第13話 顔

 朝、顔面の鈍痛で目が覚めた。顔の中央に、顔面全部の皮膚が引っ張られている感じがした。視界が狭い。普通に目を開いただけなのに、視界に鼻が侵入してくる。鏡を見なくても、顔面が腫れていることはわかる。

 それでも洗面台に行き、鏡で顔を確認した。想像以上に腫れていて、鏡に映ったのが他人に見えた。鼻を雑に覆ったガーゼが小さいのか、ガーゼを喰み出したところまで腫れてしまったのかわからないが、ガーゼのテープが剥がれて鼻の上に乗っているだけの状態だった。眉間が腫れ上がっているせいで、目と目が離れてしまっている。全体の血色が悪く、青紫になっている。上唇まで腫れ上がり、触っても感覚がない。


「昨日より腫れてるね」


 リビングに行くと、既に楓はいつものトレーニングウェアでウェイトリフティングしていた。昨日のことで落ち込んでいるかと心配したが、いつもより重たい荷重をかけてトレーニングしていた。いや、むしろいつものルーティンをすることで、平常心を取り戻そうとしているのだろう。


 ダンゴムシはリビングのソファで寝ていた。ダイニングテーブルの上には、空き缶とスナック菓子の袋が置かれていた。昨夜のことを3人で話していたのか。俺はというと、ドクターから貰った鎮痛剤と謎の薬を服用した後の意識がない。あれは睡眠薬だったのだろうか。だったら先に薬を飲ませてから詐術してほしかった。あの激痛を思い出すと、また体が震え出してくる。


「起きたか。だいぶ男前になったな」


 ダンゴムシがいつの間にか起きてきた。嫌味な冗談を言うのは、むかしからだ。ポケットからタバコを取り出すと、楓が注意した。


「だから言ってるでしょ。うちは禁煙だって」


「ああ、そうだった。わりい悪い」


 ふわっとシャンプーに匂いがした。鼻の奥が血で固まっているが、ほんの少しだけ匂いがわかった。ルーシーがシャワーを浴びていたようだ。楓の部屋着に着替えてリビングに出てきた。


「俺も現役時代、鼻よくやっちまって、ドクターに直してもらったから。ものすげえ腫れるんだけど、その方が早く治るんだよ」


 なのか、よくわからないが、今顔面が腫れ上がっているのが現実なのだ。この顔を里穂が見たら驚くだろう。


「あ、里穂は起きた?学校は大丈夫か?」


「今日は土曜日よ。学校は休み」


 まあ、寝ていることに変わりはない。

 シャワーから出てきたルーシーは、当たり前のように楓と並んでトレーニングを始めた。なんとなく似ている。楓とルーシーは国籍は違うが、だ。


「お前、もしかしたらルーシーに惚れたか?」


 トレーニングする2人を眺めていると、ダンゴムシが揶揄ってきた。


「ははっ、冗談。あれだろ?俺の嫁のこと、もっとだと想像してただろ」


 否定できなく、頷くしかなかった。


「お前と、おんなじだよ」


 ダンゴムシが日本に帰ってきた理由を聞いた。ビール製造を覚えられなかったことは事実だが、本当の理由はダンゴムシが丸くなってしまったからだと言う。それは渾名の理由じゃないかと突っ込みたくなったが、そうではない。ダンゴムシの性格が丸くなってしまったのが、ルーシーには受け入れられなかったらしい。

 殺し屋を辞めてドイツに来たことに最初は喜んでくれた。暴力の嫌いな義父は、ボクサー時代からダンゴムシのことを認めていなかった。義父に認められるために家業のビール作りの修行をし、ここ2年の間は義父との関係は良好だったという。

 たが、ルーシーは違った。どんどん丸くなっていく穏和なダンゴムシに不満を覚えた。ボクサーや殺し屋の時の気迫が、ダンゴムシの本来の姿だと。それで1年ほど前から、ドイツでルーシーと2人で『殺し屋』の仕事を始めたらしい。それが義父に見つかって勘当されたのだそうだ。


「殺し屋をやっていたことが、離婚した理由だと思ってました」


 俺は正直に言った。それをダンゴムシは鼻で笑った。


「その逆。ああいう感じだからな。よええ男は嫌いなんだよ」


 なんか俺のことを言われてるような感じがした。楓も俺のことを弱い男だと思っていないだろうか。俺の考えていることはダンゴムシには見透かされていた。ダンゴムシは笑いながら俺の肩を叩いた。


「大丈夫だよ。リトルハンドはお前さんのこと、ちゃんと男として頼りにしてるんだとよ」


「いや、それはお世辞というか社交辞令みたいなもんじゃないですか。実際、俺、弱いですし」


「あの4年前の襲撃の時、お前のソバットは本物だったぞ。俺が倒せなかったあの相手をお前は倒したんだ。あの時、リトルハンドはお前のことを惚れ直したんだとよ」


 そう言われて照れてながら、楓の方に目を向けた。

 彼女は一通りのトレーニングを終え、汗を吹きながら俺の顔をマジマジと眺めた。トレーニングし終えた楓の火照った頰が、いつにも増して愛おしく感じた。


「シンちゃん」


「なんだよ」


 少し意識してしまい、芝居がかった低い声を出してしまった。


「顔、蟹の甲羅みたいだよ」


 涼しい顔で言い放つと、里穂起こしてくるね、と目の前から去った。なにか勘違いして意識してしまった自分と、腹を抱えて笑っているダンゴムシに無性に腹が立った。


「悪かった。ゴメン、ゴメン。でも、マジで顔、甲羅みたいだぞ。アイツ、センスあるなぁ」


 体裁が悪い。俺は無表情を保ち、ダンゴムシの笑いが収まるのを待って、話題を変えた。


「昨日のことなんですけど、あの反社の連中、これだけで終わるわけないですよね」


「そりゃあそうだな。だけど、昨日の連中。アレは反社の連中じゃねえぞ」


 予期せぬ返答に戸惑った。


「反社じゃないって。井上誠と関係ない連中なんですか?あ、井上誠っていうのは......」


「おう、昨日の経緯はリトルハンドから聞いてる。昨日の2人の動きは訓練を積んだ奴らだ。多分、軍隊とかにいたんじゃねえか」


「軍隊ですか?」


 軍隊、と聞いてあの香川警備保障の連中のことを思い浮かべた。警察OBの人間が経営し、そこに勤める警備員は鍛え抜かれた精鋭が集まっていた。またあの死闘を繰り返さなければならないのか。井上誠というのは、そんな連中との繋がりまであるのか。


「ただな、その井上誠という奴に関わりがあるのかわからねえ。怪しいのは、依頼人の女だ」


 そう言われてみれば、俺たちがあのホテルに行ったことを知っているのは、俺たち以外では依頼人の常盤麗子だけだ。


「その依頼人の顔とか見れるものないか?」


 昨日、常盤麗子を応接したスタッフルームには隠しカメラが設置してあった。依頼人の態度や、話の内容をもう1度チェックするためにカメラは仕掛けてある。昨日は、それをチェックしなかった。

 俺はダンゴムシを連れて1階のスタッフルームにカメラを取りに降りた。

 ダンゴムシはカメラからSDカードを抜き取り、パソコンを探した。顧客情報が入っているノートパソコンは、盗難を防止するため、住居の方に持ち帰っていた。また住居の方に戻った。

 ノートパソコンを開き、SDカードを挿入した。昨日、スタッフルームに通した客は常盤麗子1人だったので、映像はすぐに見つけ出せた。

 しばらく映像を見ただけでダンゴムシは、胡散臭えなぁ、と首を傾げた。


「お前ら、こいつ見てなんにも思わなかったのか?勘が鈍ってんじゃねえか」


 これには俺も楓も、言い返す言葉がみつからなかった。











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