第4話 大きなバッグ
ウインドウ越し、男と目が合った。俺に気づき、男が会釈をした。俺は店の扉を開けて、顔だけ外に出して、その男に声をかけた。
「また、お前か」
男は顔を崩して、照れたように頭を掻きながら笑った。
「すみません」
以前、俺がサラリーマンだった時の部下の小林だ。
「あ、小林さん」
楓は呑気に小林を招き入れた。ミントも裏に入り、アイスミントティーを準備し始めた。小林は遠慮せず、当たり前のようにお客様用ソファに腰掛けた。
「お前、仕事は?」
「へへ、外回りです」
小林は、俺たちがサロンを始めてから、半年に1回くらいのペースで、アポも取らずに突然遊びに来る。いつも営業での外回りを理由に、うちで仕事をサボるわけだ。小林の務める会社は、はじめは小さな印刷会社だった。紙媒体の不況により異業種に参入し、今はコスメのネット販売や法人ソリューション事業など、よくある訳の分からない総合的な会社になっている。俺が在籍してた時よりも、会社は大きくなったようだ。
「契約も取れない外回りばっか行ってるから、出世しないんだよ」
「いやいや、それが俺、係長になったんすよ」
この若造が係長なんか務まるのかと思ったが、考えてみたら小林ももう30歳を過ぎている。それなりに役職が付いたっておかしくない年齢なのだ。時が経つのが早い。
「それで、今日はその報告か?」
「違うんですよ」
そう言って口を押さえて、笑うのを堪えている様子。
「じゃあ、なんだ。また、柏原さんの話か?」
柏原とは、俺が勤めていた頃のパートのおばさんで、俺が退職した後は会社が大きくなったタイミングで正社員になったと、小林から聞いていた。俺が会社を辞める発端になったババアだ。
とにかく難癖つけて、パートのくせに自分都合で会社規則を破ったり、ヒステリー起こして周りに迷惑かけるような人物だった。正社員になってからは、更に威張り散らし、好き放題やっているのだそうだ。
「いや、それも違うんですよ。違うって言うか、その......」
またニタニタ笑っていて、気持ちが悪い。そう言えば、と楓が話題を変えた。
「そう言えば、小林さんって動物苦手じゃなかった?」
「いや、苦手ですよ」
「うち、ワンちゃんやネコちゃんばっかりじゃない。平気なの?」
「檻に入っててくれれば大丈夫ですよ。ここへ何度か来てるうちに、ちょっと慣れてきて犬や猫なら少し大丈夫かな?」
「じゃあ、抱っこしてみます?」
と、ミントがミミちゃんを抱えてきて、小林の膝の上に乗せる仕草をして
「いやいやいや、抱っこはダメです。全然無理!基本、人間以外の生き物は無理っす!」
「なんだぁ。ここへ来るようになって、もしかしたらネコちゃんとか飼いたくなったんだと思った」
ミントが態とらしく、ガッカリした顔をした。
「お前、虫もダメだよな」
「虫は無理っす!あと1番ダメなのは爬虫類。ヘビとかトカゲとか、もう見ただけで全身の力が抜けちゃいます!」
そう言ってソファの上で震え上がった。
「で、なんだよ。結婚の報告にでも来たのか」
俺は揶揄ったつもりだったが、意外にも小林の顔が真顔だった。俺たちは身を乗り出して、小林を質問攻めにした。相手は誰だ、いつから付き合ってたんだ、とか。
「あの、その、順を追って説明しますと、柏原さんと」
俺たちの早とちりだったか。また柏原のババアの愚痴か。俺以外、柏原のことを知らないのに、小林がここへ来ればその話ばかりなので、各々の頭の中でそれぞれの憎き柏原像ができあがっていた。そして、若き(もうそんなに若くはないが)訪問者のつまらない愚痴が始まると、全員が落胆した。
「あることで、また柏原さんと揉めたんですよね。そしたらあの人、更年期障害でしょうか、またヒステリー起こしたかと思ったら急に倒れちゃって。今までそんなことなかったから、社員全員慌てちゃって。とりあえず救急車呼んで、ことの発端はお前だからお前がついて行けって、俺も救急車付き添うことになっちゃったんですよ。一応家族にも連絡して。ニートの息子がいるのは聞いてたんで、どうせ電話出ないだろうなと思ってたら、やっぱり出ないし。旦那さんの電話番号も知らないし。あ、でも総務の方では緊急連絡先として旦那さんの携帯番号は把握してたからいいんですけど」
なんだか長ったらしい話になりそうだと、みんな飽きてきて、ロイホはパソコンに向かい、楓とミントは預かっているペットたちのブラッシングを始めた。俺だけすることがないから、黙って聞いてあげるしかない。
「なんか不正脈で倒れちゃっただけらしんですけど、大事には至らないという話だったんですが、なんで身内じゃないのに俺が先生の話聞かなきゃならないのかなと思いつつ、看護師さんに目を覚ましましたよって言われても、俺が行くとまた揉めて倒れちゃったりしたら困るじゃないですか。そのうちに会社が連絡してくれた家族が迎えに来て」
こいつの話は、まるで文脈がなく何を言いたいのかわからない。楓とミントに至っては、全く興味がなくなり、サロンの方で午後の予約の準備をし始めていた。
「そしたらね。柏原のババア、あんなジャバ・ザ・ハットみたいな顔してんのに、本当に親子かって思ったわけですよ!」
「なんの話をしてるんだ」
「いや、だから、その、柏原さんの......」
「はぁ?まさか柏原さんと付き合ってるとか言わないよな」
ふざけて言ったつもりだったが、小林はコクンと頷いた。ロイホはパタンとパソコンを閉めて、興味深々で身を乗り出してきた。
「小林さん、それ、マジですか。喧嘩しているうちに愛が芽生えたとか、それ、メッチャ面白いですね」
なになに?と楓たちまでやってきた。ここで初めて俺たちが勘違いしていることに気づき、小林は慌てて訂正した。
「違う違う違う。そうじゃなくて、柏原さんの娘さんと付き合ってるんです!あのババアと付き合うわけないじゃないですか」
なーんだ、と期待した展開ではないことに楓はつまらなそうに呟いた。
「あのババアの娘ですよね。ブスでしょ」
ロイホは柏原の顔も知らないくせにブスと決めつけている。俺が言うのもなんだが、失礼なやつだ。
「だから言ってるじゃん。本当に親子なのかって思ったって。あのババアから想像もできないくらい可愛いんですよ」
「へー、どんくらい可愛いの。芸能人で言うと誰似?」
「えっとね。橋本環奈とか、広瀬すずとか」
「嘘だね。そんな子いるわけないじゃん。第一その2人自体似てないでしょ」
ロイホは小林にタメ口で喋っているが、6、7歳くらい差があるはずだ。それについて小林も気にしていないようだ。ここへ来て4年ほど、その間に2人とも仲良くなったようだ。
「それくらい可愛いんだって」
「本当かなぁ?」
ロイホの軽口に、小林はムッとする。若い奴らの恋の話はほのぼのとしてくる。もうオッサンの域に達している俺には、くすぐったいような話だ。ミントはその様子を微笑ましく眺めていた。童顔とアニメのコスプレのような服装で忘れてしまうが、彼女は俺と同じ歳なのだ。小林たちの会話を見ている目が、親の目だ。
「でも、そんな仲の悪い人と自分の娘が付き合うなんて言ったら、親としては気が気じゃないわね。もしかしたら、それのことで悩んでるんですか?」
さすが、ミントは親の方の目線だ。柏原のババアが絶対許さないのに決まっている。きっと小林は、それの相談に来たのだ。
以前、小林は俺たちの『殺し屋』の仕事を、どこからともなく嗅ぎつけてきたことがあった。それ自体は確証もなく、本人も俺たちがまさか本当に『殺し屋』だとは思ってもないだろうが、あろうことか柏原の殺しの依頼までしてきた。まあ、腹が立って勢い任せで言ったことで、本当に殺しを依頼するつもりはなかったのだ。
それにしても、どうして俺たちのことを『殺し屋』と結びつけたのだろうか。それが謎だ。こいつは変な勘というのか、根拠もなく突然ものを言い当てたり、妙なタイミングで居合わせたりする奴なのだ。運が良いのか悪いのか。多分、運がいいのだろう。特別努力しているわけでもないのに係長になったり、柏原の娘との運命的な出会いがあったりするのだ。本人が意識してないところが、彼らしいと言えば彼らしい。
「いや、ミントさん。それがね、俺が係長になんかなっちゃったもんだから、ババアが優しいんですよ。それに、『アンタは命の恩人だから』なんて言って、救急車付き添っただけなんですけど。最近、急に丸くなって」
「ダメですよ。もしかしたら義理のお母さんになる人のこと、ババアなんて言ったら」
「そうなんですよ。そのババア、じゃなくて柏原さんに妙に気に入られちゃって。まだ付き合って半年くらいなんですけど、柏原さんに娘さんと付き合ってることを打ち明けたら、『じゃあ結婚しちゃいなさい。アンタだって、もう結婚してもいい歳でしょ』なんて。最近じゃあ、家に呼ばれて夕飯まで作ってくれちゃって。食事中に『うちの娘と付き合ってて、浮気なんかしたら許しませんよ』なんてちょっとキツイ冗談まで言うんですよ」
あー、そうだった。むかし、小林が会社の子と付き合ってるのに、合コンか何かで知り合った子との浮気現場を柏原のババアに目撃されて、次の日会社で言いふらされたことがあった。たしかその揉め事に巻き込まれて俺が仲裁するような立場で、我慢ならずに俺がキレてしまったのだ。そんなことも思い出してみると、今は懐かしい。
「小林さんは、結婚したくないんですか?」
「いやぁー、それが実際、結婚するんですよ。ちょっと早い気もするけど」
「えー、よかったじゃないですか。おめでとうございます。じゃあ、今日はその報告を浅野さんに?」
ミントは人前では、俺のことを浅野さんと呼ぶ。だが仲間内では先代が付けた渾名の『アサシンさんと呼んでいる。俺の名前が浅野真一で、略してアサシン、殺し屋という意味だ。
「そうなんです。そこで結婚式なんですけど、浅野さんにも、ぜひご出席していただけないかと。それと来賓で、ちょっと喋ってもらえないかなぁ、と」
俺をそっちのけで話が盛り上がっていたかと思っていたら、急に話を振られた。
「え?俺が?会社の人も来るんだろ。嫌だよ」
「えー、そこをなんとか」
小林は、懇願するように頭を下げて手を擦り合わせた。
「シンちゃん、喋ってあげなよ。なんて言うんだっけ、そういうの、んー、
「楓さん。それ、お葬式のやつです」
ロイホが楓の間違いに突っ込む。
「上司でもないし、友人でもないし。どの立場で喋ればいいんだよ」
「ねー、そういうの、なんて言うんだっけ?」
「祝辞ですよ」
「それそれ」
他愛のない話で盛り上がっていると、店の扉が開いた。髪の長い女性が立っていた。大きなバッグを抱えている。その女性は、予約の鳴瀬さんではない。
小林は、客が入ってきたことで、席を譲った。俺は、楓と顔を見合わせた。次にミントに視線を送ると、ミントは「どうぞ」とさっきまで小林が座っていたソファに客を促した。
「サロンのご利用ですか?それともペットホテルのご予約ですか?」
見たところ、大きなバッグを抱えてはいるが、ペットを連れている様子はない。
「あの」と言いかけ、言葉を詰まらせて俯いている。入店した時から顔を上げない。俯いたまま、しばらくの無言のあと、絞り出すように小声で言った。
「ここって、イグアナは預かっていただけますか?」
俺は楓に視線を合わせた。楓は、黙ったまま小さく頷いた。小林は、身を引いて体を硬くし、彼女が持つ大きなバッグを恐怖の眼差しで眺めていた。
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