 指名されたロイホは露骨に嫌な顔をした。それでも楓の は無言でロイホを凝視する。有無も言わせぬ態度に、反論できる余地はないと受け入れ、俺に手を差し出してきた。俺は残っている僅かな力で重い体を動かし、グローブを外した。ロイホは渋々、グローブを受け取った。


「アンタ、若いから7分ね」


「マジっすか!」


 仁王立ちしている楓の前で構えて、ロイホのスパーリングも始まった。

 ロイホのスパーリングが終わり、15分のインターバルを入れ、それを3セットこなした。3セット目では、俺は立っているのがやっとで、フラフラしながらのヘナチョコパンチを繰り返したが、それでも途中でやめてくれることはなく、5分後には膝から崩れ落ち、両膝が痙攣していた。自分の意識とは無関係に膝が笑うので、笑いが込み上げてきた。でも、腹の筋肉が痛くて小刻みに震えるだけの笑い声を、並んで横たわっているロイホが不気味なものを見る目を向けてくる。


「ワタシも体力、落ちたなぁ」


 トレーニングを続けていただけあって、楓は床に横たわることはなかった。しかし、椅子に座った楓は、肩が上下していた。さすがに息は上がっているらしい。スパーリングは俺が付き合わなかったから、筋力トレーニングしか続けられなかった。対人のトレーニングだと、疲れ方が違うらしい。久しぶりのスパーリングに、楓は清々しい顔をしていた。

 冷蔵庫のミネラルウォーターで給水し、しばらくの休息。小刻みに震える腕でペットボトルを持ち上げても、口のところまで腕が上がらない。口を尖らせて、ペットボトルの方に顔を寄せていくしかない。まるで、お爺ちゃんだ。

 ほんの10分ほど座っていただけで、楓は立ち上がり、シャドウボクシングを始めた。妻は体力の底が尽きることを知らないのか。


 30分くらい横になったままでいると、若干体力が戻り、体を起こすことができた。背中を伸ばすと、腹の筋肉が千切れそうに痛い。身体中の筋肉が強張っていて、スムーズに動かすことができない。

 筋肉が固く縮こまっているように感じる。強力なゴムみたいだ。腕や足を伸ばそうとしても、ビョンと引き戻されてしまう。仕方なく、全部の関節を軽く曲げた状態にしていないと体勢が保てない。隣を見ると、ロイホも同じような状態だ。両肘、両膝を軽く曲げた状態で寝転んでいた。こっちは赤ちゃんみたいだ。


「キツいけど、たまには体動かすのもいいかもなぁ」


 赤ちゃんの大勢のまま、ロイホは天井を見ながら独り言を言った。君は若いから、そんなことが言えるんだよ。こちらは後で襲ってくるであろう筋肉痛を、今から恐れているのだ。


「そうだよね。体動かすのって、いいでしょ」


 楓は爽やかな笑顔で、ロイホの独り言に答えた。とても、いい笑顔だ。悪い予感しかしない。今までで妻の笑顔を、こんなに恐ろしいと思ったことはない。


「さあ、2人とも。立って。あと2セット!」


 俺たちが交代で休憩を入れつつ3セットやったと思っていたことは、楓にとってはそれが1セットだった。頼む、ダンゴムシたち、早く帰ってきてくれ。


 7時を過ぎたあたりで、ダンゴムシたちが紙袋を抱えて帰ってきた。1番大きいのはファストブランドの紙袋だったが、女性陣の持つ紙袋はそれなりに有名なブランドのものだった。こちらが楓にシゴかれている最中、適度に買い物を楽しんできたようだ。

 結局、3が終わると、まだダンゴムシたちが帰ってこなかったので、おまけの1セットが加わった。計4セットが今終わったばかりだ。


「なんだ、お前ら。セックスしてたのか」


 汗だくの俺たちを見て、ダンゴムシが呑気に冗談を言った。

 笑えない!こっちは身体中が千切れそうになっているというのに!



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