第8話 久しぶりの内偵
「この車、そうじゃねえか?」
俺たちは清掃員の服を着て、品川のホテルの地下駐車場にいた。俺はハンドル付きの床清掃機を操作しながら、インカムに向かって楓に声をかけた。目の前を通過した黒いセダンが井上誠が乗っている車ではないか、と思った。
『乗ってるのオバサンよ。ただの宿泊客よ』
少し離れたところで清掃をしている楓が、少し冷たい返事をした。まずい。仕事で下手をこくどころか、これじゃあ夫婦の危機だ。
『ちゃんとナンバー見てよ』
明らかに怒っている。井上誠が普段送迎に使っている車のナンバーを、ロイホは事前に調べた。運転手の顔も確認した。忘れないように手の甲にナンバーを書いてある。
本来の『内偵』は、ロイホやミントがネットや聞き込みで調査して、依頼人の証言通りの事実確認をする。だが、俺が本人の顔を見るためにホテルへ行こうと提案したのは、今回の仕事を諦めさせる意味合いの方が強い。実際対象者を見るのは、悪いやつなのか判断する材料にはなる。だが、俺の思惑は対象の井上誠とという人物よりも、彼についているボディガードなどのセキュリティを確かめるため。反社組織の連中が一緒にいれば尚のこと、対峙する相手の大きさを目の当たりにして、冷静になってもらうためだ。
リスクは背負うことになるが、言っても聞かない楓のことだから、本人に確認してもらうしかない。
だが、やっぱり連れてくるんではなかったと後悔し始めている。俺たちは清掃業社に変装して、地下駐車場に潜り込んだ。カートに掃除道具一式と床清掃機を1台用意した。変装の準備をしている段階で、楓はカートの奥に何かを入れていた。多分、麻酔銃か何か。もう『執行』する気満々。ロイホとミントも心配していた。
地下駐車を提案したのも俺だ。井上誠みたいな調子に乗った奴は正面エントランスから入るのではないか、と言い張る楓に、有名人は目立たないよう地下や裏口から入るはずだ、と宥めた。それにホテルに入る時間がわからないから、張り込みをしなければならない。長時間になってしまった場合、正面エントランスだとリスクが高すぎる。人の目も少ない地下で張るのが有効だと訴えた。じゃあ、正面エントランスと地下を1人ずつで見張ろうと言い返してきたが、1人で清掃をしているのは不自然で、何かあった時に1人だと対処できないと、俺も返した。
ロイホと口裏を合わせて、ロイホの調査の結果、井上誠はいつも地下から入ることが多い、という嘘の情報を伝え、なんとか楓を言いくるめた。
実のところ、俺も楓の言う通り井上誠は正面エントランスから入る確率の方が高いと思っていた。あんなにテレビで話題になるような奴は、きっと目立ちたがり屋だろう。正面から堂々と入って、地下駐車場にはお抱え運転手が車は停めにやってくるだけだと思う。
若いうちに成功してしまったために、危機管理もまともに考えてはいないに決まっている。ボディガードを雇えば、事足りてるとしか考えてないんじゃないか。
要は井上誠が来る確率が低い方の地下駐車場で、張り込みをしているというわけだ。対象者が来ない方がいい。楓には、冷静になってもらうというよりも、諦めて欲しいという気持ちの方が強い。
車の出入りが激しくなってきた。俺が掃除している近くに停車した車から、ガラの悪い連中が降りてきた。彼らが井上誠と付き合いのある反社組織の可能性が高い。他にも車が入車し、スーツの男たちがぞろぞろと地下エントランスに向かっている。
『ちょっと、なに、これ』
楓は気づいたようだ。
俺も5分ほど前に確認した。井上誠の車は既に入車していたのだ。車体はまだ暖かかったので、停めてからそう時間は経っていない。やはり井上誠は正面エントランスで降りて、車だけ駐車場に降りてきたというわけだ。俺は車のナンバーは確認したが、楓に知らせなかった。時間を稼ぐためだ。
『シンちゃん、上よ。急いで!』
楓は、井上誠の車があることを確認して、上のエントランスへ向かえ、と言っているのだ。地下エントランスから入ってエレベーターで向かうわけにはいかない。地下エントランスにも従業員が立っている。清掃員が清掃道具を放っておいて、エレベーターに乗るのは不自然だ。駐車場入り口までのスロープを駆け上がって、正面エントランスに行く道しかない。
事前調査でわかっていたことは、井上誠たちの会合は24階のホールで行われること。エレベーターは24階まで直通で、フロアを貸切にしているため、部外者は24階で降りることができない。彼らと接触できるのは正面エントランスからエレベーターに乗る前のロビーまでということになる。井上誠たちがロビーか1階のラウンジでのんびりしてなければ、間に合うはずはない。
結果、俺は楓を騙したことになる。
薄暗い駐車場をスロープに向かって走る楓の姿を見つけた。腰元を片手で押さえて走っていた。多分腰元に麻酔銃を捻り込んだのだろう。そんな物騒な物を落としたら、どんな言い訳を言ったって通じないだろう。
カートの中に残しておくよりはマシか。
俺は必死に足を前に出すが、体の衰えは否定できない。距離は、ほんの数十メートルなのに楓との差は縮まるどころか広がっていく。日頃のトレーニングを怠らない楓との体力の差は歴然としていた。
このクソ暑い夏の真っ只中に、長袖の作業服を着て走ると、すぐに汗をかいて生地が肌に張り付いた。地下エントランス近くは、室内の空調が流れてきて若干涼しかったが、スロープに近づくにつれ空気が温くなってきた。
スロープを照らすライトで入り口付近の柱で影ができている。
一瞬、楓の姿が見えなくなった。柱の影に隠れたのかと思ったが、もう1人の人影が見えた。
しまった!
インカムからは、くぐもった声と雑音。『どうしました?』慌てたロイホの声。
楓を背後から羽交い締めにする男。黒い服の男。
黒いワンボックスのスライドドアが開かれている。男は楓を車に引き摺り込もうとしているのだ。
『逃げてー!』楓の声。男に口を押さえられた。
助けなければ!
クソ!足が思うように動かない。必死に足を蹴り出しているのだが、体が重い。トレーニングを怠っていたことを今更後悔しても遅い。楓は手足を広げて、車に乗せられまいと必死で抵抗している。もっと足動け!
楓!と叫ぼうとした時、タタタタタッと俺の背後で音が鳴ると首筋に激痛が走った。焦げ臭いが鼻を掠め、眩暈がし、目の前が暗くなった。
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